第31話 美女のお悩み
「うう……寒い……」
雪がちらつく中、俺は茶色いコートを羽織って、商店街を歩いていた。
これから探偵事務所へ出勤である。事務所の中は暖房が効いているはずだから、はやいとこ行こう。
同窓会の殺人事件から一か月。十二月下旬になり、年末年始で周囲が忙しくなるころのこと。
日々の依頼をこなしながら、俺たちは仕事にいそしんでいた。
同窓会の事件の後、俺たちは堂宮刑事とともに、水面下で“人生をやり直せる薬”について追及していくことになった。
刑事さんが言うには、父さんは“人生をやり直せる薬”の事件を極秘に調査しており、堂宮刑事も何度か捜査にかかわった過去があった。警察はなぜかこの薬が絡む事件にはかかわりたがらないが、父さんは人が苦しむ中で事を放置する上司に我慢ならなかったのかもしれない。
しかし、その捜査中に父さんは死んだ。
雨の中の捜査中、何者かに襲われて殉職した。
当時は一人で捜査しており、誰に襲われたのかは不明。現場の証拠は消されたのか残っておらず、今に至るまで未解決のままだ。
しかし刑事は事件に何か心当たりがあるようだ。
――君のお父さんが亡くなった事件に、薬がかかわっていた可能性が高い。直前に白装束の奴らの取引現場をマークしていたからね……
俺はその言葉にぞっとした。父さんの死が、“人生をやり直せる薬”とつながっているかもしれない。この薬の裏には大いなる陰謀が蠢いているかもしれない。
だが、肝心の父さんの情報は何も集まらず、“人生をやり直せる薬” に関する情報も一切集まらない……。
早々に解決できるわけないわな、と自分に言い聞かせるしかなかった。
「おはよう」
ドアを開け、中に入ると……
――きゃああああああああああああああああああああっ‼
声にならない甲高い悲鳴が聞こえた。
思わず心臓に響き立ちすくんでしまうが、すぐ我に返ると俺は走り出した。
「どうした⁉」
ドアを開けると、異様な光景が広がっていた。
ソファの前で白いティッシュを数枚持った女の子――紅葉ちゃんが、しゃがんで何かを注視していた。
「こっちおいで。怖くないから」
紅葉ちゃんは何かに呼びかけているようだ。
ということは、さっきの悲鳴は……。
俺はすぐ左横の事務机に目をやった。机に隠れるように長い黒髪の頭頂部が見えた。
回り込んで確認すると、この「ときわ探偵事務所」の所長である神原椿が、顔を真っ青にして震えていた。
「椿、どうしたんだ?」
「む、む、む、むしがあ……」
「虫? 冬なのに?」
椿が恐怖におびえているのは目に見えて明らかだった。
しかし、そんな震える彼女の声から出た意外な言葉。
「か、か、か、かめむし……」
「カメムシ?」
俺は紅葉ちゃんの方を見ると、彼女はヒョイと手慣れた手つきでそいつをつかみ取った。
「お姉ちゃん、捕まえたよ!」
紅葉ちゃんはティッシュを高く掲げ、俺たちにそいつを見せる。
そいつの身体は木のような黒茶色で、腹から延びている小さな六本の足を必死でばたつかせていた。
だが、椿は見たくない一心で声を上げた。
「は、は、早く窓から出して!」
「わかった」
紅葉ちゃんは窓を開けると、なんとそいつをくるめたティッシュから離して、素手で優しくつかみ、そっと外に開け放った。
「バイバイ。冬はあなたにとって厳しいだろうけど、精一杯生きるんだよ!」
そいつは羽をはばたかせ、寒空の下どこかに飛んでいった。
消えていったのを確認すると、紅葉ちゃんはそっと窓を閉じた。
周囲に沈黙が流れている。
「紅葉……もう、大丈夫……よね」
机の下から椿が恐る恐る顔をのぞかせた。
声が小さく、いつもの彼女ではない。
「うん。あの子がどうなるか心配だけど」
紅葉ちゃんが返答すると、椿は安堵のため息を大きく吐いた。
「ふう、死ぬかと思ったわ……」
なんとか椿は机の下から出た。
俺はただ目の前の光景に立ち尽くすだけだった。
これまでの経緯がよくわからないが、とりあえず虫が探偵事務所内に入って、椿がおびえながら隠れ、紅葉ちゃんが恐れもせず虫をつかみ、逃がしたことまではわかった。
そういえば椿は虫が大の苦手だった。毛虫や芋虫はもちろん、カブトムシやチョウといった割と子供に人気のある昆虫もダメだった。
もぞもぞ動く雰囲気が本当に無理だという。
気が強く、どんな相手にも持ち前の正義感でズバズバ主張できる、椿らしからぬ一面である。
それとは対照的に妹の紅葉ちゃん……虫が平気なんだ……。
紅葉ちゃんは姉の椿とは正反対の性格でおとなしく、しおらしい。そんな紅葉ちゃんは素手で虫を掴み、しかもちゃんと自然に返していた……。不思議なこともあるもんだ……。
驚きながら棒立ちになっていると、さっそく椿のこれまでの事件をなかったことにしたげな声が耳に入る。
彼女はいつもの凛とした表情を無理やり作ると、パンパンと手を叩いていた。
「……さあ、さっきまでのことは忘れて仕事始めるわよ」
俺はコートをロッカーにかけに行くため、玄関に続く廊下に出た。
その時、探偵事務所のドアが開いた。
「すみません……【ときわ探偵事務所】さんって、こちらであってますか?」
その先には、明るい茶色のショートヘアをきれいに切りそろえ、オレンジのセーターと、白いロングスカートをまとった、大きく見える瞳が特徴的な、二十代半ばとみられる女性が立っていた。
あまりに奇麗でかわいい容姿に思わずドキッとするが、相手はお客さんだ。俺はシャキッとさわやかな表情を必死で作り、なるべくさわやか(そうな)声を出す(実は椿に定期的に指導されていた)。
「は……はい。こちら、【ときわ探偵事務所】です。お客様ですか? 所長をお呼びしますね」
「あ、ご丁寧にありがとうございます」
俺は軽く会釈すると、椿を呼びに行った。
***
若い女の人は対面を【ときわ探偵事務所】の所長の神原椿。椿を挟んで右に従業員である俺、左に妹の紅葉ちゃんが座っていた。
あたりを不思議そうに確認すると、女の人は自己紹介を始めた。
「私、白根唯といいます。この探偵事務所、女の人がやってるって聞いて……。ここなら、私の悩みを聞いてくれるって思ったんです」
「そうなんですね。私は神原椿、この探偵事務所の所長です。そして、こっちが紅葉で」
椿に紹介されると、紅葉ちゃんはぺこりとお辞儀した。
続けざまに椿の顔が俺の方に向けられた。
「こっちは金谷です」
俺も紅葉ちゃんに倣って改めて頭を下げる。
「どうも」
白根さんも軽く、少しばかり会釈する。
「こちらこそ……」
一通り自己紹介が終わると、椿は優しく依頼人である白根さんに悩み事を尋ねた。
「早速お悩みをお伺いしたいのですが、あまりほかの人には言えないことですか?」
「ええ……」
戸惑う依頼人に椿は笑顔で話しかけた。
「大丈夫ですよ。私たちはあなたの味方ですから。秘密は絶対に厳守いたします」
「……」
椿の言葉に元気づけられたのか、白根さんはその重たかった口を開いた。
「その……私、駅近くにあるアパートに住んでいるんですけど……誰かに覗かれてるみたいなんです」




