第32話 おんぼろアパートの謎
俺と椿、そして紅葉ちゃんの三人は依頼人である白根唯さんとともに彼女が住んでいるアパートに来ていた。
それは築五十年近く、相当年季が入っていそうな構造物だった。ところどころの壁にひび割れがみられ、ベランダの鉄柵や手すりが経年劣化で錆びていた。そして、一階の部屋の窓には地面から蔓が伸びている。
「……いうのもあれですが、すごいところに住んでますね……」
椿はそのアパートを見ながらぽっかりと口を空けていた。
しかし白根さんは手を口でふさいで苦笑いしながら答えた。
「私、お金がない苦学生ですから」
白根さんの部屋は二階の一番奥の部屋にある。鉄板で出来た階段も錆が多く、ところどころに、穴が空いていた。歩くとみしみし音がしている。
「……マジで大丈夫なのか、このアパート」
俺の口から漏れ出てしまった感想である。
しかし白根さんは苦笑いして返していた。
「一応、補強工事やってるんですよ」
確かに建設工事のための鉄パイプやはしごが下の階から伸びており、時々ドリルの音がしている。
しかし、こんな状況のアパートを普通に借りられるようにしているとは、大家さんはどんな人なんだろうか。
部屋の鍵をポーチから取り出して古びたドアノブに差し込み、回した。
「さあ、入ってください。ここが私の部屋です」
いわれるまま俺と椿、紅葉ちゃんは中に入った。
「うそ……すげえ……」
思わず俺の口から声が漏れた。
部屋は外のボロアパートとは全く違う光景が広がっていた。
壁紙は白をベースに、菊やタンポポのような花柄が描かれており、壁一面に広がっていた。時計や窓の額縁も付け替えられ、まるで新築のアパートのようだった。
椿も紅葉ちゃんも驚きを隠せないでいた。
とはいえ、椿は気を取り直すと、改めて白根さんに問いかける。
「この部屋、どうしたんですか? すごくきれいですけど……」
「このままだと住めませんからね。模様替えしたんです」
白根さんは常盤市内にある常盤看護大学に通っており、彼女は常盤駅裏にあるこのアパートに住んでいた。このアパート自体は徒歩で大学に行ける場所に立地していた。
研修に明け暮れる毎日で、平日は日付が変わる時に帰ることもざらだった。
部屋もボロアパートらしく、借りた当初は住みたくなかったという。だが、白根さんは家族と一緒に掃除と壁紙の模様替えをした。結果、新築のアパートと変わらない部屋に様変わりしたというのだ。
「住む分には快適なんですけどね。ただ……」
「誰かから見られてる、ってわけですね」
椿が顔を曇らせた白根さんを察したように話を続けた。
白根さんは顔を縦に振る。
とりあえず住むのには困らなくなったがいつの日からか、知らない誰かに見られている。それは、白根さんの切実な悩みであった。
夕方から夜にかけて、たまに部屋のどこからか誰かの視線を感じるという。また、どこからか暖かな風が入ってくるらしい。
これは彼女だけでなく、家に友人や家族を招いたときも言われていた。
「壁紙を張ったときは穴なんて開いてなかったんだけど……」
不安そうな声を漏らす白根さん。
彼女も何度か壁を確認したが、穴が開いている様子はなかったのだという。
「ほかに何か、変わったこととかはありませんか?」
椿が質問すると、白根さんは考え込んだ。
「……不気味といえば不気味なんだけど、二週間、うっかり鍵をかけずに部屋を出てしまったんです。帰ってきたら、誰かが入ってきた形跡があったの」
「え⁉ まさか、覗いてるやつが入ったんですか?」
椿は驚いて目を丸くしている。
しかし、白根さんは微妙な顔をした。
「何かを盗られたわけじゃないんですが、部屋が掃除されてたんですよね。研修が忙しくて平日は掃除もまともにやってる時間ないんですけど」
