犬鬼
幼いころから、犬が嫌いだった。
私はただ、犬が怖くて怖くて仕方なかった。自分より速く動き、鋭い爪と牙を持つ生き物を、どうして好きになれるというのだろう。例え小型犬であろうとも、襲われたらほとんど成す術なく手痛い傷を負うことは明らかだというのに。
ましてや、それが大型犬であったなら……もはや、想像するまでもないだろう。ケガや身体欠損で済めば御の字、最悪の場合、生きたまま四肢をめちゃくちゃに噛みつかれて、長く苦しみながら死ぬことになる。
勘違いしないでほしいのだが、自分より強い生き物だったら何でも嫌いだった、というわけではないのだ。
この世界には犬以上に強く、たくましく、そして恐ろしい生物がごまんといる。普段は動物園で昼寝をしているライオンでも、ちょっと本気を出せばきっと犬の一匹や二匹、簡単に屠ることが出来るだろう。アメリカあたりに住んでいそうな巨大なワニだって、その強靭なアゴの力を使うまでも無く、尻尾の一撃で簡単に犬を倒すことが出来るはずだ。
しかし、別に私はそれらの生物に嫌悪感を覚えたりなんてしなかった。
なぜなら、それらの生物はあくまでどこか遠い地で生きているものだったり、動物園の檻の中という、私が住んでいるこの場所から遠く拒絶された場所で生きているものたちだからだ。
要は、関わり合いが一切ないから安心できていたのだ。私と「そいつら」の間に明確な境界線があったから、その境という存在の元に安全を本能で認識できていたのだ。
だけど、犬は違う。
やつらはそこら中にいるし、檻の中にいるわけでもない。
ちょっと油断すれば──否、奴らがちょっとでも本気になれば、すぐにでも私の喉笛に食らいつき、そして噛み千切ることが出来る。
これに恐怖せずして、いったい何に恐怖するというのだろう?
愛犬家……に限らず、大抵の人間はそんなのバカらしいだとか、犬だって聞き分けがあるだなんて言うけれど、私には到底それを信じる気持ちになれなかった。
どんなに言い繕ったって、犬は犬である。獣であり、人間ではないのだ。言葉は通じないし、例え意志が通じ合っている様に見えても、それが本当だと確かめる術はどこにもない。
百歩譲って、普段は大人しい犬がいたとしよう。だけれど、ほんのささいな、何でもないようなきっかけを持って、奴らは豹変する。野生を取り戻し、途端に人の制御を受け付けなくなる。散歩の途中で他の犬とすれ違っただとか、あるいは発情期だとか……理由はそれこそいくらでもあるだろうが、その事実だけは変わらない。
そんな時限爆弾みたいな存在を、どうして人間と同じように扱うことができるのだろう? 人間よりもはるかに強靭な肉体を持つ生物が、力加減の一切もできるかどうか怪しい生物が、突然制御不能になるという事実に対して、どうして楽観視することが出来るのだろう?
そしてかつてのペットブームの影響か、碌な知識も覚悟も無くペットを、犬を飼うことになった人間が、躾ができずに犬を持て余す事例なんて珍しくも無い。延々と吠えて近所に迷惑をかけたり、室内を荒らしてところかまわず糞尿をまき散らす……なんてのはまだかわいい方で、最悪の場合は理想とかけ離れた野生を持つそいつらを、どこか適当な所に放り出してはい、おしまい──なんて冗談みたいなことをするやつらもいる。
長々と語ったがつまり、機動力を持ち、攻撃力も高く、そして言葉も通じないでいつ襲ってくるかもわからないような凶暴性を秘めた生き物が、我々の周りには特に規制されることも無く、最悪の場合野放しにされているという現状がある……という事実があるということだ。
以上の事実を持って、私は犬が怖くて怖くて仕方が無く、そして嫌いであった。
もちろん、これには多分に私の生来の考え方や性質の影響があることは疑いようがない。中にはきちんと躾けられ、人間の良きパートナーとして生活を共にしている犬もいることだろう。それそのものは私も認めているし、そういった犬は怖くない。怖くないどころか、好感さえ持てる。
一方で、大半の犬は恐ろしいとも思っている。大半の飼い主は、クズや外道のそれに近い存在だとも思っている。
私の【犬嫌い】が決定的になった、ある話をしようと思う。
あれは、私が小学校三年生の時の話だ。
