58 決別
翌朝、寮を出た途端に見慣れた姿が視界に入り、心臓がどくりと音を立てる。
そんな、どうして……。
立ちすくむ私に気づいたのか、その人物――アレスは脇目も降らずにこちらへ駆けてくる。
「リラ!」
彼の姿を見た途端、胸がぎゅっと締め付けられる。
喉の奥から熱いものがこみあげてきて、ぎゅっと唇を噛みしめた。
……やっぱり、大丈夫じゃなかった。
アレスに会ったらどんなふうに振舞うべきか、昨晩散々考えたのに。
いつものように「おはよう」って挨拶をして、彼の怠惰な態度を注意して、休んでいた分の遅れを取り戻して……いつも通りのリラ・ベルンシュタインでいようと思っていたのに。
現実は、ちっとも想定通りには進んでくれない。
「ずっと休んでたけど大丈夫? 悪い病気とかじゃない?」
「ただの風邪だから大丈夫よ」
大丈夫、息を吸って。いつも通りの私として振舞わなければ。
「それよりもあなた、何で女子寮の前にいるのよ。一歩間違えれば不審者よ」
皮肉なことに、口を開けばいつも通りに可愛げのない言葉が自然と出てきた。
だがアレスは気分を害した様子もなく、へにゃりと笑ってみせる。
「リラが休んでて心配だったからさ、毎朝こうやって来るの待ってたんだ」
「っ……!」
毎日、来ていたなんて……。「馬鹿みたい」だなんて、嘘でも言えなかった。
今も、ちらちらと通りすがる女生徒たちがアレスの方へ視線を奪われていく。
それでも彼は、真っすぐに私だけを見つめていた。
毎朝毎朝、彼がいつまでも来ない私を待っている場面を想像してしまって……胸が震えた。
俯いてきゅっと唇を噛みしめていないと……きっと嗚咽が漏れてしまう。
「でも元気になって良かったよ……ってリラ? 大丈夫? まだ調子悪い!?」
俯いたままの私に、アレスが慌てて声を駆けてくる。ぎゅっと拳を握り締め、意を決して顔を上げ……私は震える唇を開いた。
「……まだ咳が出るのよ。うつるといけないから、少し離れて歩いてもらえるかしら」
「え~、俺別にリラにうつされるんだったらいいけど」
「私が嫌なの!」
そう言い放ち、足早に校舎へ向かう。
「待ってよリラ~」
背後からは、アレスの気の抜けた声が追いかけてきた。
……駄目だな、私。
アレスの優しさをおこがましくも勘違いして、それなのに彼がくれたプレゼントを守ることすらできなくて……こんな私が、彼にふさわしいはずがないのに。
何度も何度も、さっさと諦めるべきだと自分に言い聞かせた。朝寮を出る時は、もう気持ちに区切りを付けられると思っていた。
なのに、こうして彼の姿を見て、声を聴いて、話してしまうと……どうしても、恋心が疼いてしまうのだ。
「リラ! もう体調はいいのか?」
「えぇ、まだ本調子じゃないけど、授業に出るくらいだったら問題ないわ」
「これ、君が休んでいた分のノート。アレスのを写すよりはマシだろ?」
教室にたどり着くと、真っ先にハンスが声をかけてきた。
しかも休んでいた分のノートまで見せてくれるというので、ありがたく彼の親切を受け取っておこう。
ノートを開くと、アレスのとは比べ物にならないほど整然と、綺麗な文字が並んでいる。
「ありがとう、助かるわ」
そう……いつまでも、叶わない恋に振り回されている場合じゃない。
せめて、立派な錬金術師になるという夢だけは守らなければ。
そうして、私は普段通りの「リラ・ベルンシュタイン」を取り戻した。
取り戻せたと、思っていたんだけど……。
「ねぇ、リラ…………俺、なんかした?」
調合に使う素材を栽培するため、温室で世話をしている最中に……不意にそう声をかけられ、私は一瞬動きを止めてしまった。
「……何のことかしら」
何とか絞り出した声が、震えていないのが奇跡のようだった。
……このまま何も気づいていない振りをしなければ。
それだけ固く決意し、私は栄養剤をまく手を止めなかった。
だがその手を掴まれてしまい、不覚にもびくりと肩が跳ねてしまう。
アレスはそのまま私の手を引っ張るようにして、真っすぐに向かいあうような形になってしまった。
思わず視線を逸らした私に、アレスが軽く舌打ちした。
彼にそんな態度を取られたのは初めてだったので、思わず体が震えてしまう。
「あのさぁ……俺が気づかないとでも思った?」
逃げられないように腕を強くつかまれ、耳元でそう囁かれる。
……私の浅知恵なんて、見透かされていたんだ。
そう気づいた途端、さっと血の気が引いた。
その反応を見て、アレスは再び舌打ちする。
「本当はリラの方から言ってくれるまで待とうと思ってたけど……ごめん、もう待てない」
いつも飄々としたアレスには珍しく、どこか焦ったような声だった。
「誰かに何か言われた? 教えてよ。リラを馬鹿にするやつは、俺が許さねぇから」
彼は、心から私のことを心配してくれているのだ。
そう、嫌でもわかってしまう。固めたはずの決意が……揺らいでしまいそうになる。
「……もしかして、あの婚約者?」
そう囁きかけられた途端、思わず息を飲んでしまった。
「あいつ、今になって『リラは俺の婚約者だから手を出すな』って言いまわってるらしいけど……リラが嫌なら、あいつに従う必要なんてないんだよ」
クラウスの名を聞いた途端、踏みつけられ壊れてしまった髪留めのことが頭に蘇る。
……やめて、優しい言葉をかけないで。
私はあなたに、そんな風に言ってもらう資格なんてないのに……!
「だから俺が――」
「やめて」
そう言い放ち、アレスの手を振り払う。
驚いたように目を見開いた表情に心が痛んだけれど……何も感じていない振りをして、私は畳みかけた。
「部外者に好き勝手言われる筋合いはないわ。これは、私とクラウスの問題よ。あなたには関係ないじゃない」
声が震えないように、表情が引きつらないように……感情を押し殺して、なんとか気丈にそう告げる。
そのままくるりと彼に背を向け、吐き捨てた。
「もう、これ以上口を出さないで」
それだけ言うと、私は足早にその場を後にした。
アレスは……追いかけてこなかった。いよいよ、私みたいな面倒くさい人間の相手をするのに嫌気がさしたんだろう。
そう、それでいい。
彼にはもっと、彼のことを支えてあげられるようなふさわしい相手がいるのだから。
「っ……!」
強く唇を噛みしめていないと、涙がこぼれそうになってしまう。
なんとか寮まで帰り着き、ひと思いにベッドに飛び込んで枕に顔を押し付ける。
そうしてやっと、私は溢れる思いをぶちまけるように泣くことができた。
……ひどいことを、言ってしまった。あんな風に言われて、アレスも愛想をつかさないわけがない。
これで、良かった。もう彼は私みたいなつまらない人間に関わらずに済むのだから。
それでも、とても大切なものを失ってしまったような気がして……しばらくの間、涙が止まらなかった。