復讐のためじゃなく
始めるから終わる物語 第7話
2005年7月15日~8月17日 Papp
スゥは、魔剣ホークを正眼に構えた。口から魔力が呪文となってこぼれ落ちる。
「死すべき時、命は羽のごとく軽くなる。
緑竜よ、お前は今、死すべき時ではない。
今、お前の命は、山のごとく重い。
今、死ねば、堕ちる。
お前は、天には、羽ばたけない」
スゥの呼気に、憎しみが魔力と交わって、ドス黒い塊となり、ドロリと地面に落ちた。
「先に逝けっ! 地獄へ!!!」
スゥの斬撃が、グリーンドラゴンの眉間に乗った。
魔剣、羽の重さの剣が、生きるべき命に等しい重さに変化する。
その眉間に山の如く重量を乗せたグリーンドラゴンの頭骨が陥没する。
そして、グリーンドラゴンの頭が、砕けた!
頭を失ったグリーンドラゴンの体が、沼地をのた打ち回る。
地獄のような、その光景。しかしスゥは、まったく別のものを見ていた。
天から光が射し、死したグリーンドラゴンの魂が翼を羽ばたかせ、飛翔したのだ。
「なぜっ?!」
スゥは、愕然とした。その時、魂となったグリーンドラゴンがスゥに振り返った。
「えっ?」
優しい、知性溢れる高貴な瞳をしていた。同じく、高い知性を感じさせる声でスゥに語りかけた。
「真名の娘よ、私は天に昇る。なぜならば、私を殺したことで、お前が私の命を背負ったのだから」
地獄に落ちるのは、いつの時代も、殺された者ではない、殺した者だ。不正をされる者が不幸なのではない、不正を成す者が、不正をされた相手の不幸までも背負う。不正をされる者は正で、不正を成す者こそが不正なのだから。同じように、悪に害された者が不幸なのではない、悪を成す者が不幸なのだ。それが道理だ。
憎しみに捕われて、現実になにをした?
スゥは、死しても天に、昇れない。
光に包まれるグリーンドラゴン。それと対照的に、スゥは、知性のない眼をしたグリーンドラゴンの幻影を背負って闇に包まれていた。
グリーンドラゴンの幻影、命がスゥの背にのしかかる。スゥの足が沼地に、重みによって膝上まで沈んだ。そしてそのまま、沼の底が抜け、スゥを飲み込もうとする。
ゆっくりと、しかし、確実にスゥを飲み込んでいく底なし沼。足掻いても掴むものもない蟻地獄。スゥは、じわじわと精神を蝕む恐怖にパニックとなって叫んだ。
「助けて! 誰か、助けてっ!」
スゥは、死を望んでいたのではなかったのか。
いざ、死ぬ瞬間に、命乞いをしない者はいない。命を捨てたい者など、死に遠く、死を客観できる者だけで、死こそを希望と思える人間だけなのだ。生理的には、死は絶対の恐怖である。
スゥは無我夢中で足掻いて、なにかを掴んだ。力の限り、それを握り締め、底なし沼から抜け出した。
光が、戻った。
グリーンドラゴンの遺骸がのたうち、崩壊していくリザードマンの集落。
そこに立ち、スゥに手を差し出していたのは、ホークだった。
背に緑竜の幻影を背負っている。幻影は、やがて一粒の、命の粒子となってホークの中に消えていった。
「ホーク、ホーク!」
取り乱すスゥを安心させるため、ホークはスゥを抱きしめて言った。
「大丈夫、大丈夫だ」
これが魔剣フェザー、羽の重さの命を持つ者の宿命。
魔剣、羽の重さの命。裏の名前をライブ・ゼロ。
この剣の基底にあるのはゼロの命。ゼロに、どんな数字をかけてもゼロになるように、この剣で命を奪われると、命の重さが無となる。
スゥとホークの元へ、びっこをひいたクレイと、腰を押さえたアウラがやってきて言う。
「ここは、あぶない! 早く逃げよう!」
じっとしてると、のたうつグリーンドラゴンの巨体に押しつぶされる。一行は慌ててその場から逃げ去った。
ブルノエ男爵領から旅立ったスゥたちは、街道を東に向けて歩いていた。
騒ぎが起これば、賞金稼ぎどもに嗅ぎつけられ、命を狙われる。急いで男爵領を離れる必要があったのだ。