私の家は川と山──丘と形容するには高さがあったためにみんな山と呼んでいたが、実際はそんなに大きなものではない──に挟まれた場所にあった。学区としては川で区切られていたものの、山を越えて通学するのは著しく手間であるため、近辺に住む子供たちはみな学区変更申請を行い、川の向こうの学校に通っていた。
地図上の直線距離としては山の向こうの小学校の方が近いが、実際に歩いた場合、直線距離としては遠い川の小学校へ向かうほうが、はるかに楽だったのだ。
そんな背景があり、私の通学時間は平均のそれと比べて少々長かった。また、学区変更云々からもわかる通り、そもそもの子供の数が少ない田舎であったということは間違いない。
そんな田舎だから、自然が豊かだった。自然が豊かで、何もない──否、スペースだけはあった。
だから、暇を持て余した爺婆が住宅街から散歩に来たり──犬を引き連れて運動させたりしていた。
にわかには信じがたいのだが、犬が突然走りだしたりしても大丈夫なようにリードはつけるものなのに、最近は【伸びるリード】などというふざけたものがあるらしい。当然、掴んでいても伸びるのだから、リード本来の役割を果たさないのは明らかだ。
一応、この伸びるリードにはストッパーのようなものがついていて、飼い主側がこれを握ることでリードを伸びないようにする……なんて触れ込みだが、そもそもとして犬が突如走り出した時に咄嗟にストッパーを握ろうとも、そのわずかな間に犬は数メートルは移動してしまうことだろう。
それでもまぁ、一応リードであることは間違いない。無いよりかはマシである。限りなく効果は低いだろうと個人的には思うものの、少なくとも対外的なマナーは守っていると言える。
問題なのは、そんな伸びるリードさえつけないバカがいることだ。
あの日も、私は通学路をてくてくと歩いていた。前からやってくる犬が来るたびに身を強張らせ、それでもなお、勇気を振り絞って歩いていた。
近所の顔見知りの人間なんかは、私が視界に入った瞬間……距離にして百メートルは離れている段階で犬のリードを手繰り寄せ、何があっても絶対に大丈夫なようにしていた。そうでない人間──リードを長めに持っている人間であっても、私の明らかな怯えよう(そもそもとしてまだ九つの幼子であるわけだが)を見て、自分の犬に対していくらか注意深くなっていたかのように思える。
だけど、その日出会ったババアは違った。
犬を放し飼いにさせたまま(もちろん、近くには放し飼い禁止を謳う看板がいくつもあった)、何でもないかのようにすれ違おうとして。
興奮した──二匹の小型犬が、私に襲い掛かってきたのだ。
幼い私が感じた恐怖を、どう表現すればいいのか。犬種ははっきり覚えていないが、小型犬の中でも比較的大きい種だったように思える。いや、そもそもとして私が子供であったから、相対的に大きく見えていただけかもしれない。
いずれにせよ、二匹の獣に追いかけ回されて、恐ろしいと思わないわけがない。
口元から覗く牙。顎は強そうで、爪も鋭い。言葉が通じる相手ではないのが明らかで、そして人間と違って理性も無い。超えちゃいけないラインがわかってないというか、彼らにはそもそもとしてそんな概念なぞないのだ。
結局、駆けて駆けて、どこまでも駆けて──すっ転んだ。服の端を噛まれ、リュックをもみくちゃにされた。舐め回されたのだが噛まれたのかはわからないが、髪はべとべとになり、犬特有の獣臭さがこびりついていた。
半ベソになって耐えがたきを耐えていたところで、ようやっとそのクソ婆はやってきた。『ちょっとじゃれついただけなのよ~』と何とも呑気な発言をしながら、犬をひょいと抱き上げよう……として、犬は逃げていく。『ごめんね、うちの子たちは元気いっぱいで~』なんて言って、そのままサッサとどこかへ行ってしまった。
倒れて涙目になっている私に対して、手を差し伸べることさえしなかった。
悔しかった。あまりにも悔しかった。どうして私がこんな目に合わねばならないのかと、本気で思った。
こんなのおかしいだろう。悪いのは飼い主と、そして躾のなっていない犬だ。決して私が悪いわけじゃない。だのに、あいつらはのうのうと生きていて、私は地面をはいつくばっている。
こんなこと、許されるはずがない。
そして今回はまだこの程度で済んだものの、もし奴らが本気になって私に噛みついてきていたのなら、私は無事じゃなかった。
今回は、たまたま偶然、目立ったケガが無いと言うだけで、取り返しのつかない事態になる可能性は十分すぎるほどにあったのだ。
