57 きっと、初めての恋だった
――「……リヒテンフェルス帝国に、『シュトローム侯爵家』なんて家門は存在しない」
クラウスの言葉が、アレスとフローラさんが仲睦まじく笑いあう光景が頭から離れない。
あれから何日も、私は授業を休んで寮の自室に閉じこもっていた。
自分でもよくない傾向だとはわかっている。
私は自由になるために、自立するために錬金術師として進んでいかなければならないのに。
こんな感傷に、振り回されている場合じゃないのに。
それなのに……どうしても、立ち上がることができないのだ。
あれだけキラキラと輝いていた未来が、まるで色あせてしまったかのように感じられる。
何もする気も起きずに、私はただぼぉっとベッドに寝ころんでいた。
「ベルンシュタインさん、少しいいかしら」
遠慮がちなノックの音と共に、寮母さんの声が聞こえる。
のろのろと起き上がり、そっと部屋の扉を開けると……予想通り彼女は心配そうにこちらの様子を窺っていた。
「あなたにお客様が来てるわ。錬金術学科の、金髪の男子生徒が――」
「……具合が悪くて出られないと、伝えていただけますか」
「それは構わないけど……あまり不調が続くようなら、きちんとお医者様に看てもらった方がいいわ」
「かなり、良くなってきてますので大丈夫です。……では、失礼いたします」
それだけ言うと、私はゆっくり扉を閉め、再びベッドに横になった。
……アレスがこうして私の様子を見に来てくれたのは、実は初めてじゃない。
昨日も、その前も、彼はこうしてわざわざ女子寮まで足を運んでくれた。
それでも私は、彼に会うことはできなかった。
はっきりと顔を合わせてしまえば、前のように――何も知らなかった頃のように話ができる自信がなかった。
――「『シュトローム侯爵家』なんて家門は存在しない」
アレスは、私に嘘をついていた。
彼のことだから、きっと騙そうとしていたわけではない……と、思う。
それでも、嘘をついていたのは確かだったのだ。
私がもっと強かったら、きっとアレスにも事情があったのだと納得できただろう。
でも、とてもじゃないけど今の私にそんな大人な対応はできそうになかった。
アレスと顔を合わせたら、身勝手にも嘘をつかれていたことに苦しくなってしまうのだ。
私に、怒る権利なんてないのに。
「う……」
またじわりと涙が滲んできて、ぎゅっと枕に顔を押し付けた。
……勘違い、しそうになっていた。
アレスはいつも私のことを見て、支えてくれていたから。
もしかしたら彼も、私のことが好きなんじゃないかって……。
そんなはず、なかったのに。
私は没落寸前の貧乏伯爵家の冴えない娘。
アレスは帝国の侯爵家の令息――は嘘なのかもしれないけど、彼の実力やセンスは本物だ。
要領の悪い私と違って、きっと彼ならどこへ行っても成功することだろう。
彼が私に優しくしてくれるのも、あくまで学友としてでしかない。
それなのに私は、彼の特別になれるかもしれないだなんて、一瞬でも夢を見てしまうなんて……本当に、馬鹿みたいだ。
アレスにはフローラさんのような、私よりもずっとお似合いの相手がいるのに……。
「ベルンシュタインさん、よろしいかしら」
その時再び部屋の扉が叩かれて、私は枕に埋めていた顔を上げた。
扉を開けると、寮母さんが私に紙袋を差し出してくる。
「お見舞いに来てくれた生徒さんが、あなたに渡してほしいと言っていたわ」
そっと紙袋を開くと、そこには私の大好きなドーナッツが入っていた。
それを見た途端、再び涙が零れそうになってしまう。
「……ありがとうございます」
小さな声でそう呟き、頭を下げる。
そのまま、俯き気味に部屋の扉を閉めた。
……顔を上げれば、泣いているのを見られてしまうから。
カーテンを閉め切ったままの部屋は薄暗く、まるで今の私の気分を反映しているかのようだった。
ベッドに腰掛け、もう一度紙袋を開く。
中に入っているのは、購買で売っているいくつものドーナッツだった。
どれも私が好きな種類だ。
いつかの雑談の中で「リラはドーナッツだったら何が好き?」と聞かれたことがあった。
あの時の答えを、アレスは律義にも覚えていてくれたのだろうか。
「……ばか」
そんなことをするから、勘違いしてしまうのに。
むしゃくしゃした気分をぶつけるように、私は勢いよくドーナッツにかぶりついた。
とろりとした甘さが舌に染み込んで、否応にもアレスのことを思い出させてくる。
……きっと、初めての恋だった。
彼と一緒にいると、世界が輝いて見えた。
明るい未来が待っているのを、私は疑いもしなかった。
どうしようもない私でも、彼の隣にいるだけで……一人の女の子として大切にされていると、そう錯覚することができた。
「っ……!」
ぼろぼろと涙が溢れてきて、甘いドーナッツに染み込んでいく。
母に叩かれた時とも、クラウスに馬鹿にされた時とも別の痛みがちくちくと心を指すようだった。
でも、それでも私は……。
彼を好きにならなければよかったとは、思えないのだ。
一つ目のドーナッツを喉の奥へ流し込み、立ち上がり机の引き出しを開ける。
そこには、クラウスに踏みつけられぐしゃぐしゃになってしまった髪留めが仕舞ってある。
捨てるなんて考えは、最初から浮かばなかった。
たとえ大した意味はなかったとしても、これはアレスがプレゼントしてくれた物だから。
たとえ壊されてしまっても、私の宝物であることには変わりがない。
でも私は、この宝物を守れなかった。
それが申し訳なくて、情けなくて……これも、アレスと顔を合わせたくない理由の一つだった。
でも、いつまでもこうやって引きこもっているわけにもいかないだろう。
「明日は、授業に出なきゃ……」
その時は、アレスに会っても何もなかったように振舞わなきゃ。
間違っても怒ったり、この想いを悟られるようなことがあってはいけない。
「笑顔、笑顔……」
ずっとふさぎ込んでいたので、笑顔の作り方まで忘れてしまったような気がした。
そっと鏡をのぞくと、泣き濡らした赤い目で、引きつった笑みを浮かべる私の姿が映っていた。
……大丈夫。明日には、いつもの私に戻れるはずだから。
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