24 塩辛いドーナッツ
アレスに早めに休んだ方がいいと促され、私は授業が終わるとすぐに寮に帰ってきた。
採掘の大半はアレスに任せていたとはいえ、山の中で作業に当たったのだ。
衣服は汚れているし、早く着替えてしまいたい。
そそくさと寮の廊下を進んでいると、曲がり角でばったりと女生徒に出くわしてしまう。
普段だったら、「あらごめんなさい」と謝るんだけど……。
「あーら、あなた……」
私の顔を見た途端、その女生徒はにやりと意味ありげに笑った。
私も彼女の顔には覚えがある。彼女は、入学式の日にクラウスが密会していた女性――つまり、彼の浮気相手だ。
名前は確か、コリンナと言っただろうか。
驚く私の頭のてっぺんからつま先まで、値踏みするような視線で眺めたかと思うと……コリンナはくすくすと馬鹿にしたような嘲笑を浮かべた。
「随分と汚らしい恰好なのね。一瞬、お掃除女中かと思っちゃった。そんなんじゃ伯爵家の名が泣くでしょうね」
……安い挑発だ。
普段だったら、「だから何?」と鼻で笑うこともできただろう。
なのに、心が弱っていたからか……私は何も言えずに俯いてしまった。
……こんなことくらいで傷つくなんて、馬鹿みたいだってわかっているのに。
「……先を急ぐので、失礼するわ」
軽く頭を下げて、私はコリンナの横を通り過ぎようとする。
だがその瞬間に小さく囁かれて、思わず息を飲んでしまった。
「惨めね、そんな風だからクラウスにも愛想を尽かされるのよ」
振り返った私は、いったいどんな顔をしていたのだろう。
コリンナは私を見て勝ち誇ったような笑みを浮かべると、完璧にセットされた髪をなびかせながら笑った。
「本当に無様ね。何を考えているのか知らないけど、あなたみたいな人が何をやったって無駄なのよ」
そう言うと、コリンナは私になど興味がないというように、くるりと踵を返し去っていった。
……その後のことは、よく覚えていない。
気が付けば私は、寮の自室の床にぺたんと座り込んでいた。
「勉強、しなきゃ。その前に、着替えないと――」
やらなければならないことはたくさんある。
だから、動かなきゃいけないのに。
頭の中に暗い考えが浮かび、まるで鉛の玉を飲み込んだかのように体が動かない。
――お前みたいな奴は、しょせん何をやったって無駄だ。
――何もできはしない。どこにも行けやしない。何者にだってなれるわけがない。
それは、クラウスの声や母の声、ハンスやコリンナの声で、次々と囁きかけてくるようだった。
私はただ必死に目を瞑って、ぎゅっと耳をふさぐことしかできなかった。
◇◇◇
その翌日は、なんと熱が出てしまった。
それでも私は登校しようとしたのだが、寮の食堂で寮母さんに見つかり「今日はきちんと休むこと」と念を押されてしまった。
仕方がないので、部屋に戻って自習をしようとしたのだが、どうにも気がそぞろになってしまう。
少し眠ってから、風に当たろうとバルコニーへと出る。
穏やかな風が吹き抜け、何故だか少し泣きたくなってしまった。
……私、ちゃんと錬金術師になれるかな。
婚約を破棄されて、家から追い出されても……生きていけるかな。
気が付けばそんな不安が押し寄せてきて、心細くなってしまう。
そんな時だった。
――コン。
何か小石のような物が、バルコニーの手すりに当たった音がした。
一体何だろうと下を向いて、私は危うく叫びそうになってしまった。
「ちょ……!」
なんと私の立っているバルコニーの下、女子寮の中庭の茂みに隠れるようにして、アレスがこちらに向かって手を振っていたのだ。
彼は私が何か言おうとすると、慌てたように口に人差し指を当て「しーっ!」と制した。
その仕草に、私ははっと手で口を覆う。
……そうだ。ここは女子寮。
どう考えても、男子生徒であるアレスが勝手に侵入していいはずがない。
まったく……何をしているの、あいつは!
着替えるのも億劫だったため、幸いにも朝登校しようとした時のまま、今の私は制服を身に着けている。
とにかくアレスをここから追い払わねばと、私は慌てて部屋を飛び出した。
アレスは先ほどと変わらず、中庭の茂みの陰に隠れていた。
私がやって来たことに気づくと、へらへらと手を振ってくる。
その悪びれた様子が欠片も感じられない態度に、私の方がハラハラしてしまうほど。
「あなた……何を考えてるの!? 女子寮に侵入なんて、バレたら大問題よ!」
「そんなヘマしないから大丈夫だって。どうせ今は誰もいないし」
「そうよ、今は授業中でしょ? 何してるのよ!」
「リラが来なかったから、どうしたのかなーって思って」
どうやら彼は、授業をサボってこんなところまでやって来たらしい。
ちょいちょいと手招きされて、私は戸惑いつつも彼の傍に近づいた。
「これ、お見舞い。一緒に食べよ」
そう言ってアレスが見せてくれたのは、少し前に私のサンドイッチを奪い取ったかわりにくれたドーナッツだった。
……確かにあれは美味しかった。
ドーナッツの誘惑に抗えず、私は静かに彼の隣に腰を下ろす。
「食べたらすぐに帰るのよ。ちゃんと授業にも出席して」
「わかってるって。それより、リラは大丈夫? 風邪?」
「……少し、体調を崩しただけよ。一日休めばすぐに治るわ」
「そっか、ずっと頑張ってたもんね。たまには休めっていうサインだろ」
優しくそう言われ、私は思わず顔を上げる。
アレスはからかうでもなく、いつになく気遣わしげな視線でこちらを見ていた。
「リラは努力家だから、頑張りすぎて疲れちゃったんだって。今日くらいは、きちんと休んだ方がいいよ」
「……あなたの口から、努力なんて言葉が出てくるとは思わなかったわ」
普段の奔放さからいって、なんとなく彼はそういう地道にコツコツ努力する……みたいなことを馬鹿にしていると思っていた。
だがそう口にすると、アレスはおかしそうに笑う。
「まぁ、確かにコツコツ努力するって俺には似合わないし、たぶんできないし。でも、だからこそ地道に頑張れるリラはすごいと思う。本気で」
「……でも、努力したっていつも報われるわけじゃないわ。どれだけ頑張っても、無駄に終わるかもしれない」
「リラなら大丈夫だよ」
何の根拠もない言葉だけど、その言葉を聞いた途端に胸のつかえがとれたような気がした。
もしかしたら私は、こうやって誰かに……自分の努力を、認めて欲しかったのかもしれない。
「俺はちゃんと見てるから、リラはすごいよ。……偉い偉い。自由課題、頑張ろうね」
彼に背を向けて座ると、労わるように背中を撫でられた。
そのまま声を噛み殺すように、アレスのくれたドーナッツにかぶりつく。
前はひたすら甘く感じたドーナッツが、今は少しだけ塩辛かった。




