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色鬼


 私の勤める保育園には、ちょっぴり不思議な子がいます。


 子供たちって本当に感受性が豊かで、凄く想像力があると思うんです。私にはいびつな形にしか見えない雲も、あの子たちから見れば夢の国へ連れて行ってくれる魔法の船にも、秘密のマシンにもなっちゃいます。お砂場に行けばお城やトンネル……ううん、そんな言葉じゃ表せないステキな何かをいっぱい作るし、何度もやっているブロック遊びでさえ、同じものが出来たところなんて一回も見たことがありません。


 もちろん、そんな想像力や感受性が必ずしも良い方向に働くとは限りません。油粘土を宇宙人の食べ物だと思い込み、吐いて気絶しちゃった子もいれば、ある日いきなりお空が怖くなって、お外で遊ぼうとしなくなった子もいました。


 でも、それも含めて子供たちの愛すべき個性で、あの子たちがこれからステキなお兄さん、お姉さんになっていくために必要なものだと思うのです。


 さて、そんな想像力と感受性がはっきりわかるお遊びと言えば、なんでしょう?


 ──ずばり、お絵かきです。


 クレヨンが一本あれば、みんな稀代の天才画家に早変わり。きゃあきゃあと楽しそうに笑いながら、想像力の翼をうんと広げて、ピカソにもダ・ヴィンチにも描けない素晴らしい絵を画用紙いっぱいに描いてくれます。


 お父さんの絵。お母さんの絵。お花の絵に、飛行機の絵。可愛いワンちゃんの絵もあれば、カッコいい恐竜の絵もあります。せんせい(わたし)の絵を描いてくれた時はもう、この仕事をやっていてよかったって──本気で、そう思いました。


 そんな誰もが大好きで、誰もが楽しみにしているお絵かきの時間。


 あの子だけは、違いました。



▲▽▲▽▲▽▲▽



『ねえ、何を描いているの? 先生にも教えてくれる?』


 あの子はいつも、お絵かきするときはお部屋の隅っこで、ひとりでやっていました。先生としてその様子が気にかかった私は、ごくごく自然な態を装って、ひょい、と画用紙を覗き込んだのです。


 ──赤と、灰色でした。


 ぐちゃぐちゃ、ぐちゃぐちゃと、赤と灰色で画用紙が埋められていました。


『ねえ、これはなぁに?』


『え、だよ』


 にっこり笑って、あの子はクレヨンを持ちます。


 ぐしゃぐしゃ、ぐしゃぐしゃと、画用紙の白を赤と灰色で埋めていきました。


『何を描いているのかな?』


『んー』


 赤いクレヨンをぐりぐりと画用紙に押し付け、灰色のクレヨンを稲妻のように走らせる。あの子の手には赤と灰色のまだら模様が出来ていて、新たにめくったページに薄くシミを付けました。


 新しいページが、ぐしゃぐしゃ、ぐちゃぐちゃと、不規則な赤と灰で埋まっていきます。


『なんだろうねぇ、結構カッコいい……ううん、可愛いものなのかな?』


『ねこちゃんのほうがかわいいとおもう』


 あの子は赤いクレヨンで楕円を描き、その上の方に小さな三角形を二つ……猫の顔を描きました。そのままおひげを描いて、くりくりのおめめも描いて。


 ──角張った灰色のクレヨンで、全てをぐしゃぐしゃに塗りつぶしました。


『かわいいねこちゃんだったのに……よかったの?』


『……なんで?』


 不思議そうに首を傾げ、きょとんとした瞳でこちらを見つめてくるあの子。


 右手には赤いクレヨン。左手には灰色のクレヨン。両手で鷲掴みにしたそのクレヨンを真っ白の画用紙に突き立て──ぐるぐる、ぐるぐると赤と灰の渦巻きでぐしゃぐしゃに書きなぐっていました。


『……他の色は使わないの?』


『つかわない』


 クレヨンセットを見てみます。


 あの子が使っていたのはごくごく普通の、どこにでもあるクレヨンセット。クレヨン業界の最古参のメーカーが提供している、文房具屋さんに行けば必ず見かけるクレヨンです。私も子供の時はこのクレヨンを使っていましたし、パッケージのデザインも、昔と比べてほとんど変わっていません。


 赤、橙、黄、黄緑、緑、水色、青、紫、茶、黒、灰、肌──肌色って最近はペールオレンジって名前の物がほとんどなのです──の、十二色セット。最近はもっと色数が多いものや、キャラものなんかでパッケージが華々しいものが台頭してきているために、数年前と比べて随分と使われることは少なくなってきていますが……まだまだ現役の、昔ながらの安心感のあるクレヨンセットと言っていいでしょう。


