旅立ち
始めるから終わる物語
2005年5月31日 Papp
泥まみれの少女が、むき出しの地面に座っていた。
どこにでも居るような町娘の衣装を着た、赤毛の三つ編み、ソバカスの少女だ。
茫然自失の瞳が、色をなくしてそれを見ていた。
それは、かつて……ほんの10数分前まで町だった焼け野原。くすぶる木材がケムリを立て、焼けた石畳の道が高熱に赤黒く光っている。
生きる者の姿は、この少女以外――――――…。
――――――いた。
それは天空を舞う巨大な破壊者。その吐息が舐めるだけで、一瞬のうちで町はこのような姿となった。少女の産まれ育った、この町が。
その時。轟音と共に、破壊者が少女の前に降り立った。大地震が発生するかのように地面が揺れる。
町の風景どころか、空さえも覆い隠して、赤黒い巨躯が目の前に現れた。
鋼すら凌駕する硬度を持った鱗は、騎士が持つ盾のように大きい。それが全身を覆っていた。荒ぶる自然の脅威を現す瞳は、狂気に輝いている。貪欲な食欲を示す野獣の口から、水瓶をひっくり返したかのように涎が流れ落ちる。鮫のそれすらもオモチャに見える程、大きな牙がゾロリと生えそろった口は、呼気に僅かに炎が混じり、少女の濡れた頬に当たると、一瞬で涙を蒸発させた。
そいつが、コウモリに似たその翼を広げると、天は完全に覆い隠され、羽ばたくと、その風圧で少女の体が弾き飛ばされ、何度も地面に体を打ちつけながら転がった。
ガォオオオオオオオオオ!!!
そいつ…、竜が天に吼える。天が落ちる程の咆哮だった。
泥を舐め、土を食んで、苦渋に満ちた声で少女は竜に言った。
うつ伏せに倒れた体。顔だけが竜を見て言った。
「あなたを生み出したのは、この私…。
なぜ、親である私の言う事を聞かない!
なぜ、私の町を滅ぼしたっ!!
なぜ………。なぜ、私のハンスを殺したーーーーーっ!!!」
竜は―――――。
その荒ぶる自然の力を秘めた瞳を揺らしもせず、もう一度、咆哮を上げ、空に飛び去った。
少女スゥは、追いかけようと立ち上がった。
その途端、バランスを失って倒れた。
痛めつけられた体は、立ち上がり走ろうとするスゥの意思を裏切るしかなかったのだ。
スゥは、もう一度、泥を喰った。
スゥは、泣きながら、口に含んだ泥を吐いた。嗚咽とともに、泥を吐いた。
天は、急速に曇り、雨を落とし始めた。
廃墟の町に倒れ、雨に打ち付けられ、泣き続けるスゥ。
茫然自失の瞳が、途絶える事無く涙を流していた。
でも、10数分前までは――――。
スゥは、過去という幻になってしまった10数分前の出来事を思い出した。
ロバが荷車を引くレンガの石畳を、スゥは走った。
ごく普通の田舎町を。
畑仕事もする町娘の衣服は、強いが重い。裾の広がったスカートを摘んで、大急ぎで走る。その愛らしい姿に、すれ違った近所のおばあちゃんが、クスクス笑いながら、スゥに声をかける。
「今日も元気ね。ブルーフェアリー」
「こんにちは、おばあさま。今日もいい天気ですね」
スカートの裾を掴み、腰を少し落とし会釈をする挨拶。それもそこそこに、スゥは再び走り出す。
晴れた空、そよぐ風にゆれる道端のタンポポ。全ての命が浴びる優しい陽光。
赤茶げたレンガで出来た町並みが、勢いよく後ろに流れていく。跳ねるように走るスゥの赤毛の三つ編みが、リズムを刻んでジャンプしていた。
ソバカスだらけのスゥの顔は、溌剌と明るく、少し興奮している。
三つ目の角を曲がると、建物の窓からコック帽が顔を出した。いや、コック帽を被った精悍な顔つきの青年が顔を出した。
「よう、スゥ。そんなに急いでどうしたーっ? んなにお転婆してっと、嫁の貰い手がなくなるぞーっ」
大声を出すと、眉毛についた小麦粉が雪のようにハラハラと落ちる。
いつもの売り言葉。ならばこちらもいつもの買い言葉。と、反論しようとしたスゥだが、しかし相手にせずに答えた。
