55 零れ落ちた涙
翌日、私は授業が終わると同時に全速力で走りだし、なんとか湧いてくるご令息たちをまくことに成功した。
フローラさんに返す服は、しっかりと鞄の中に入れてある。
後は、見つからないように召喚術学科まで行くことが出来れば……。
「……よし!」
気合を入れなおし、おそるおそる隠れていた教室の外へ出る。
そのまま人気の少ない道を選び、誰かに遭遇しそうになるたびに物陰に隠れて……普段の何倍もの時間をかけて、やっと召喚術学科の棟付近まで到着した。
はぁ、疲れた……。
まったく、何で私がこう無駄に苦労しないといけないんだろう。
そんな風にぷりぷりしながら、周囲を見回す。
目に入ったのは、前にフローラさんが水に濡れた私を案内してくれた、小さな建物だ。
「もう授業は終わってるし……もしかしたらあそこにいるかな」
先に確認して、いなかったら他の場所を探そう。
そう決めて、私はこそこそと建物に近づいた。
見れば、ちょうど窓が開いている。
近付くと、中に人がいるようで話し声が聞こえてきた。
もしかしたら、フローラさんかもしれない。
覗き見なんてみっともないとわかってるけど、ちょっと中を確認するだけなら……。
そんな誘惑に負け、周囲に誰もいないことを確認し……私はそっと窓越しに室内を覗いた。
その瞬間、心臓がどくりと大きく音を立てる。
「いや、だからさぁ。そうじゃないんだって」
耳に入るのは、聞き覚えのありすぎる声。
私の視線の先で、アレスが豪奢なソファに腰掛けて何やら喋っていた。
だらしなく足を組んで、リラックスしているのがよくわかる。
そして、彼と一緒にいるのは……。
「あら、あなたがそんなことをおっしゃるなんて意外ですわ」
「それで、フローラはどう思う?」
「そうですね……まぁ、お好きになさればよいのでは?」
「うわっ、めっちゃ他人事じゃん。もっと真剣に考えてよ」
「あらあら、わたくしなどがお役に立てるとは思えませんが」
「いやだって……フローラじゃん? こんなこと聞けるのフローラくらいだし」
テーブルを挟んでアレスと向かい合うように、フローラさんが微笑んでいた。
……短いやり取りを聞いただけで、二人が親密な間柄であることを見て取るのは容易だった。
アレスは気に入らない相手にはこんな風に笑顔を見せたりしないし、フローラさんもアレスに対する言葉の端々に、親密な間柄でしか出せない気安さが滲んでいるのだから。
「頼むって、今度フローラの好きそうな店に連れてくからさ」
「もう一声ほしいところですわね」
「えぇ~、じゃあ……何でも好きなもん買ってやるよ。ブティックでも宝石店でもどこでも行ってやるから」
鼓動が嫌な音を立てて、足が震えてしまう。
それ以上二人の姿を見ていられなくて、私はぎゅっと目をつぶって足を退いた。
それでも、二人の楽しそうな笑い声が耳に入ってくる。
……アレスは私と一緒にいる時、あんな風に笑っていただろうか。
私はフローラさんに返す予定だった服が入った鞄を抱きしめて、とぼとぼとその場を後にした。
そのまま召喚術学科の棟へ向かい、目についた生徒に鞄を託す。
「あの、これ……フローラ・ノイフェルトさんにお借りしたものです。彼女に返してはいただけませんか?」
「それは構いませんが……あの、顔色が真っ青ですが、大丈夫ですか? よろしければ少し休んで――」
「いえ……大丈夫、です」
慌てて頭を下げ、これ以上追及されないように慌ててその場を後にする。
自分でもどこを歩いているのかわからないままに進み続けて……気が付いたら、あの古い工房の前にいた。
その建物の姿を見た途端、アレスと過ごした日々の思い出がよみがえってくる。
――「ガリ勉ちゃん真面目だな~。こんなところに来てまで予習復習?」
――「俺はちゃんと見てるから、リラはすごいよ」
――「リラはさぁ、いっつも必死に頑張ってんだよ。誰よりも努力してんだよ。何も知らねぇくせに適当なこと言ってんじゃねぇぞ」
――「だから、ここに来て、リラに会って……こんな子がいるんだって、驚いたんだ。いつも頑張ってて、他の奴に嫌なこと言われてもめげないで、コツコツ真面目に努力して……そういうの、すっげぇなって」
――「じゃあさ……卒業したら、俺と一緒に来る?」
「っ……!」
私は思わず、その場にしゃがみ込んでしまった。
……馬鹿みたいだ。
アレスがくれた言葉は、私にとってはキラキラと光る宝石のようだった。
心の中の宝石箱に仕舞われて、いつでも鮮やかに思い出すことができる。
私の、宝物だった。
でも、アレスにとっては……きっと、何の意味も持たないただの戯れでしかなかったのだ。
ただ錬金術学科にいる生徒の中で、最初に彼の相手をしたのが私だったから。
だから、一緒に行動していたにすぎないのだ。
「……当然、よね」
私なんて貧乏で、可愛げもなく、頭が固くて冴えない厄介な女でしかないのだから。
アレスだってフローラさんのような……可愛くて、美人で、性格も良い女性と一緒にいた方が楽しいに決まっている。
――「いやだって……フローラじゃん? こんなこと聞けるのフローラくらいだし」
――「頼むって、今度フローラの好きそうな店に連れてくからさ」
――「えぇ~、じゃあ……何でも好きなもん買ってやるよ。ブティックでも宝石店でもどこでも行ってやるから」
そっと髪に手をやり、アレスのくれた髪留めを外す。
キラキラと輝く美しい髪留めを見ていると、目の奥が熱くなってくる。
「うっ……」
ぽろりと溢れた涙が頬を伝ったけど、もう拭う気力も湧いてこなかった。