俺と彼女と耳かき棒の距離
こころの迷宮という言葉を知っているだろうか?
早い話が、答えのない自問自答のようなもので、それに一度引っかかってしまうと、抜け出すのは容易なことではない。
しかし人間はそのことを知らず、自らそこに足を踏み入れ、自らの首を絞めていく。出口の見えない迷路をさ迷い続け、疲れ果てるまでありもしない答えを探し求める。
つまり、今俺が何を言いたいかというと……
「あー、さっぱりわからん。少し休憩だ」
無意味なことからは早いとこ身を引くのが肝心で、それは試験勉強にも同じことが言えるということだ。
俺がペンを投げ出し床に寝転がると、隣に座っている陽菜が小さく笑った。
「ふふっ。和樹くん、始めてからまだ三十分も経ってないよ」
「そうは言っても、ここすごく難しいし」
「わからないところは教えてあげるから、もう少しだけ頑張ろ?」
俺たちは今、来週に迫った期末試験の勉強をしている。
とは言っても、授業の大半を聞き流していた俺のために、彼女がつきっきりで教えてくれているという、何とも情けない形になっているが。
「まず、ここの問題は――」
陽菜が俺の方に身を寄せてきて、丁寧に問題の解説をしてくれるが、俺はそれをどこか上の空で聞いていた。
なぜなら、今の俺には、試験よりもっと大きな難題が目の前にあったから。
俺たちが付き合い始めて三ヶ月。
最初は、たまたま授業で席が隣になって、それがきっかけでよく話すようになった。でもそのうち、俺の中にある彼女への気持ちがどんどん膨れ上がって。
暖かな風が葉を揺らす木の下で、俺は陽菜に、想いを告げた。
頬を染めて俯きながらも、小さく首を縦に動かした彼女の姿を、今でも鮮明に覚えている。
でも、問題はそこからだった。
今までに女の子と付き合った経験がない俺は、これからどうやって進展していけばいいのかまったく分からなかった。デートに行ったりとかそれっぽいこともしてみたけど、どこかぎこちなくて。そんな状態だから、三ヶ月経った今でもキスは愚か、手だってまともに繋いだためしがない。
こうして俺の部屋で一緒に勉強するようになっただけでも、かなり進歩した方だ。だけど、せっかく好きな人と恋人同士になったのだから、もう少し距離を縮めたいと焦る気持ちもどこかにあった。
そうでなくても、こうも無防備に近づいてこられると、自然と意識が別のところに向いてしまい、彼女の話なんて殆ど耳に入ってこない。
「――で、ここがこうなるの。わかったかな?」
「えっ、あ、うん。大丈夫。すげーわかりやすいよ」
「ホント、よかった。じゃあ、ここまでできたら休憩にしようか」
陽菜が指示してきた問題を数分かけて解いて、その答えを彼女に確認してもらう。
「……うん、全部正解。お疲れ様。じゃあ、少し休憩にしようか」
彼女から休憩のお許しがでると、緊張の糸が切れて大きなあくびが漏れた。
「和樹くん、何だか少し疲れているみたいだけど、昨日はあまり眠れなかったの?」
「えっ、そ、そうだね。いろいろあって……」
心配そうな表情で顔を覗きこんできた陽菜に焦りながらも、なんとか笑顔を取り繕って答えた。
実は昨日から、どうしたら君ともっと仲良くなれるかを考えていて、気づいたら朝になっていましたとか、言えるわけがない。
「そうなんだ。……それじゃあ」
陽菜は少しぎこちない動きで、居住まいを直すと、
「も、もしよかったら、わ、私の膝で横になってもいいよ」
そう言いながら自分の膝を示してきた。
「……は?」
一瞬、意味がわからなった。
いや、言っていることは分かっている。つまり、陽菜が俺に膝枕をしてくれるということなのだろう。
でも普段の彼女なら、そういうことは恥ずかしがって言わないから、少し意外に思った。しかも、今日に限ってスカートの裾が短い気がするし。
「やっぱり、いやかな……」
「いやっ、そんなことはないけど、……いいの?」
「うん、いいよ」
いつもとは違い、積極的な彼女にどきまぎしながらも、俺は彼女の膝に頭を預けた。
頭を乗せると、布地越しでも彼女のぬくもりと柔らかさが伝わり、心臓が大きく跳ね上がった。
「ひゃんっ」
「ごめん、痛かった?」
「ううん、ちょっとくすぐったかっただけ。その、どうかな?」
「う、うん。すごく、いいよ」
なにがすごくいいのかはさっぱりだけど、今の俺にはそう答えるだけで精一杯だ。
そのあと、微妙な沈黙が続いた。
横になったはいいが、こんな状態でゆっくり休めるわけもなく、むしろ余計に緊張する。
「あっ、あのねっ!」
数分の沈黙を打ち破り、急に陽菜の上ずった声が上から聞こえてきた。
