故郷
大阪郊外の町で育った。
都心部に出るのに電車で二十分だが、町の性格は都会的とは言いかねた。しかし自宅の近辺には田畑はないので、農村ではないのだった。
郊外の住宅地である。
町の境界は、そのまま大阪府と奈良県の境でもある。
自宅から十分も歩けばもう山の際に達した。
その山はいつも家の窓から見ていた。
山は大抵そうだが、樹木の緑に占められていた。中腹までにはぶどう畑の緑も混じっていた。さらにその上にはぶどうを宣伝する看板が立っていた。
山の際に着いて、そこから山に入っていくにはまず石段を上った。これは神社の石段である。山の入り口にあたるところに神社があるのだった。石段を上り終えるともう町を見下ろすのに充分な高さがあった。山に来たという確かな感触があった。神社の境内はごく小さい。
見下ろす先の町には家々が密集していた。
これを見るにここは確かに都市であった。しかし都会的な洗練からはほど遠かったようだ。
十数階にも及ぶ高層住宅が三棟、間近に見えた。これは府営団地であった。ここは自分が通った学校の校区に当たるので、同級生にはここに住んでいる人が多かった。友人の家に遊びに行ってこの団地の建物に入ったことがあった。廊下が暗かった。夜、ここの廊下を歩いたら怖かったかもしれない。自分は夜にここを訪れることは一度もなかった。同級生が夜団地を歩くのが怖いと言っているのを聞くこともなかった。
神社から右へとセメントで舗装された道が続いていた。道はかなり急な上り坂である。
セメントの道が終わると、今度はアスファルトで舗装された道になる。セメントのところまでが神社の敷地だったのかもしれない。寄進者の名前を記した石柱がセメント道の脇に並んでいた。
アスファルト道に入ると間もなく池に着いた。
池にはアヒルが二羽いた。
この池にまで自分はよく祖父に連れられ散歩した。途中の店でアヒルに与えるための菓子を買って行った。祖父はすぐ隣の家に住んでいて、自分はよくふらりと遊びに行った。家の中でトランプや将棋盤で遊ぶことが多かったが、出かけるとしたらいつも山と池であった。
アヒルは大抵二羽だったが、もっと多く四羽くらいのこともあり、いつか全くいなくなってしまった。
この池までが自分の山への散歩の限界であった。そこからさらに上へと延びる道は舗装されていない登山道か、山をらせん状に巻く自動車道かであり、気楽に歩けるような道ではなかった。
自分がこの町に住んだのは高校時代までで、大学に入るとこの町を去って大学の近くに住むようになった。自分が高校生の頃、山の尾根に仏舎利塔が建った。白くて丸い形をした塔である。大阪の方では珍しい。関西一円を考えてみてもやはり少ないはずである。自分は関西の山で他にこういう塔を見たことがなかった。
大学生の頃、福岡・佐賀・長崎といった九州の北側を旅行したときには仏舎利塔を多く見た。電車で移動したのだが、新たな山が見えてくるごとにその山が塔を頂いていた。天気に恵まれた旅で、塔は日の光を浴びて輝いていた。
山に近い町であったが、川までも近かった。
川というのはかなり幅があって流れの速いもののことで大和川のことである。大和川の川原までやはり歩いて十分であった。
大和川の支流は町の中を流れていくので、その支流までとなるとこれは歩いて一分で行けた。しかしこれはごく細い川であって、ここに着いたからといって感慨はない。一方、大和川まで行くと町の限界まで来たという確かな感じがあった。
実際そこが町の限界で、川を渡ると隣の市になる。
また、川を渡らずに川に沿って数分歩けば自分の住む町、これは市政を敷いて長いのだが、これの市役所があった。この市役所は全くの町外れにある。市の成り立ちは二つの町の合併によるもので、その二つの町のちょうど中間点に役所が置かれたのである。中立的だが周りには街並みがない。役所ができてすでに長いのに依然として役所の周りに町が発達しないのは、川と線路とに挟まれた狭い土地だからである。線路はしかも二本、JRと近鉄とがぴったりとくっ付いて走っている。