そこから私は、意識を改めることになった。どうして私がこんなにも理不尽な目に合わなくっちゃあならないのかと、本気で自問自答した。
どうにかしてこの事態を脱却する術はないのか、幼いなりに考えた。
そして、一つの結論に達した。
所詮この世は弱肉強食。襲われたのならば、こっちが返り討ちにすればいいだけの話なのだ。
人だって獣。犬だって獣。私がこの結論に至るのも、自然界の一員として、ある意味至極真っ当な事なのかもしれない。
さて、襲われても反撃すればいい……だなんて、言葉では簡単に言えるものの、実際そう上手くいくわけがない。私と犬の身体能力の差は歴然で、そして奴らには爪や牙といった自前の武器があるのに対し、私にはない。
では、私に何が出来るのか。何も持っていない私はどうすればいいのか。
単純な話である。
覚悟を、決めればいいのだ。
目潰しだろうが金的だろうが、なんだってやればいい。相手の急所を、一切の躊躇いなく攻撃すればいい。そこにあるもの全部使って、全力で抗えばいいだけなのだ。
死ねばすべてが終わりになってしまう。そして、奴らは私を殺し得る存在だ。そんな存在に襲われている時に、四の五の言ってはいられない。自らの命を護る為なら畜生一匹の命なんてどうでもいいし、指の一本や二本、いいや、腕や足を犠牲にしたってかまわない。それに、どうせ死ぬのなら、相手を道連れにして死にたいと思う。
それだけの気概があれば。それだけの覚悟があれば。後先のことを考えず、死ぬ気で動くことが出来れば。
こんな私でも、何かが出来る気がした。そして私には、それを成すための理由がある。あんな悔しい思いは──理不尽な思いはもう二度とごめんだという強い思いがある。
躊躇う必要なんて、どこにもない。
これだけでもう──少なくとも、犬を恐れる気持ちはだいぶ和らいだ。
なのに。
ようやっとここまで至ることが出来たというのに。
世の中はどこまでも残酷だった。
今の世の中では、犬に対して暴力を振るった場合、動物愛護法の違反となってしまうらしい。
ふざけるなと思った。守るべき対象をはき違えているんじゃあないかと思った。
どうして襲う側が守られて、襲われた側は抵抗することさえ許されない──それも、法律によって規制されているのかと、大きな声で叫びたくなった。いっそ私の頭がおかしくなったと言ってくれた方が、まだ救いようがあったかもしれない。
だけど、何度確認しても、その事実は変わらない。
もちろん、正当防衛や緊急避難の考えがある。犬に襲われたから抵抗したというそれであれば、一概に私が悪いということにはならない可能性が高い。
だけれども、仮にも命を殺めるような行為をして、果たしてそれは認められるのだろうか? 過剰防衛だとか、どこぞの口うるさい何もわかってない団体が何か言ってくるのではないだろうか?
何の力も武器もない私が、奴らに抵抗するにはそれしか方法が無い。しかし、幼い私の証言と、犬の飼い主の証言とで、信憑性があると捉えられるのはどちらだろうか。仮に私が犬を返り討ちにしたとして、その飼い主が淡々とそれを受け入れるとはとても思えない。そんな出来た人物なら、そもそもとしてそんなヘマは犯さない。
常識的な行動が最初からできていないのだ。盲目的に犬を愛する愚かな飼い主であるのだから、何をしでかすかわかったものじゃない。
何よりとして、私の納得がいかない。気分が悪い。脅威から身を守ったというその事実に対して、ほんのちょっとでもケチをつけられるのは我慢ならない。
つまるところ──どうあがいても、私のこの湧き上がる憤りの気持ちを、解消する術なんてないのだ。犬に関わってしまったら、身体的に死ぬか、社会的に死ぬか……少なくとも、そのリスクを抱え込む羽目になってしまうのだ。
理不尽極まりない理由で私が不幸になってしまうのだ。
そんなの絶対、許されるべきでない。例え神が認めようとも、私は絶対認めない。
▲▽▲▽▲▽▲▽
私は犬が嫌いだ。
恐ろしいのではない。純粋に忌々しいのだ。
出来ることなら、野放しにされている犬を全部蹴って回りたい。
この心の奥底から湧き出る気持ちを、存分にぶつけてやりたい。
ああ、憎らしい。
なんでお前らは、今日ものうのうと生きて、呑気に過ごしているんだ?
▲▽▲▽▲▽▲▽
──犬鬼は、今日も嫌っている。