「もし、和樹くんがいやじゃなかったらなんだけど、み、耳かきとかしても、いいかな?」
「……は?」
またしても、まぬけな返事が出てしまった。
なに? 陽菜が耳かきをしてくれるのか? 俺に、この体制で? それってつまり……
恋人に膝枕で耳かきをしてもらうという、男なら誰もが憧れるシチュエーションだ。
彼女からの願ってもない提案に、思わず小躍りしそうになった。
「い、いいのかな? そんなことまでしてもらって」
「うん、大丈夫だよ。私がしてあげたいから……」
「じゃあ、お願い……します」
陽菜は少し待っててと言うと、鞄から耳かき棒やティッシュなどの道具を取り出した。随分と準備がいいなと思ったが、今から彼女に耳かきをしてもらえるという高揚感の前では、些細な疑問に過ぎない。
「それじゃあ、耳かき棒を入れていくね」
彼女の柔らかな手が、俺の耳をそっと包むように添えられた。いよいよ始まる。
「……えいっ」
「うぎゃあ!」
「うわわっ、ごめんなさい。私、人に耳かきするの初めてで。痛かったよね!?」
「……いや、大丈夫だよ。でも、もう少し優しくしてくれるとありがたいかな」
正直に言うと、鼓膜を突き破られたかもと思うほどの激痛だったが、彼女の「初めて」という言葉を聞いて、なぜだか頬が緩んで、痛みもどこかに消えていった。
「うん、わかった。今度はゆっくりやっていくね」
再び耳かき棒が入ってきた。今度は耳の浅いところを優しく撫でる感じで慎重に進められていく。先ほどのような激痛もなく、むしろ少しくすぐったい。
「こんな感じで、いいかな?」
「うん、すごくいい感じだよ」
「よかった。じゃあ、もう少し奥もやっていくね。また痛くなったら言ってね」
耳かき棒が耳穴の奥の方に伸びてきた。ゴソゴソと音を立てて耳の壁を掻きながら、何かが取り除かれていくのが分かる。普段自分でも掃除することはあるが、それとは違う、人にしてもらうとき独特の心地よさが耳の中を満たしていく。
「そーっと、そーっと……」
集中して気付いていないのか、そんな可愛らしい声が聞こえてくる。しかも顔を近づかせているから、彼女の髪や息が耳に掛かってくすぐったく、その度に体が反応したり、声が出そうになるのを必死に我慢した。
「だいたいきれいになったかな? どうかな? 痛くなかった?」
「大丈夫。気持ちよかったよ」
「よかった。じゃあ次は、梵天使っていくね」
「ぼんてん? ……って何?」
「梵天っていうのは、耳かき棒の反対についている、このふわふわのことだよ」
「あー、それか。俺ずっと綿毛って呼んでた」
「普段はあまり使わないからね。それじゃあ入れていくね」
陽菜が梵天を入れていくと、耳の中がもふもふとした感覚で埋め尽くされた。さっきまでの耳かき棒がピンポイントな刺激だったのに対し、梵天はそのもふもふで、耳穴全体を優しく刺激しながら、細かい異物を取り除いていく。
もふもふが、クルクルと右に左に回ったり、奥へ手前へと動く度、何とも言えない快感に意識がまどろんでいく。
しばらくしたあとに梵天は抜かれた。名残惜しさに少し落胆していたそのとき――。
ふーっ。
「ひゃうっ!」
耳の中に暖かい風が通り抜けた。
背筋がゾクゾクッと震え上がり、情けない声が出てしまった。
「あっ、ごめんなさい。いやだった? でも、耳かきの最後にはこうするって書いてあったらから……」
「書いてあった?」
「ううんっ、なんでもないっ。いやだったらやめるけど」
「そ、そんなことはないから」
「うん。……じゃあもう一度、ふーっ」
さっきよりも近い場所で彼女の甘い吐息が耳に吹きかけられると、また体が反応して軽く跳ね上がった。
「はい、きれいになったよ。次は反対側をやるから、こっち向いてくれるかな」
「え?」
耳は左右に一つずつ付いているから、当然もう片方も掃除するだろう。しかし、今の俺の体制は、俺の後頭部に彼女のお腹がある状態だ。だからこのままこっち向をいてということは、必然的に彼女のお腹と対面することになる。
「? どうしたの?」
「え、いや、なんでもない」
陽菜が不思議そうに聞いてくるから、向きを変えるため一回仰向けになる。今彼女がどんな表情をしているのか見ようと思ったけど、二つの大きな山が遮って、それはできなかった。
もう一度頭を動かして彼女のお腹と対峙した。思った以上に距離が近い。というか、ほぼ顔とくっついている。
彼女から清潔感のある柑橘系の香りがする。さっきとは別の器官が刺激を受け、また頭がくらくらとしてきた。
「あ、このままだと苦しいよね。体制変える?」
