1.灰色の人生に色彩を
お久しぶりです。
楽しんでもらえれば、幸いです。
アニミの宿屋。
カダス辺境都市の中心部、鎮魂の鐘が置かれた広場に併設されている築十三年の木造建て建築だ。父、娘の二人で経営しており、評判はそこそこ良い。
看板娘である少女は誰にでも好かれる性格と可愛らしい容姿をしている。
受付に立つ、片目に三本線の傷跡を持つ男は彼女の父で、元冒険者である。モンスターから受けた傷のせいで冒険者業を引退したが、実力は健在。酔っぱらって娘に声をかけようとする有象無象共を殴り倒す、力任せの親ばかとして、少しばかりこの狭い辺境都市で名を馳せている。
その宿屋では、『プレイヤー』と呼ばれる、人の可能性を具現化した存在が、誰もいない部屋に忽然と姿を現す。
世の理を超えた成長速度。個人が保有するには多すぎるスキルの数。異世界からの来訪者。
常人とかけ離れた存在である彼らが姿を現し始めたのは、つい最近のことである。
「おら、客の邪魔になってんだから用を済ましたやつはとっとと退け。あと、娘に手を出しちゃぁ、間もなく俺の鉄拳が飛――」
「娘さんを僕にください!」
「俺も俺もー!」
「お義父さんと呼ばせてくださいッ!」
受付にいる屈強な男とカウンターを挟んだ向こう側は、同じ服で身を包んだ人で溢れかえっていた。彼らは言わずもがな、チュートリアルを終わらせ一足早く部屋から出てきたプレイヤー達である。
「お前らァァァァァァァ!」
「「きゃーーーー」」
青筋を立てとうとうブチ切れた男に、カウンターに集まっていた野郎どもが散開する。数分前から繰り返されている茶番だが、抑えきれないニヤニヤを浮かべ、懲りずにカウンターに近づくプレイヤーを見るに、終わりは見えない。
おぼんで口元を隠し、その光景を微笑ましげに見つめていた看板娘は、何を思い出したのか、手に持っていたおぼんをカウンターに置き、階段を軽やかに駆け上がる。途中何人かのプレイヤーをすり抜けたが、彼女自身それに気が付いていないようだ。
……プレイヤーの方は、その事象に驚き階段から落ちそうになる者もいたが。
階段を上りきった彼女は、狭い通路にひしめくプレイヤーをまたもやすり抜け、一番奥に部屋に辿り着く。
息を整えるために小さく深呼吸し、乱れた衣服を整える。お客様の前に出るときはまず身だしなみを整えろ、と日頃から口酸っぱく言われている言葉を思い出して、最後に飛び出たアホ毛を隠す。
「うん、バッチリ!」
花の咲くような笑みを浮かべ、彼女は扉に手をかけた。
■
約一時間、私は自分が作り上げた器をいろんな角度から眺めていた。キャラクターメイキングがこのチュートリアルでしかできないため、ここで時間をかけるのは当たり前で。しかも制限時間はないというのだから、各パーツの黄金比を求め始めるのにそう時間はかからなかった。
右手を動かし、宙に浮かぶ画面を操作すると、器の瞳が空色に変化し、髪の毛が腰の辺りまで伸びた。
なんか違う。
「むぅ」と唸って、私は再び手を動かした。
VRMMORPG『オーバーゼア』。
人類の歴史の中で初めて世に出たファンタジー溢れる全身没入型ゲーム。
巷で噂のVRMMOの技術を搭載した最新機器、『シナプス』とセットで売られ、鰻登りに上がる人気は止まることを知らず、どの店舗に顔を出しても品薄状態は当たり前。そんな空前絶後の人気を出すこのゲームは、味覚、聴覚、視覚、嗅覚、触覚、それら全てを現実ではなく仮想空間内で体験できた。
血なまこになって店を回る者は続出。『シナプスの悪夢』という社会現象が現在進行形で起きている。
疑似的仮想空間に意識を移す技術は世間から高く評価され、『シナプス』は飛ぶように売れた。転売では数十倍の値段で取引され、セットで売られた『オーバーゼア』は言うまでもない。
本体価格は、決して安い値段で売られるはずもなく、お子様の手の届かないお値段設定で提供された。
なけなしの金を叩き、手に入れたものは多い。
ちなみに私もそのうちの一人で、バイトで貯めたお金をすべて使い切った。馬鹿なことをしたと思う反面、愉悦じみた達成感は何物にも代えがたく、SNSで度々呟いては称賛と妬みをかっていた。
手にした『シナプス』は頭にかぶるようなヘルメット型。すっぽり頭を包むため、安心感が湧いてくる。
『オーバーゼア』のパッケージには、地球を覆う黄金の大樹のデザインが施され、分厚い本のような説明書の中にチップが内蔵されていた。
≪器の設定を完了しますか?≫
その言葉に現実に引き戻された私は、最終確認のため、細かく設定した器をあらゆる角度から再度見る。
軽装備だ。網目の荒いズボンから覗く目に焼き付くような白い足。首元をボタンで留めた皮のシャツ。
襟足だけが長い濡羽色に染められた短い髪と、こちらを見返す鮮やかな青。来ている装備は貧相なものだが、端正な顔立ちがそれをカバーしていた。黄金比を求めただけあって、顔を拝むのに少しだけ罪悪感を感じるほど、整っている。
周りをうろちょろしながら最終チェックを行う。
感慨深い。
出来の良さに満足げに頷き、三日もかけて作り上げた器の頭にそっと手を置いた。