 たいていの場合、子供たちはだいたいどの色も均等に使っていて、クレヨンの()()()具合もほとんど同じくらいになります。


 ただやっぱり、男の子の場合だと青や緑が比較的ちびていることが多くて、女の子の場合だと赤や黄色がちびていることが多い……というのが、私の経験から言えることです。


 今も昔も変わらないのは、どのクレヨンも包み紙がすぐにボロボロになって、出来の悪いじゃがいもみたいにでこぼこしたクレヨンがほとんどむき出しになっているってところでしょうか。そのためかケースには様々な色のクレヨンの欠片がひっついていたり、蓋の裏に落書き……ってわけではないけれど、いろんな色が写ってしまっていることが多々あります。


 だけど、この子のクレヨンのケースは。


 ほとんど、新品同然でした。


 橙も、青も、紫も、黒も──赤と灰以外の全ての色のクレヨンに、一切使われた形跡がないのです。


 文字通り、一切手を付けていないのでしょう。クレヨンの角は開封時と変わらない優しい丸みがついていて、包みにほつれの一つもありません。


 赤と灰だけが他の子どもたちと同じようにぐちゃぐちゃになっていて、他の子たち以上に──明らかに異常だと思えるくらいにちびていました。


 まるで、新品のクレヨンセットの赤と灰だけを、古いクレヨンセットのそれと入れ替えたかのような……というか、何も知らない人が見れば、そうとしか思えなかったことでしょう。


『……どうして、赤と灰色だけしか使わないの?』


『……どうして、それいがいのをつかわなきゃいけないの?』


 手を赤と灰で汚しながら、あの子はずっと画用紙にそれを書きなぐっています。


 ぐしゃぐしゃ、ぐちゃぐちゃと。


 ずっと、ずっとずっと。


 誰かに言われるまでも無く。誰かの目を気にすることも無く。


 息を吸って吐くのが当たり前のことであるかのように──生きていくうえでそれをするのは当然であるかのように、真剣な様子でもなく、かといって適当な様子でもなく、唯々自然体で、赤と灰のクレヨンをもって真っ白のキャンパスを埋めていました。


『他の色は、嫌いなの?』


『きらいじゃないよ』


『赤と灰色が好きなの?』


『すきってほどでもない』


 じゃあ、どうして。


 なんであなたは、こんなことをしているの?


 その一言を言うことが出来たら、どれだけ楽だったことでしょうか。


 ずっとずっと赤と灰で画用紙を埋めるあの子が……私には、恐ろしい、不気味なもののように思えてきてしまいました。


 振り返ってみれば、なんてばかな考えを抱いたものだと思います。愛すべき子供たちに対して、たった一瞬でも不気味だなんて思うだなんて、先生失格だと思います。


 それでも、あの一瞬に限って言えば、その気持ちは紛れもなく、私の本心からのそれであったのです。


『……お絵かき、好き?』


 今となっては、どうしてこんなことを聞いたのかわかりません。間を持たせるために何気なく聞いただけなのか、それともお絵かきが好きであれば、描いているものなんて何でもいいんだ……なんて、自分で自分を安心させたかっただけかもしれません。


『……すき?』


 赤と灰しか見ていない瞳が見つめてきて。


 ぞくり、と背筋が凍りました。


『なんでそんなこときくの?』


『え……』


『すきなように、みえる? たのしそうに、みえる?』


 嫌悪感でもない。嬉しそうにしているわけでもない。


 ただ淡々と、空虚な瞳で、純粋に疑問をぶつけてきたように私には見えました。


 それが、何よりも不気味でした。


『好きじゃないなら、無理して描く必要はないんだよ?』


『やだ』


 赤と灰がぐちゃぐちゃと、真っ白の画用紙を染めていきます。斑にも縞々にも迷彩にもモザイクにも見えるそれは、底のない泥沼のような雰囲気で、じっと見ているとそこに引き込まれてしまいそうな……精神的に何か取り返しのつかないことになるような気がして、私は思わず目を背けました。


