64 アレスの正体
「……一応、誰かに聞かれない方がいいと思ったから」
何も言っていないのに、アレスはそんな言い訳がましいことを呟きながらランプに灯をともす。
暖かな光が室内を包み込み、アレスの顔がはっきりと見える。
いつも飄々とした彼には珍しく、その瞳はどこか不安そうな色を宿していた。
……クラウスを糾弾した時は、あんなに力強かったのに。
いったい何が、そこまで彼を不安にさせているのだろう。
「あのさ……リラは怒ってると思うけど、言い訳だけさせて」
「……それは、あなたの立場について?」
おそるおそるそう問いかけると、アレスはゆっくりと頷く。
あぁ、彼はやっぱり――。
「リヒテンフェルス帝国の、皇帝って知ってる?」
「……噂に聞くくらいは」
リヒテンフェルス帝国はこの国とは比べ物にならないほど大きな大帝国だ。
その帝国を統べるのは、壮年の皇帝陛下であると聞いている。
強大な帝国を治めるにふさわしい威厳と芯の強さを兼ね備えた人物で、時には非情ともいえる決断を下すことができる、恐ろしい人物だとも。
そう口にすると、アレスはへらりと笑った。
「あれ、俺のじーさん」
「…………言い方!」
何となくそうじゃないかとは思ったけど、大帝国の皇帝を「じーさん」呼ばわりなんて!
思わず突っ込んでしまった私に、アレスはおかしそうに笑う。
「俺の親父がさ、皇帝の三番目の息子なんだ。別に皇太子とかじゃないし本人も帝位を狙う気はさらさらないんだけど、一応その親父の子の俺も皇孫ってことで、殿下とか呼ばれちゃうわけ」
まるで天気の話でもするようにさらりと、アレスはそんな爆弾発言をかましてくれた。
あまりにさらっとしすぎていて、調子がくるってしまう。
「皇族になんて恐れ多くて声をかけられない……」という気持ちは、アレスがあまりにも普段通りなので意識の片隅に追いやられてしまった。
「じゃあ、シュトローム侯爵っていうのは?」
「あいつは存在しないっていたけど、ちゃんと存在するから安心して。シュトロームは親父が持ってるドマイナーな爵位の一つ。マイナーすぎて帝国内でもほとんど認知されてないから、たぶんあいつが調べても出てこなかったんだと思う」
確かに、帝国の領土は広大で、皇族が便宜的に保持している爵位のすべてまで調べきるのは難しかったのだろう。
クラウスの発言は、とんでもない難癖だったというわけだ。
「一応領地もあるんだよ。山とか谷ばっかであんま人住めないけど。あっでも、リラなら気に入るかも」
アレスによると、学園への入学手続きも正当に済ませたので、探られて問題になるようなことはないとのことだった。
それはいいんだけど……。
「どうして……皇族だってことを黙ってたの」
最初から身分を明かしていれば、クラウスが食って掛かるようなこともなかっただろう。
……きっと、私とこうして親しくなるようなこともなかっただろうけど。
「……最初っから皇族だって知ってたら、リラだって態度変えただろ」
「そんなの当たり前じゃない」
「それが嫌だったんだ。帝国にいた時はさ、どいつもこいつも腫れ物に触るような態度で……なんか、俺みたいなのには窮屈だったんだよね。親の威光で威張り散らすのもだせぇし」
……確かに、アレスのような自由人には、「皇族なのだから」という理由でいろいろと制限されるのは苦痛に感じるのだろう。
「みんなが『皇帝の孫だから』って理由だけで怖がったり逆に利用しようとしたり、うんざりしてたんだ。だから、誰も俺のことを知らない場所に行きたかった」
ぜいたくな悩みだと一蹴することはできなかった。
立場は違っても、彼の悩みは私にも共感できるものだったから。
幼い頃からクラウスの妻という未来を決められて、他のものには興味を持つことすら許されなかった。
彼がどれだけ浮気しようとも、反論したり、結婚をやめたいと口にすることすら叶わなかった。
まったく趣味じゃない古臭いドレスを着せられ、地味でつまらない女と馬鹿にされ、踏みつけられ続けていた。
クラウスと結婚したとしても、明るい未来なんて微塵も描けなかった。
だから……何もかもを捨てて、新しい道を歩んでみたくなったのだ。
きっと、少なからずアレスも同じような悩みを抱えていたんだろう。
「すっごい楽しかったんだ。誰も俺のこと知らねぇし、普通に喧嘩とか売って来るし。それに……リラにも、会えたしね」
「私なんて、別に何も……」
「リラはすごいよ。どれだけ窮地に陥っても諦めないし、馬鹿にされてもへこたれないし、いっつも真面目に頑張ってるし……俺、ここに来るまでそうやって地道に頑張ったこととかなかったから……ほんと、尊敬してる」
……本当に、彼はずるい。
窮地に陥っても助けてくるのはあなたの方だし、馬鹿にされて傷ついていても、アレスが怒ってくれるから私は前に進めた。
アレスがいたからこそ、私はここまでやってこれたのに。
「あっ……」
その時、かすかなメロディが耳に届き私たちは顔を見合わせた。
どうやら、フローラさんが上手く場を修めてくれたのか、やっとダンスパーティーの本番が始まったようだ。