「今日からよろしく、私」
小さく頷いたように見えて、バッと手を離す。
……見間違いだったようだ。夜通し作っていたからか目が疲れているらしい。
器の髪の毛の感触を楽しんでいた私はふと、筋肉の付き具合が気になった。
いや、邪な目で見るわけじゃないんだから、別にいいじゃないか。これは私の器なんだし。
シャツをめくってみる。
おぉ。引き締まってる。筋肉が付きにくい体質だから、これはすごく嬉しい。
不躾に見るものではないのだが、やはりというか、触ってみたくなる。
少しだけなら。
自然と唾をのむ。
相手が生身の人間なら、こんな馬鹿な真似はしないのだが、目の前にいるのは人の形をした器。
恐る恐る伸ばした人差し指が、張りのあるそれに吸い込ま――
≪ハラスメント警告≫
――れることはなかった。
≪詳細は公式ホームページよりご確認ください≫
ハラスメント警告。運営が指定したいくつかの条約を破ると現れる、人前では見せたくない表示。
伸ばした手がハラスメント警告によって弾かれ、反動で尻もちをつく。
「いててて……」
痛むお尻をさすり、私はため息をつく。
同性だから別に触ってもいいじゃないか。やましいことなんて考えてなかったんだぞ。
立ち上がり、最終確認を終えたので器の設定を終了する。
≪器を作成。……完了。キャラクターメイクを終了します。器が魂と統合します。3、2、1≫
眩い光が視界を覆い、次の瞬間には目の前から器が消えていた。
「あれ? え?」
壁に埋め込まれた鏡に、私ではなく器が映り込む。
首を傾けると、はらりと前髪がめにかかった。
「す、すごい……これが私……」
ばんざーい、と手を上げて、そのままベッドに倒れ込む。皺のないシーツの上を転がり、暫く感触を楽しむ。ふわりと香る、ほのかな花も香りに頬をほころばせ、現実と遜色のない再現度の高さに、感嘆のため息を吐いた。
窓から差し込む光がちょうど顔にあたる。それを遮るべく掌を眼前に持ち上げるが、それでも指の隙間から光が漏れ――
――先日に友達と交わした会話が頭を過った。
嫌なことを思い出した。
再び鏡を見ると、悲痛な表情を浮かべたイケメンがこちらを見返した。
イケメンはどんな顔をしても綺麗で映える。
頭を振り、ベッドを離れる。
忘れよう。ここは現実ではないのだから。
気持ちを切り替えるようにその場で伸びをし、画面を操作して、統合の確認を終了する。
≪方舟の民よ。あなたに神の祝福を≫
≪いってらっしゃいませ≫
その文字を最後に、画面の操作が不可能になる。同時に、進むべき方向を指し示す淡い光が扉を包んだ。
「さて、行くか」
両頬をピシャリと叩く。痛みの代わりに軽い衝撃が伝わってきた。
私は今、ゲームの中にいるのだと、改めて実感する。
二十一世紀最後の発明にして、新時代の幕開けを担うVRMMO。生きているうちにそれを体験できるなんて、私は幸せ者だ。あぁ、興奮してきた。
踊る心を抑えて、部屋から出るべく扉に手をかけようとしたその時、
「おはようございますっ! プレイヤー様、今日はいらっしゃいますか?」
元気の良い声と共に、扉が押された。ぶつからないよう後退りして、外から入ってきたアホ毛を生やした少女の姿を視認した。少女が私の姿を見て、固まる。もちろん私も石像のように固まった。
「あ、えと、はじめまして」
「……はじゅ、はじめまして?」
普段から人と話すのが苦手な私は、ここぞというばかりに舌を噛んだ。幸いなことに少女は気付いていないようだが、私からすると穴を掘って埋まりたいぐらいの恥ずかしさである。
「私はユーリです! プレイヤー様のお名前は?」
「……私は」
そう言いかけて、口を閉じる。
きっとここが、私にとってこの世界での在り方を決める分岐点だ。
なんの前触れもなく、唐突にそう悟った。
手汗でしっとり濡れたズボンを、皺になると分かっていながらも強く握り、口を真一文字に結ぶ。
私は普通の大学生だ。普通に大学に通い、普通にバイトに行き、気分で講義をさぼり、代わり映えのない道をバスの中から眺める普通の人間。
両手に収まるくらいの友人しか持っていないが、不自由のない生活を送っている。
事件事故に遭うこともなく、脅威に命を脅かされることもなく、ただただ先人に与えられた平穏を享受し、日々を生きている。
満足している。自由な時間を多大に与えられている現状にとても満足している。
不満はない。
けれど。決められた生き方を毎日こなしていれば飽きがくる。放置していたら飽きはどんどん広がり、日常から色を奪っていく。思考が機械的になっていく。日常が、日常でなくなっていく。
日常を守るために刺激を求めてしまうのは仕方がない。これは仕方のないことだ。
私は渇望する。なんの変哲もない日常に、褪せた現実に色を取り戻すために、これまでになかった刺激を望む。
いつの間にか俯いていた。心配そうに私を見上げる少女を前髪の隙間から見下ろし、冷えた手をズボンから離す。案の定、皺ができていた。
皺を伸ばし、少女の身長に合わせて中腰になる。こげ茶色の瞳に、私の顔が映り込んだ。
「……私は鴉。いずれ世界を混沌に陥れるPKさんだ」