53 婚約者の変貌
近頃、錬金術学科にはそわそわした空気が漂っていた。
生徒たちは興奮気味にぺちゃくちゃと話し合ったり、一心に研究に取り組んだりしている。
更には他の学科や、外部からも見学者が後を絶たないのだ。
いつにもまして気合が入るのも、当然と言えば当然だ。
「はぁ~、偉い人の一言でここまで変わるとはねぇ」
乾燥させた夜咲花をごりごりとすり潰しながら、アレスが感心したように呟く。
「そりゃあ、今まで貴族で錬金術に注目してる人なんてほとんどいなかったんだもの。皆情報収集に必死なのよ」
平静を装いながらそう口にし、私はちらりと机の片隅に置かれた新聞に視線をやった。
そこに載せられた記事が、今の錬金術学科の空気をがらっと変えてしまったのだ。
つい先日、王太子殿下は議会で正式に、錬金術師の育成と登用に力を入れると宣言したそうだ。
当然、錬金術なんてノーマークだった貴族たちは慌てた。
今はどの家門も情報収集に奔走していることだろう。
「もしかしたら今後、将来有望な錬金術師の確保競争が始まるかもしれないわね……」
つい数時間前にハンスが熱弁していた内容の受け売りでそう口にすると、アレスは乳棒をごりごりする手を止めてじっとこちらに視線をやる。
「……リラは、どうすんの?」
「どうするって、何が?」
「いや、偉い貴族からヘッドハンティングとかされたらそっち行くの?」
「そうね…………」
もともと私は婚約者に見捨てられ、実家から勘当されても生きていけるように、手に職を付けようとこの学科にやって来たのだ。
当初の目的を考えれば、貴族のパトロンが拾ってくれるなんて最高の待遇だけど……。
――「じゃあさ……卒業したら、俺と一緒に来る?」
あの時のアレスの言葉が、耳から離れない。
だから私は、いまだに卒業後の進路を決めかねていた。
「……先のことだもの。まだ、わからないわ」
小さな声でそう返し、私はアレスに背を向けるように大釜へと向き直った。
◇◇◇
果たしてハンスの予想は的中した。
王太子殿下の発表から一週間ほどのタイムラグを経て、各貴族は「とりあえず有望そうな錬金術師の卵に唾を付けておくべし」と方針を決めたようなのだ。
そしてその波に、私もいやおうなしに巻き込まれていくのだった。
「ベルンシュタイン嬢、よろしければ明日の昼食をご一緒しませんか?」
「錬金術学科きっての才女と名高いリラさんに、是非ともご教授いただきたいのですが――」
これは、なんとまぁ……。
今までまったく無風だった私の周囲に、下心アリアリの他学科のご令息が湧いて出るようになってしまったのだ。
彼らはどこからか、私が錬金術学科で常に成績上位をキープしているという情報を入手したようだ。
一応、貴族の生まれ。そのうえ性別は女。とりあえずハニトラでも仕掛けてゲットしてやれということなのだろう。
あまりに現金な態度に、私は呆れを通り越して感心してしまうほどだった。
よくもまぁ、心にもないことを笑顔でぺらぺらとしゃべれるものだ。
私だったら表情に出る。絶対。
もちろんこんな怪しい誘いには乗らないけど、しかし、彼らはしつこかった。
授業が終わった途端にどこからか湧いてきて、うじゃうじゃと私を取り囲む。
アレスがいる時は「てめぇらうぜーからどっかいけよ」と追い払ってくれるけど、彼だって一日中私の傍にいてくれるわけじゃない。
いや……アレスは「朝寮まで迎えに行ってずっとついてよっか?」と言ってくれたけど、私が断ったのだ。
こんなくだらないことで、彼の時間を奪うような真似はしたくない。
だから平気な振りをして、今だってこっそり図書館に向かおうとしたのだけど……うっかり捕まってしまった。
「その髪飾りは素敵ですね。ですが、僕がもっと素晴らしい物を贈りましょう」
「……結構です。気に入っているので」
「二人で錬金術について議論を交わしませんか? 夜通し、二人っきりで」
「夜間帯の外出は校則違反です。次同じことを言ったら寮監に通報します」
あの手この手で私を誘うご令息に、ついため息が漏れてしまう。
私がおとなしくしているのをいいことに、今度は進行方向に立ちふさがるようにして口説き始めてしまった。
そろそろ度を超えた迷惑行為だと、ガツンと言ってやるべきだろう。
そう考え、足を止め口を開こうとした途端――。
「おいおい、堂々と人の婚約者を口説くとはいい度胸だな」
聞き覚えのある声に、思わず体がこわばる。
だがそれと同時に、私を口説いていた二人が「しまった」という表情に変わった。
「クラウス……」
現れたのは、私の(一応)婚約者――クラウスだった。
でもどうして、彼がここに……?
「リラは俺の婚約者だ。これ以上付きまとうようなら……」
「くっ……」
さすがに侯爵家のクラウス相手に歯向かう度胸はなかったのだろう。
二人の貴公子たちは、そそくさと去っていった。
あとに残されたのは、私とクラウスの二人だけ。
……正直、気まずいことこの上ない。
彼がどうして私を助けるような真似をしたのか、私には皆目見当がつかなかった。
だが、あまり彼に関わるべきではないと本能が警告を発している。
ここは、さっさとお礼だけ言って立ち去るべきだろう。
「……ありがとう、助かったわ。それじゃあ――」
私は手短にお礼だけを言って、さっと踵を返そうとした。
だが――。
「待てよ」
背後から強く腕を掴まれて、思わずうめき声をあげてしまう。
振り返ると、クラウスがにやりと笑って私を見下ろしていた。
「まさかお前にそんな利用価値があるとは思わなかったよ、リラ」
嘲るような笑みに、体が強張る。
――「クラウス様の言葉には絶対に従うべし」
長年、母からそう言い聞かされて来た。
逆らえば容赦なく頬を張られた。長時間密室に閉じ込められた。
そんな記憶が体に染みついて、私はどうしても……クラウスを前にすると動けなくなってしまうのだ。
自由になれたと思ったのに、情けない……。
クラウスは震える私を見てにやりと口角を挙げると、耳元でねちっこく囁いた。