自分の住む市を構成する二つの町、その自分が住んでいる側の限界、そこに大和川がでんと横たわっていた。
山にも川にも近い、それぞれ自分の家から歩いて十分くらいであった。大人になってから歩けばこれはもう十分とかからなかった。何とも小さな町である。その小ささを特に感じさせられたのは、自動車の走る道、それの作りであった。片道一車線ずつという狭さもさることながら、車道の脇に歩道が申し訳程度にしか付いていないのだった。白線を引いてその外側を歩道として指定してあるだけで、しかしそこを実際に多くの人が歩くし、自転車で通る人もある。
市道だったのではなかろうか。
府道や国道といったレベルの道路ではなかった。道路の際まで民家が迫り、拡張できる見込みはなさそうだった。
自分の住む町の境界として山と川という二つを挙げたが、境界はあと二つあった。
JRの駅やそこに乗り入れる線路は境界だった。各停しか停まらない駅なのだが、この駅を終点とする列車が設定されていたり、また快速列車が各停の列車を追い抜くのにこの駅が使われたりするような規模の大きさはある駅だった。だからこの駅周辺は四本の線路が走っているし、線路の走っている部分は小さな土手のように盛り上がっていた。踏切を渡るにもこの盛り上がりの上を渡っていかなければならなくて、この大きな踏切のおかげで、踏切の向こうは自分にはまた一つの別の町だという印象を与えた。この線路は校区の境界にもなっていて、線路向こうの人は自分たちの学校には来ないのだった。
線路向こうのスーパーには頻繁に行ったのだが、それでも線路向こうが馴染みのない町という印象は抜けることがなかった。そこのスーパーは一階が多くの個人商店(それはいずれも食料品を扱う店だが)が店を出す場になっていて、二階より上が著名なチェーン店の視点が入るという構成になっていた。
それが線路手前の、つまり自分の住む町のスーパーに慣れている自分には奇異なものと映って馴染めなかったのだ。線路手前のスーパーは一棟まるまる、また別の著名チェーン店が支店を入れていた。一階の食料品売り場は照明が明るく、床の色調も明るかった。何を買う訳でもないのだが、訪れるのが楽しくなるような場所であった。一方線路向こうのスーパーの一階は床がまさに土間のそれで、何ともあか抜けない感じであった。当時の印象では淡い恐怖感すら伴っていた。漬物の臭いが濃かった。
四つ目の境界も臭いとともに印象に残った。府営住宅を北側へと過ぎると工場が多くあった。工場には自分は辺境の雰囲気を嗅ぎ取った。いよいよ町も限界に近づいてくるのだ。そしてその印象を決定づけるのが製油工場で、ここからは濃い異臭が発していた。異臭ではあるものの通り過ぎる人間にはそう不快ではなかった。食用油なのが嗅いでいる子供にも分かるし、有機溶剤のような嗅ぐだけで健康への危険を直感させるような鋭い異臭ではなかった。しかし近隣住民として四六時中あの臭いを嗅ぐのはどうだったのか。住民と工場との紛争の噂を聞くことはなかった。
その製油工場は校区の限界をなす道路に面していた。工場は校区のすぐ外に立地していたのである。
自分がこの町を離れてからも暫く両親が同じ家に住んでいた。両親は別の土地に移り、元住んでいた家は人に売り払った。これでもう自分が故郷を訪れる理由はかなり減ってしまった。
故郷の町には伯母も住んでいたが、この人ももう亡くなった。叔母の葬儀にこの町を訪れたとき、建て替えられたJRの駅舎を初めて見た。自分がよく知る駅舎は線路を挟んで東西の地上に駅舎があったのだが、今度のは橋上駅舎で、これなら東西に二つも建物を造る必要はない。
自分が好いていた方の駅前スーパーは健在だった。建物が健在というべきか。中に入っている業者は代わっていたので。自分は前を通り過ぎただけであった。