「それ、一回だけですか?」
椿が尋ねると白根さんは一つ頷いていた。
一方、俺は部屋の周りを観察した。居間には大小さまざまなタンスやベッド、テレビやパソコンが並べられている。
本棚には医療系の本に交じって、昆虫や小動物の図鑑、更にはかわいらしい小さな動物のぬいぐるみや、木彫りのオブジェがきれいに並べられていた。
部屋は掃除され、特に何も散らかってはいない。
「リツさん、どうしたの?」
紅葉ちゃんが顔をのぞかせている。
「いや、なんか穴がないかなって……」
「穴?」
紅葉ちゃんも周りを確認しようとするが、その時あるものが彼女の目に飛び込んだ。
「あ、これ可愛い!」
紅葉ちゃんは目を輝かせながら本棚に駆け寄った。彼女は編まれた小さなハムスターや猫、そして蝶やトンボのぬいぐるみや、アリやホタルのキーホルダーに興味津々だった。
「すごい、これ、全部白根さんが作ったんですか?」
「え、そうだけど……」
白根さんは紅葉ちゃんの隣に進むと、座り込んだ。
「あなたも虫とか動物が好きなんだ」
「はい! 見てて癒されるんですよね。特に昆虫が好きなんです。かわいいなあ」
「ふふっ。そうなんだ。いいよね、かわいいし、色鮮やかだし――」
「目もかわいいですよね」
「そうそう。光が当たるとほんと華やかよね」
俺と椿の先では、紅葉ちゃんと白根さんが昆虫の女子トークに花を咲かせていた。
奇妙な光景である。大人しい性格の紅葉ちゃんが饒舌になっている。
「紅葉ちゃん、虫大丈夫だったんだな……椿とは正反対だ」
そういって椿に顔を向けると、椿は後頭部に手をまわして苦笑いしていた。
「はは……。なんでなんだろうね……」
苦笑いする椿に俺も苦笑した。
とはいえ、部屋を調べないと何も始まらないのも事実。
俺は椿にこの部屋の家具類を動かして調べてみないか提案した。これには椿も同意してくれた。
白根さんには椿が家具を動かしていいかお願いしていたが、白根さんは首を縦に振った。
もちろん、家具を動かす力仕事は男である俺の役割。俺は同窓会の事件以降、毎日筋トレを頑張っている。まあ、あいつらに絡まれたのに何も対抗できなかった不甲斐なさが根底にあったのだが……。
とはいえ、一人で動かすのは不可能なので、椿や白根さん、小さいものは紅葉ちゃんにも手伝ってもらいながら動かして、壁を調べていった。
食器が入っている戸棚を椿とともに動かしているときだった。
ポトリ、と何かが棚の上から落ちる。
落ちたのは写真が入った写真立てだった。そこには、白根さんと若い短髪を茶色に染めた男性が映っていた。笑顔がさわやかな人に見えた。
「あ、ごめんなさい!」
椿は急いでその写真立てを拾うと、近くにあった台に置こうとした。
「大丈夫ですよ。それ、もうしまおうと思ってたんで」
「え、でも……。写真の人って、白根さんのカレシさんでしょ?」
「ま、まあ……」
白根さんはどこか歯切れの悪そうな返事をする。
「……もう、別れましたから。いつまでも残しておくわけにはいきませんからね」
そういった白根さんは、どこか暗さを残した表情を見せた。
俺も椿も、聞いてはいけないことを言ってしまったかと思ったが、紅葉ちゃんの言葉で状況が変わった。
「あ……! お姉ちゃん、じっとしてて!」
紅葉ちゃんが何かを見つけたのか、椿の足元を指さしていた。
「え、紅葉、どうしたの?」
椿が自分の足元に目をやろうとすると、紅葉ちゃんが大声で叫んだ。
「お姉ちゃん、見ちゃダメ!」
「……え……」
しかし、遅かった。
彼女はその目で見てしまったのだ。
赤く、気持ち悪くうごめくその生物を。
――いやあああああああああああああああああああああああああああああああああ‼
声にならない絶叫が部屋に鳴り響いた。




