5 (元)婚約者に絡まれました
それからも私は、古い工房を借りて日々調合に励んでいた。
授業で使う調合の素材は学園が保管している物を使用可能だが、自主的な勉強となると自分で調達しなければならない。
購買部にもある程度の品が揃っていたが、決して裕福な方ではない私が毎回買っていたのでは破産してしまう。
……というわけで、空いた時間を見つけては学園の周囲を巡り、せこせこと素材採取に勤しんでいた。
温室の管理者に許可を取れば温室内の植物を採取することもできるし、学園の周辺には様々な植物が自生し、山の方に足を延ばせば良質な鉱石も手に入る。
「あっ、これは……ルエリア草ね! 薬や染料に使えるのね……なるほど」
地面すれすれにしゃがみ込み、植物図鑑と照らし合わせながら使えそうな素材を採取していく。
面倒な作業だと嫌がる者も多いが、私はこうやって外で自然と触れ合うのが好きだった。
伯爵家にいた時には、「みっともない」と絶対に許されなかっただろうけど。
鼻歌でも歌い出したいような気分で機嫌よく作業を進めていると、不意にじゃり……と地面を踏みしめる音がした。
反射的に顔を上げて、私は思わず息を飲んでしまった。
果たしてそこにいたのは、私の婚約者であるクラウスだったのだ。
「いいザマだな、リラ」
クラウスは意地の悪い笑みを浮かべて、こちらを見下ろしている。
まさか彼の方から声を掛けてくるとは思わなくて、私はしゃがんでクラウスを見上げた態勢のまま固まってしまった。
「錬金術学科を選択したんだって? まぁ、お前のようなつまらない女でも落とせそうな男はそのレベルだろうな」
クラウスは二、三歩足を進めて、私の目の前で立ち止まった。
そしてわざとらしく周囲を見回すと、嘲るような笑みを浮かべる。
「それにしては未だに男の一人もいないのか? 没落間近とはいえ、伯爵家の令嬢が地面に這いつくばって草むしりとは嘆かわしい。なんて惨めなんだ」
「あっ……」
止める間もなく、クラウスは私が今まさに採取しようとしていたルエリア草を踏みつぶした。
その瞬間、心臓がどくんと大きく音を立てる。
その足をどけろと、冷静に抗議するべきだ。
そうわかっているのに……何故だか胸が詰まって言葉が出てこない。
「そんなに雑用が好きなら、うちの召使いにしてやろうか? 好きなだけ雑草をむしらせてやるよ!」
クラウスの不快な笑い声が、耳に焼き付いたように離れない。
私を抑圧する家から、横暴な婚約者から、逃げ出して自由になりたかった。
錬金術師になって、自立すれば……自由になれると思っていた。
そんな希望までもが一瞬で、目の前のルエリア草のように踏みつぶされてしまったような気がした。
お前のようなちっぽけでつまらない存在に何ができるのだと、クラウスの嘲笑が心を抉っていく。
指先がすぅっと冷たくなって、動かなくなる。
抗議したいのに、文句を言いたいのに……声が出ない。
ただ俯いて唇を震わせていると、クラウスが愉快そうにこちらに手を伸ばしてきた。
思わず体がびくりと跳ねる。その途端――。
「あのさぁ、さっきからうるせぇんだけど」
急に頭上から降って来た声に、私もクラウスも驚いて顔を上げた。
すると、傍らの木の上からしゅたっと地面に降り立つ者がいた。
アレス・シュトローム――何かと絡んでくる、錬金術学科の同級生。
彼の姿を見た途端、冷えていた体が温度を取り戻したような気がした。
気が付けば、私は彼に呼びかけていた。
「あなた、なんで……」
「な、何だ貴様は!」
いきなり現れたアレスに、クラウスは珍しく取り乱しているようだ。
そんなクラウスに呆れたような視線を向け、アレスは口を開く。
「この子のクラスメイトだけど。お前こそ誰だよ」
「お前……だと!?」
「なんでもいいけどさぁ、俺とこの子、錬金術学科の課題の最中なんだよね。これ以上邪魔するなら、他の学科からの妨害ってことで上に報告するけど」
アレスがさらりと嘘をついたので、私は驚いてしまった。
だがクラウスには、その言葉が真っ赤な嘘だとはわからなかったようだ。
「ちっ……勝手にしろ!」
分が悪いと判断したのか、クラウスは捨て台詞を吐いて去っていった。
呆然とその背中を見送る私の隣に、アレスも同じようにしゃがみ込む。
そのまま彼は、クラウスに踏まれたルエリア草を見つめながら呟いた。
「踏まれたけど、ちゃんと洗えば素材として使えると思う。その方がこの草も喜ぶんじゃね?」
「……植物の気持ちがわかるの?」
「うーん……想像?」
「何それ……」
思わず、くすりと笑ってしまった。
気が付けば、私の心を蝕んでいた絶望感は、ずいぶんと小さくなっていた。
くすくすと笑っていると、どこか安堵した様子のアレスが、明後日の方向を向いてぽつりと呟く。
「さっきの、誰?」
「……私の婚約者よ」
「え、マジで!? ガリ勉ちゃん趣味悪いね」
「わ、私だって好きであいつと婚約したわけじゃないわ! それに、もうすぐ婚約解消になる予定なの。だから……大丈夫よ」
そう、大丈夫だ。
たった一度踏まれたくらいで、へこたれている暇はない。
どんな目で見られようと、何を言われようと、雑草のように生き抜いてみせなければ。
気を取り直し、当初の予定通り踏まれてしまったルエリア草を採取する。
思ったよりは痛んでいないようなので、アレスの言うとおり綺麗に洗えば使うのに問題はないだろう。
そのまま工房に戻ろうとすると、何故かアレスも後をついてきた。
「……何か用でもあるの?」
「んー……暇つぶし?」
「暇ならば明日の授業の予習復習をするべきね。……まぁ、同じ学科のよしみで見てあげないこともないわよ」
嘘をついてまでクラウスから庇ってくれた礼を込めてそう言うと、アレスは心得たようににやりと笑う。
本当に……変わった人。
不真面目で、軽薄で……アレス・シュトロームという人物はどちらかというと私の嫌いなタイプの人間だ。
それでも……少しだけ、見直す必要があるのかもしれない。
とりとめのない話をしながら、私たちはゆっくりと工房へと足を進めた。