「宿ったのっ! とうとう、宿ったのよっっ!」
大慌てのスゥの言葉に、青年、パン屋のハンスがハッと気がつき、驚く。
「えっ?! もしかして………」
「そうっ! ジョセフおじいさんの人形に、魂が宿った!」
叫ぶように言って、スゥが走り去る。
「これはいけねえ!」
言って、ハンスも追いかける。
窓から外に出ようとするハンスに、パン屋のオヤジの怒鳴り声が響いた。
町の中心。露天が並ぶメインストリートの奥まったところに、小さな家があった。
木材を加工し、家具を作るマイスター(職人)であるジョセフの家の前には、噂を聞きつけた町人達が集合していた。
息せき切ってスゥがやってくると、町人達は喜んで道を開けた。スゥは真っ直ぐに家の中へ。
壁が大きく開いて店のカウンターになる家。中は工房になっていて、造りかけのイスや机が置かれてあった。
その造りかけのイスに座って、長い髭の老人が、木彫りの人形を抱いて、スゥを待っていた。ショボショボとした小さな目を、期待で輝かせてスゥを見る。
胸に手を当てて一生懸命息を整えようとするスゥ。ハンスも追いついて、野次馬になった町人と一緒にスゥを見守る。
長髭の老人ジョセフの抱いた木彫りの人形は、表情があり感情を感じさせた。
でも、ただの木彫りの人形。
息を整えたスゥが前に立った。
息を整えるために当てていた手が、今は祈るように胸に添えられている。
同じく祈るように閉じられたスゥの目。それがゆっくり開くと、瞳に、水のようにたゆたう黄金の光が宿っていた。同時にスゥの背中に、青く輝く光の羽が生え、大きく広がる。その姿は、まるで青い妖精のようだった。
スゥだけに見える、木彫りの人形、その「魔法の真の名前」。それを読み取り、スゥは厳かに告げた。
『お前の名はビーノ。マイスター・ジョセフの子供』
すると! 木彫りの人形が光に包まれた。光が止むと、そこには――――っ!
「おじいちゃん………」
愛らしい子供の声が漏れた。
なんと木彫りの人形が、人間の子供になっていた!
涙を流して喜ぶジェセフの胸に抱かれる新たな命。野次馬に歓声が上がった。「さすが、真名の魔法使い。ブルーフェアリー・スゥ!」
スゥを称える歓声が鳴り止まない。スゥは照れて笑った。そのスゥに、町人のひとりが言った。
「俺の荷車も、働き者の馬にしてくれ」
「ヨゼフおじさん? もっと愛情を注いで、物に魂を宿さなくちゃダメよ?」
イタズラっぽくウインクで答えるスゥに、ヨゼフは苦笑して頭を掻き、野次馬が笑った。
幸せな笑い声。
幸せな過去の記憶が薄れて消えていく。
そして目の前には、現実が戻った。
焼け野原。
廃墟と化した町に、子供を抱いたまま息絶えた老人の姿もあった。
「いやぁあああああああああああ!!!!!」
スゥの絶叫が天を貫いて響いた。
少女スゥは生まれつき「真名の魔法使い」であった。
真名の魔法使いとは、物や人の本当の名前を見抜き、その名を呼ぶ事で、その物や人を変身させる魔法使いである。
荷車を馬に変えたり、木彫り人形を人間の子供に変えたり出来た。町の人間が「ブルーフェアリー」と呼び親しむ明るい女の子、スゥ。
スゥはこの田舎町で、いつも餓えてはいたけれど、なにもかもが楽しい幸せな生活を送っていたのだった。
つい、10数分前まで――――!
つい、10数分前。
町をスゥとハンスが並んで歩いていた。
「やったな、スゥ。でも何度も言うけど、女の子がスカートを翻して走るんじゃねえ」
「嫁の貰い手がなくなるぞ?」
セリフを取られてハンスがうめく。スゥが笑う。
「でもさ、いざとなったら、ハンスが貰ってくれるのでしょう?」
イタズラっぽく笑い、上目使いでハンスを見るスゥ。ハンスは照れてソッポを向いたまま、スゥを抱きしめて言った。
「もちろんだ」
恋人の胸の中で、甘えん坊の飼い猫になるスゥ。幸せな時間。
その時!
