第1話 サラリーマン、無職になる
十一月下旬、東京某所。
一人の若い男がマスクをしながらやつれた姿でアパートの階段を上っていく。
――はあ、マジ散々だった……
俺の名前は金谷律也。東京のとある保険会社に勤めている社会人二年目のサラリーマンである。
いや、「勤めていた」といったほうが適切か。
俺は理不尽な理由で会社を辞めざるを得なくなった。
上司からの高圧的な叱責と苛烈なノルマ、そして取引先からの理不尽なクレーム。
会社には朝昼晩問わずほぼ二十四時間働くことを要求され、ろくな睡眠と栄養を摂れていなかった。最近世界的に感染症が流行していたが、このご時世でもパソコンのテレビ会議から四六時中監視され、部屋から離れてもスマホから呼び出されることもあった。
それが祟ってか、つい先日俺はアパートの階段から足を踏み外してしまい、転落して数日間生死の淵を彷徨っていた。
そして退院したとたん会社から呼び出され、社長や直属の上司からひどい叱責を受けた。彼らの目は俺にすぐに会社を辞めろと訴えていた。上司の右手には退職届が握られていた。
俺は泣く泣く退職を選択せざるを得なかった。
それ以降、俺はアパートに引きこもっていた。まるで外に出る気力がないのだ。
ほぼ一週間、日の光に当たった時間はわずかだった。
今さっき外出していたのは、食料を買いに行くためである。
冷たい北風が吹く中、俺はアパートの中に入った。
コンビニで買ったおにぎりとカップラーメン。お湯をカップラーメンに注ぐと、かぐわしい香りが鼻を刺激した。自然とおいしく見えてくる。
おにぎりをほおばると昆布と塩気のきいたご飯が口いっぱいに広がり、食欲が増進した。
カップラーメンも、疲れた体を癒すのには十分だ。
しかし、毎日こんな生活していたら不摂生なのは言うまでもない。入院していた時の病院食のほうが数倍おいしいし、栄養も十分に摂ることができた。
俺はベッドに寝転んだ。
これからどうしたらいいんだろう。
実家の母さんに連絡して、今すぐ家に帰ろうか……。だが、そんな気力が全く起きない。
スマホをタップして、なんとなくニュースサイトを眺めた。
“日本全国で謎の失踪事件相次ぐ 警察は捜査に消極的”
“「無敵の人」 どう対応すべきか”
“桜鳩グループ 楽園計画を発表”
“外国人窃盗団、日本人も関与か”
気が滅入るようなニュースが並ぶ。
そのまま俺は目を閉じた。
はやく、こんな日々が終わればいいのに。
できれば、人生をやり直したい。
***
――ピンポーン
アパートのドアのインターホンが鳴った。
俺はこんな時間にだれだろうと思い、重い腰を上げてドアに向かった。
ドアを開けると、そこにはキリスト教の神職者を思わせるような、真っ白な服を身にまとい、頭に白い帽子をかぶった男女が二人。男性は外国人なのか、金髪になっている。女性は切れ長の目と後ろで結んだ茶色い髪が特徴的だった。
「どなたですか?」
「これは失礼。怪しいものではございません。私たちはあなたに施しをしたくて、やってきたのです」
金髪の男の日本語は非常に流暢である。改めて顔を確認すると、顔つきは日本人そのもの。単に染めているだけだろうか。
男はそういうと、名刺を取り出して俺に渡した。
「私たちはホワイトリップル研究所というボランティア活動を行うNPOに務めている、ベージュというものです」
俺は目を細めた。
名刺には男の顔写真が掲載されている。名前には「ベージュ」と記されている。
変な名前……まるでコードネームのようだ。
「施し?」
俺は怪しみながらも、白装束二人を観察した。年齢は20代後半とみられる男女二人。女の方も名刺を渡してくれたが、こちらは「アイボリー」と名乗った。
名前がおかしい。明らかに本名ではないだろう。
そして、彼らの姿はどこからどう見て宗教の勧誘に来た人間としか思えなかった。
「結構です。間に合っていますので」
そういってドアを閉めようとすると、「アイボリー」と名乗った女が俺を引き留めた。
「話だけでもお聞きください」
「アイボリー」は革製の手提げカバンからパンフレットを取り出すと、俺の前に広げた。
「今、あなたは人生のどん底に叩き落された。そう思っていませんか? 流行病で売り上げが低迷する中、上司から理不尽なノルマを課されるも、お金のために必死で働く。しかし、ノルマは達成できず、不慮の事故に遭ってしまう。会社に事情を説明するも、理解されずに解雇された……。おかげで最近は家に引きこもってばかり……。もうこんな人生散々だ……そう思っていませんか?」
白装束の女はパンフレットに描いている内容を中心に、達者な営業トークで俺を惹きつけた。
同時に俺の背中に寒気が走った。
なんでこいつら、俺のこれまでのことを知ってるんだ? ほぼ当たってるんだが……。
俺の警戒心が高まる。
女の饒舌な口から、誘惑のような声が放たれる。
「あなたを救いたいのです。人生をやり直したい……そう思いませんか? 私たちは、そんな夢を叶える、素晴らしい薬を発明したのです」
――その名も、“人生をやり直せる薬”
「この薬を飲むと、あら不思議、次の瞬間からあなたは子供時代から、人生をやり直すことができるのです。ちょっと痛い思いはするかもしれませんが、副作用は一切ございません。薬を使用した後は、子供時代から大人になるまで、生活のサポートはすべてお任せください。第二の人生は薔薇色になること間違いないでしょう」
女は軽く口角を上げたのか、その目を俺に合わせた。
目は優しく笑っていた。まるで……シスターのように。
そして、「ベージュ」が所持していたメンズポーチからカプセル状の錠剤を取り出した。
その錠剤は、真っ白で表面には薄い水色の鳩のマークが表示されていた。
「効果は補償いたします」
「アイボリー」はそういうと頭を下げた。
しばらくして「アイボリー」は顔を上げると、栗色の滑らかな髪を振って整え、上目遣いで俺を見つめた。
艶やかな唇が輝き、年頃の女独特の香りで理性が吹っ飛びそうになる。
――人生をやり直せる薬
俺にとっちゃ、喉から手が出るほどに欲しい産物だ。飲むことで、子供のころから人生をやり直せるという、夢のような薬……。
普通に考えたら、こんな薬に手を出す奴はいないだろう。だが、今の俺は違っていた。とにかく、何かにすがりたかった。脳内のブレーキは一切機能していなかった。
「……一つ使うだけで、効果は出るのか?」
「アイボリー」が俺の質問に答えた。
「はい。飲んだ瞬間、あなたは生まれ変わるのです。それだけ薬の効果は強いですが、副作用は一切ございません。安全性は確保されております」
その言葉を聞いた俺に、迷いはなかった。
――買います。一つください
その言葉を待っていたかのように、二人の男女は微笑んだ。
悪魔のささやきだった。