上手く呼吸ができないから首を少し横に動かした。確かに少し苦しいが、こっちの方がいい。むしろ、このままでいたかった。
「それじゃあ、このまま始めていくね。苦しかったり痛かったりしたら、ちゃんと言ってね」
反対側の耳も同じように浅いところから始まり、カリカリと耳の壁を掻きながら、徐々に奥の方へと進んでいく。陽菜も慣れてきたのか、さっきよりも手つきが軽快になり、より細かいところにも耳かき棒を入れていく。
ゴリッ。
突然、今までの乾いた音とは違い、明らかに硬いものを擦ったような鈍い音が耳の中に響いた。
「なにか、奥の方にすごく大きいの見つけちゃった」
いわゆる、自分でやっていて押し込んじゃったというやつだろう。普段自分でやるときは気を付けていたし、聞こえにも変化がないから大丈夫だと思っていたが、まさか自分の耳もそうなっていたとは。
「取れそうか?」
「うーん、頑張ってみる。でも本当に奥の方だから、痛かったらすぐに言ってね」
再度耳かき棒が入ってくる。触れている部分から彼女が言うように、今日やってもらった中で一番深いところだというのが分かる。触れる感覚や響いてくる音から察するに、淵の方からちょっとずつ削っているのだろう。
今のところは痛みもなく、気持ちいいことは気持ちいい。だけど、なぜだか妙な緊張が漂い、この快感や膝枕の心地よさを素直に堪能していられる余裕がない。彼女の息遣いも、どことなく緊張を伴っているのが感じられる。
何度目かの引っ掻きで響いてくる音が変わった。
「お、取れた?」
「うん、もう少しで取れそう。ちょっと強くするから、少し我慢してね」
そう言うと、陽菜は耳かき棒をさらに深く食い込ませて、そこから一気に引き抜いた。何とも形容し難い凄まじい音と共に、耳の中の異物が外へと取り出され、それと同時に、耳の奥に空気が流れ込んできて、今までにない爽快感が訪れた。
「ようやく取れたよ。大丈夫? 痛くない?」
「ああ、平気だよ。ありがとう」
陽菜の声がさっきよりもクリアに聞こえることで、やはり詰まっていたのかと実感する。どれほどの大きさなのか確認したかったが、この体制では見られないのが少し残念だ。
しばらくすると、大物が取れた刺激によって耳の中が無性に痒くなってきたが、そこを耳かき棒がピンポイントで掻いて、そのあとに梵天が自慢のもふもふで、全体を優しく刺激して癒してくれた。
最後にもう一度、彼女の吐息が耳を吹き抜けて、本日の施術は終了した。
もう少し陽菜のふにふにとしたふとももの感覚を堪能していたいという下心もあったが、これ以上は彼女に迷惑だと思い、非常に名残惜しいが頭をどかした。
そのときに、彼女の鞄の中にある雑誌が入っているのが目に止まった。それは派手な色使いで表紙を飾っている、若い女の子が読むファッション誌。だけど、確か彼女のはこういうのをあまり好んで読まないから少し不思議に思った。
よく見ると、『カレシと仲良くなるテク』と、大きく見出しに書かれている。
「それって、もしかして……」
「え? ……あわわっ、こっ、これは、その、違うの!」
俺がその女性誌を指差すと、陽菜は慌てて鞄ごと自分の背中に隠した。
「……あ、あのね。私、男の子と付き合うの初めてだから、どうしたらいいか分からなくて。あまり彼女らしいことしてあげられなくて、和樹くんにがっかりさせちゃったかなって思って。それで……」
「それで、耳かきしてくれたんだ」
「ごめんなさい。迷惑だった、よね」
陽菜の小さく俯く姿を見て、胸を強く締め付けられる感覚がした。
正直驚いた。彼女も俺と同じように、もっと仲を深めたいと思ってくれていたことに。
それよりも嬉しかった。仲を深めるためにいろいろなことを考えてくれて、普段はしないようなことを、勇気を出してしてくれたことが、ただ素直に嬉しかった。
俺は、あのときと同じように、頬を染めて俯いている陽菜の頭にそっと手を乗せて、優しく撫でた。
「ありがとう。でも無理しなくてもいいからな」
「え?」
「確かに、俺も陽菜とはもっと仲良くなりたい。でも焦る必要はないんだ。ゆっくりでいいんだよ。どれだけ時間がかかってもいいから、俺たちのペースで少しずつ、距離を縮めていけばいいよ」
最初は俺も焦っていた。でも今は、もうその必要はない。
だって今彼女の笑顔が、こんなにも近くにあるのだから。
「俺は陽菜と一緒にいるだけで、嬉しいから」
「……うん、私もだよ。これからも、よろしくね」
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。