いきなりだった。なんの前触れもなかった。町の裏にある山が噴火したのだ。
突然、火山となった山が、石の雨を降らせ、溶岩が土石流となって町を襲おうとしていた。
ハンスに守られるように抱きしめられたスゥ。
必死で、火山に真の名前を見て、呼び、姿を変えた。
――――本当は、仔犬にしたかった。
でも荒ぶる自然の脅威は、仔犬に収まるをよしとしなかった。
火山は、荒ぶる自然の脅威そのものの伝説の生き物、ドラゴンへと変貌したのだった!
町は、突然現れた竜に、滅ぼされた。
崩れる家の崩壊。それに巻き込まれるスゥと恋人のハンス。
スゥは、生きていた。
崩れる家の崩壊から、身を呈してハンスが守ったから。
でも、そのハンスは――――。
スゥは仰向きになり、雨を打つ天に訴えた。手を伸ばし、空を掴み、捻った。
「なぜ……、なぜですか!? なぜ私達が、このような仕打ちを受けなければいけないのですか?! なぜ……、なぜですか!? なぜ、この呆れるまでに浅はかな私などに、このような力を与えたのですか?! 答えて下さい! 神よ!!」
答えなどない。ただ、雨の打つ音がするばかりだった。
雨は、降りつづけた。
スゥは、濡れながら、墓をつくった。
いくつも、いくつも、墓をつくった。
そして、やがて、雨は止んだ。
スゥはハンスの墓の前で、ドラゴンに復讐を誓った。
旅の衣装を身に纏い、ボロボロのローブを被ったスゥが、大きなバッグを持ってドラゴンが飛び去った方向の空を振り返り、視線でズタズタに切り裂いた。
ふと――――…。
足元、ハンスの墓に一本の小さな剣が刺さっているのを見つけた。
果物ナイフ程の大きさの剣。
それを見るスゥの瞳が、黄金の光にたゆたう。
拾い上げて天を見る。
ドラゴンの誕生に、怯え震える空を――――。
スゥは剣を胸に抱きしめ、厳かに告げた。
『お前の名前は、天が怯える咆哮「ハウル」』
すると剣に魔法の光が宿り、小刻みに震え始めた。天の怯えを、吸い取るかのように。
スゥは「ハウル」を手に持って、もう一度ハンスの墓に振り返った。そして自分の三つ編みを握り、それにハウルを持っていく。
「お前の真の名は、天が怯える咆哮「ハウル」。裏の名前を、天の悲鳴「アウル」」
裏の名前で呼ばれたハウルが、三つ編みに触れる。触れるだけで三つ編みが、悲鳴を上げて、自分から切れてしまった。そればかりか、空に浮かんでいた雲までが切り刻まれ、悲鳴を上げて霧散したのだ。
頭が男の子ようになったスゥが、髪を恋人の墓に捧げた。
ここに自分が収まる鞘さえも切り刻んでしまう魔剣が誕生した。
鞘が役に立たないそれを、スゥは一冊の本の中身をくり貫いて、そこに収めた。
大きな荷物を背負い、一冊の本を手に持った少女が旅立った。
朱色の朝焼けが、空の流した血のようだった。
旅立ったすぐに、道の脇から草を掻き分けて仔犬が現れ、スゥに向かって鳴いた。
黄金にたゆたう瞳で仔犬を見たスゥが驚きの声を上げた。
申し訳なさそうな、情けない表情をした仔犬。スゥに怯えるかのように震えている。なのに逃げ出さずにスゥに擦り寄って来る。
「お前…。憎いあいつと同じ名前なんだね」
まだ目が開いたばかりのような仔犬。スゥは親を捜すが見つからなかったので、きっとドラゴンにやられたのだと思った。
「あいつと同じ名前なんて可哀想だね。じゃあ、私が幸い(さいわい)の竜としての名前を与えてあげる。
あなたの名前は、ムシュフシュ。幸いの竜、ムシュフシュだ!」
名を呼び、抱き上げるスゥに、その時だけ、笑みが戻った。
ムシュフシュが申し訳なさそうに、でも少しだけ嬉しそうにクゥンと鳴いた。