 呪われた絵だと言われても、なにも不思議に思わなかったことでしょう。


 私の拙い語彙では表現できないくらいに、その赤と灰の淀みは異質だったのです。


『ねえ、何を描いているの?』


 二回目の質問。その正体が何なのか知りたい──知って安心したいという、私の中の本心が、それをさせました。


『……いわなきゃダメ?』


 ようやく手応えがあったと、そう思いました。


『教えてくれると、先生は嬉しいな!』


『……すきなものをかいていいっていった』


『うん』


『じゆうにかいていいっていった』


『うん』


『すきなものを、じゆうにかいているだけ』


『……』


『すきなように、じゆうにかいているだけ。……なまえがひつようなの? じゆうなのに? どうしてなんでもかんでもなまえをつけたがるの? なまえがなきゃダメなりゆうってなに?』


 今までで一番はっきり喋ったあの子は、なにか恐ろしいものを見るかのようにして私の顔を見つめてきました。


『なまえなんて、なくてもよくない? ぜんぜん、じゆうじゃない』


『……そうだね。ごめんね、先生が悪かったよ』


 赤と灰。今も目の前で増え続けていくそれに、名前なんてつけられるはずがなかったのです。


 何を描いているのか、どうして描いているのか。たぶん、この子自身もよくわかっていないんじゃないか。


 そう思えたら、どれだけ楽だったことでしょうか。


『ん』


 赤と灰のクレヨンを持ったあの子を見て、【ただ自由に絵を描いている】なんて感想を抱ける人は、絶対に居ません。あの顔を見れば、あの子が画用紙を赤と灰で染めていく姿を見れば、私の言っている意味が、それがどういうことなのか──その本質が、感覚で理解できると思います。


『ねえ……ちょっと他のページを見せてくれる?』


『いーよ』


 赤。


 赤。


 灰


 赤灰赤灰灰灰赤灰灰。

 灰灰灰赤赤赤赤赤灰。

 灰灰赤灰赤灰赤灰灰。


 灰。


 赤。


 灰。


赤灰赤赤灰赤赤赤赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤赤灰灰赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤


       赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰灰赤灰赤赤灰赤赤桃赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤      灰灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰           赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰灰赤赤灰赤赤灰赤赤赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤 灰赤赤灰赤赤赤灰灰赤灰赤赤灰赤

         


 赤灰赤赤灰赤灰灰赤赤灰赤赤赤灰赤赤灰赤灰灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰灰灰灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤赤赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰灰赤灰赤赤灰赤赤桃赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰灰灰灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰灰赤赤灰赤赤灰赤赤赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤赤灰灰赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤赤灰赤。


 どのページも、どのページも。


 赤と、灰。


 赤と、灰しかない。


 赤と灰が白を蝕んで。


 それしか、ない。


 赤と灰のぐちゃぐちゃが。


 淀んで渦巻いて。


 こっちを赤と灰に、ひきずりこもうとしている。


 ──冗談抜きに、鳥肌が立ちました。


『せんせい、どーしたの?』


 画用紙帳をポトリと落とし、真っ青になった私を見て、さすがに何かおかしいと感付いたのでしょう。私の尋常じゃない様子に何か思い当たることがあったのか、あの子は決心した様子で、私に耳打ちしてきました。


『……せんせいにだけ、ないしょでおしえてあげる』


 ──もう聞きたくない、というのがその時の私の心情でした。


『あかのクレヨン』


 右手に赤を持って。


『はいいろのクレヨン』


 左手に灰を持って。


『じつはね』


 あの子は新しいページの白を、赤と灰でぐちゃぐちゃに侵しました。


『これ』


 そうして、ぐちゃぐちゃの真ん中をとんとんと叩きました。


 ──赤と灰が混じることで生まれた、掠れかけたピンク色がありました。


『なにもないところから、ぜんぜんちがういろがでてくるの。それをみるのがすごくすき。なんかいやっても、できるときとできないときがあるし、きれいにできることなんてぜんぜんない。だから、うまくいったらすごくうれしい』


 ちびた赤と灰のクレヨンを両手に握って、あの子は言いました。


『このクレヨンセット、ピンクがないんだよね』



▲▽▲▽▲▽▲▽



 あの子はただ、色を混ぜるのが好きなだけでした。


 お絵かきよりも、色の変化を見るのが好きなだけでした。


 自分のクレヨンセットにはない、ピンクを再現してみたかっただけでした。


 だけど、先生は今でも思うことがあるの。


 画用紙帳全部をいっぱいまで埋めていたのは、赤と灰の二色だけ。


 クレヨンセットの──十二色を手に取ったら、どうなるのかなって。



▲▽▲▽▲▽▲▽



 ──色鬼は、今日も色が好き。

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