スゥは、ぐったりとして、ホークの背に負われていた。回復魔法の後遺症だ。見た目の傷が治っても、激しく消耗した体力まで元に戻るわけじゃない。逆にドラゴンと戦って、この程度ですむのは奇跡と言えよう。
スゥの意識は混濁し、朦朧としていた。
「うっ…」
スゥがうめき、吐しゃする。
アウラとムシュフシュが、悲しみに悲鳴を上げそうになる。
「うろたえるな。今日中には、中継地に着く」
急ぎ足のペースを変えず、ホークが言う。歯を食いしばっていた。
草原が緑の海のよう。その真ん中を走る街道を、一行は歩いて行った。
街道沿いに大きな街があった。染料の原料となる植物が名産の潤いある街で、また、交通の要所でもあり、商業が活発で、人の出入りが多かった。
魔物の侵入を防ぐ立派な城壁が見え、財力と権力を誇示する石造りの塔が、いくつも建っている。
商人の行商の群れに紛れて侵入しようとしたスゥたち。検問で兵士に呼び止められた。
バレたか?!
そう思ったホークたちであったが、違った。
「そちらの女騎士殿は、怪我を負っているのか? では、教会にある施療院に行くがよい」
そう言って、若い兵士に指示し、施療院まで案内をさせた。若い兵士の案内で教会に行くと、教会に併設されて立派な病院が建っていた。
立派なエントランスをくぐると、すぐに数人の看護婦が駆け寄ってスゥを運び、診察室へ。施療院内はキビキビと働く看護婦や医者がいて、活気があった。治療を受けるのは市民や近隣の村民で、老いて動けない者たちが介護を受ける姿も見えた。
診察室に入ると、医者がスゥを触診し、診断して薬の処方と看護の仕方を看護婦に伝え、スゥを病室へ運ぶように指示した。
みごとな手並みである。アウラとムシュフシュがポカンとした。ここまで組織的な治療体制を見るのは初めてだったのだ。この街の医療技術の進歩に感心した。
「国王軍の、医療班を見るようだ」
ホークが呟いた。それを聞いた医者が答えた。
「国王軍には、わが施療院のスタッフが出向き、医療を師事しています」
聞くと、もともとは巡礼に訪れる人々の宿泊などの世話をする施設を、教会組織が病気や怪我を、宿泊して治療する施設に発展させたのが始まりとの事だった。他にも、孤児の引き取りや老化して動けなくなった老人の介護なども請け負っている。活動資金は、教会が運営する荘園や信者からの寄進で、まかなわれていた。国王さえもが信者である国である。教会は大変な権力を持っていた。
スゥたちは、医師の指示で街を出て、2時間ほど馬車に揺られて山の手に行き、そこにある施療院の別院に入った。
施療院の別院は、山間の、羊の放牧などをしているのどかな村の中にある、上品な山荘風の建物だった。
まるで個人の家のような内装の部屋にスゥを寝かしつけると、案内してくれた看護婦が言った。
「自律神経の失調と、過労が原因です。私は街へ帰りますが、村の者が世話しますので、なんでも言ってください」
そう言って、入ってきた村の少女、ナオミを紹介し、定期的に診察に来ますと言い残して看護婦は街へ帰っていった。
村娘のナオミは、一度、おじぎをして退室し、帰って来た時には、花束を持っていた。
スゥの隣、窓辺に花瓶をおき、それに花を挿す。
おじぎして立ち去ろうとするナオミを呼び止めて、アウラが聞いた。
「誰にでも、こんなに手厚くしてくれるの?」
ナオミは首を横に振った。そして答えた。
「竜殺しであるスゥ様に対する、当り前のご奉仕です」
ブルノエ男爵は、グリーンドラゴンを倒したのは、スゥであると公表した。そして、教会がドラゴンスレイヤーとしての名声と地位を与えたのだ。
教会は不思議なところで、竜を神とあがめながら、その竜を殺す者に、聖職者としての高い地位を与える。
でも、スゥは思った。いや、思い出したのだ。グリーンドラゴンが最後に、スゥに言った言葉を。
グリーンドラゴンは言った。
「ありがとう、真名の娘よ」
グリーンドラゴンは、心の底からスゥに感謝していた。
どうしてだろう…?
スゥには分からなかった。
ホークは別の視点を持っていた。
「そう言えば、男爵は西の伯爵と仲が悪かったな…」
尽きる事ない野心を持つ伯爵は、いつも男爵の領地を狙っていた。スゥがドラゴンを殺した手柄を横取りした伯爵。誰の目にも明白なそれを、さらに明白にするために、スゥのことを世界に公表したのか? これで否応無く伯爵に対する嫌疑が深まる。聖職者の地位、竜殺しを騙るのは、重罪だ。教会にとっては伯爵位など、すげ替えの効く椅子にすぎない。その椅子に座る者など、誰でもいいのだ。
政治的には、そのような駆け引きが考えられるが、ホークは首を横に振った。聖騎士として、戦場で名を馳せた若い男爵は、誠実で公明正大と聞く。しかし、ホークは傭兵仲間から聞いた言葉の方を思い出していた。「ガンコ者で冗談が通じない。冗談を嘘と思われて首を切られそうになった」彼が政治的な知己を体得するまで、前男爵は死ぬべきではなかったのかもしれない。政治は騎士道ではないのだから。そう、男爵は、ただ朴訥に騎士道を貫いただけなのだろう。
スゥは西の伯爵領で、伯爵により、スゥが竜を殺したと騙ったという罪に問われ、賞金をかけられた。しかし、男爵が、「スゥがグリーンドラゴンを倒した」と公表した。つまり、スゥは、本当に竜を殺したことになり、社会的に、もはや罪人ではない事になる。教会も、男爵の言葉により、それを認めた。
「伯爵の地位が危ういな…。あるいは、やけになって男爵領に攻め込むか?」
政治に敏感なホークが、こぼした。ベッドでは、スゥがムシュフシュを抱いて寝息を立てていた。
数週間後。
早朝、スゥが鶏の鳴き声で目を覚ました。
上半身を起こすと、胸にくっついたままのムシュフシュが寝ぼけ眼でスゥを見上げる。
アウラとホークの姿はなく、鞘に納められたフェザーが壁にもたれ、枕もとにハウルを入れた聖書が置かれてあった。
いつも居る者が居ない違和感。でも、これが普通だったのだと、スゥは思った。
「スゥさま。失礼いたします」
ベッドの縁に腰掛けると、部屋のドアが開いて、ナオミが入ってくる。手には洗面用の器とタオルを持っていた。
スゥが顔を洗うと、ナオミはタオルを渡し、顔を拭くと着替えを手伝う。訓練されたメイドに、かしずかれているようで、でも、不思議とそれが当り前のように、スゥは感じていた。ナオミの手際の良さに、流されているだけであるが。
スゥが着るのは、ナオミと同じく、ごく普通の町娘の衣装だった。貴族が着るようなドレスをあてがわれそうになって、スゥが断固拒否したのだ。
だって、これじゃないと……。
朝食前、スゥは、やかんを持って牧場に出る。牛舎に入って牧場主のオジサンに声をかける。
「おじさーーんっ、今日も、よろしく~」
「おおっ、来たか。さっそく頼むよ」
牛舎には、スゥの他に数人の女どもが居て、すでに朝食用のミルクの搾り出しをしている。スゥも乳牛の一匹に挨拶をして、隣に座り、乳を搾り始める。
やさしい乳牛と呼吸を合わせ、リズム良くミルクを搾る。
バケツが一杯になると、母屋に持っていき、ミルク専用の入れ物にミルクを移す。
明るい声と笑顔の飛び交う、活気ある牧場。
ミルクは、ラバの引く荷車に乗せられた。その端っこにスゥがちょこんと座る。自宅用の小さなやかんを抱いている。ラバの主人である老人が手綱を引くと、ラバは声を上げて、ゆっくりと村中を回り、朝の食卓に新鮮なミルクを届ける。
ミルクを手渡すスゥには、笑顔とお礼の言葉が掛けられ、スゥは、心が温まるのを感じた。
村を一周回った荷車は、スゥを施療院の別院へと連れて行った。そこでは、ナオミの手料理が、温かい湯気を上げて、スゥを待っていたのだった。
食卓につき、ムシュフシュと一緒に朝食を食べる。あまり、ゆっくりとしても居られない。
文字の読み書きが出来るスゥは、教会に村役場にと、ひっぱりだこだったからだ。
教会によって聖別された森に囲まれた村には、魔物との争いもなく、スゥは戦いを忘れつつあった。そして、その代わりに、笑顔を取り戻していった。
給仕をしていたナオミが、ふと、スゥに言った。
「スゥさま。この村に、住みませんか?」
三軒目の家を出て、スゥは、花の咲く山の斜面に腰掛けた。
手には数通の手紙を持ち、はるか麓の都市を眺める。
読み書きの出来るスゥは、手紙の代筆と、帰って来た手紙を読む仕事をしていた。今も、手紙の返事を読むために、村人たちの家を訪れたところだ。
文明の発達していない、この時代。スゥのように読み書きの出来る人間は、それだけで貴重だった。
その時、声を上げてムシュフシュがスゥに駆け寄った。
スゥは、笑顔でムシュフシュを抱きしめる。
「スゥさま。この村に、住みませんか?」
ナオミの声を思い出し、反芻する。
ムシュフシュを胸に抱いたまま、山の斜面に寝転がった。
風の優しい空に浮かぶ雲。
形を変えないようで、ゆっくりとその形を変えていく。
憎しみに固着した、スゥの心も、やがて変わる。
スゥは、自分の心が溶けていくのを感じた。
もう、いいかな……。
そう思った時、東の空の向こうに、それが見えた。
真っ黒な雷雲が早馬のような勢いで迫ってくる。と、思った。しかし、それは違った。
スゥは、狂いそうになった。あの日の出来事が思い出された。
そして――――っ。
天は、群れをなし、押し寄せる竜の大群によって失われ、眼下の都市は、一瞬の内に火の海と化した。
はるか上空からのドラゴンブレス。それが都市を焼き払ったのだ。
燃え盛る都市。立ち昇る黒煙と無数の火の子。人々の断末魔の叫びが聞こえてくるかのよう。スゥは、狂ったように泣き叫び、両手で耳を塞ぎ体を屈した。
その時、竜に隠された天空に、ひとりの子供の顔が映し出された。
ピエロのようなメイクをした魔道士風の男の子だ。
怒りに燃えた目でにらみ、憎しみで歪んだ口で、世界中に告げた。
「滅びるがいい。人間ども!」
骨の芯に恐怖を染み込ませ、前身に震えをもたらす畏怖すべき声。
「竜王…」
スゥの口から、その男の子の名前がこぼれた。
幻の映像からすら理解するその強大さ。その恐怖に涙を滲ませ歯を鳴らした。
映像の竜王は、スゥに目もくれなかった。
竜の大群は世界を、その吐息で舐め、ことごとく粉砕していく。その日、世界中の大きな都市、全てが滅びた。
その夜、スゥは旅装に胸鎧を着て、マントを羽織った。ナオミが用意した荷物を背負って家を出る。
スゥを追いかけるムシュフシュ。スゥは振り返り、抱き上げて頬を寄せた。
そして、スゥは遠慮がちに、ナオミに聞いた。
「全てが終わったら、ここに帰って来てもいい?」
ナオミは、微笑んで、即答してくれた。
「もちろんです。竜殺し、スゥさま。必ず、戻って来て下さい」
村の出口に、アウラとホークが待っていた。言葉なく、微笑みだけを挨拶にして、スゥに付き従う。
スゥは、目を伏せて微笑んだ。「ありがとう」感謝の言葉が口からこぼれた。
こうしてスゥは、再び旅立った。でも、今度は、復讐のためじゃなく、ただ、自分が為すべき事を為すために。