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第九話 選ぶ道は

 メイドの声でレオーネは目を覚ました。部屋には細い光の線が差し込んでいる。体を起こしてベッドの横に立っているメイドに視線をやった。白いネグリジェは皺だらけになっているし、髪も縺れて大変なことになっていた。頭にはまだ靄が残っていて、世界に輪郭が無いような心地がしている。そんな主人に、メイドは言った。

「旦那様がおいでになっています」

「……?」

 靄が左右に散っていく。レオーネは瞳を丸くして、メイドに問いかけた。

「お父様が」

「いらっしゃっております」

 その一言でレオーネは慌てた。時刻は既に起きるには遅すぎる時間だ。

 トゥーレが居なくなってからの三日間。レオーネはまるで屋敷に来た当初のようにふさぎ込んでしまった。本当ならばそんな姿を見せず気丈に振舞わねばならない。けれど例え弱い面を見せたとしても、屋敷の者たちがそれを外に話したりすることなど一切ないとレオーネは信じている。

 レオーネは過去最高の速度で身支度を整えた。よく訓練されたメイドたちの抜群のチームワークによって一秒の無駄もなく顔を洗い服を着替え髪をすいた。

「お父様は何処に?」

「食堂にございます。お食事をせずこちらに来られたようで、遅い時間ですが朝食を召し上がられています」

 食堂に入ると、懐かしい父の姿がそこにあった。レオーネは自然と口元を緩ませて父の元へと向かう。

 アミキティア侯爵はこの屋敷に送り出した時と比べれば随分と体調も顔色も良くなった娘に、笑顔を浮かべ、その肩に手を置いた。

「元気そうで何よりだよ、レオーネ」

「お久しぶりです、お父様。驚きましたわ、こちらに向かっているという連絡もございませんでしたから……」

「手紙で話すよりも、こうして直に話す方が良いだろう? 早急にお前に伝えたいことがあってね」

「……なんでしょうか」

 たたずまいを直す娘を見てアミキティア侯爵はいやいや、と手を振った。

「まずは食事を取ってからだ。確か……腹が減っては戦が出来ぬ、だったかミッキー」

「はい、空腹では物事は良い方には働きませんで」

 木々の葉が揺れるように髪の毛を揺らしながら、管理人のミッキーはアミキティア侯爵が口に出した異国のことわざを補足した。

 レオーネは長い机の端に父と対面するように座った。長い距離があるが貴族にとっては慣れたものだ。アミキティア侯爵は、食事の間早急に伝えたい事については何も言わなかったが、食事が片付けられた所で食堂を出ながら娘を自らの執務室へと呼びつけた。呼び出された先がサロン等ではなく執務室であった事が、レオーネの胸にもわりとしたものを作り出す。


 この屋敷に滞在するようになってもう三か月近いが、レオーネがアミキティア侯爵の執務室に近づいたことはほぼない。そこに行く理由も必要もなかったからだ。それでも執務室はいつ部屋の主人が帰ってきても大丈夫なように、日々メイドたちによって手入れがされていて少しの埃っぽさもない。

 向かい合うように置かれたソファに一人ずつ座る。アミキティア侯爵の表情を見ればこれから話されることが重大な案件であることは分かった。自らが関わっている重大な案件など、マンゴルトに関連したものしかレオーネは思いつかなかった。

 何を言われるのだろうとレオーネは考える。もしマンゴルトの言っていた戯言が全て事実として扱われる、なんてことになっているのならもっと父の様子は焦っていただろう。婚約を再び結ばなければならなくなったのならば、悔しさがあるかもしれない。けれども早急の話と言っておきながら、アミキティア侯爵には追われているような恐怖感はない。ならば早く話をしなければならない事ではあるが、日数、或いは精神的に余裕のある事なのだろう。

 そのような事案がレオーネには考え付かなくて、ただ父の言葉を待った。アニアが用意してくれた可愛らしい貝殻の絵が描かれたカップに、紅茶が注がれる。爽やかな匂いが執務室に広がった。アミキティア侯爵はゆったりと紅茶に口を付けてから、こういった。

「レオーネ。お前に結婚の話が上がった」

 咄嗟に何かを返すことも出来ず、レオーネは父を見つめた。それは予想外の話だった。

 どんな理由であれ、過失がこちらにないとしても、レオーネはこの国の王子に婚約を破棄された。それは貴族の女性にとってはこれ以上ないというほど、良い結婚を手にすることへの痛手だ。勿論侯爵という高い地位を持っている以上、新たな結婚相手を見つけることは出来るだろう。しかし破棄から僅か三か月でその相手が見つかるとは思ってもみなかった。

 何より、結婚という言葉をアミキティア侯爵から突き付けられた時、レオーネの脳裏に浮かんだのは三日前に別れたばかりのトゥーレのことだった。待っていて。そう書いたメモを残して海の中に消えた彼。

「王子との婚約破棄からそう間もなく、お前も心の用意が出来ぬかもしれないが……相手は王族で、しかもお前を正妻として迎え入れたいとのことだ。マンゴルト王子との騒ぎなど、小さな話に思えるぐらいだ。陛下からも、お前とあちらの方の婚姻の許可は頂いた。……それでな、その方が明日、この屋敷に来ることになった」

「待って……ください、お父様」

「どうした。これ以上ないという良縁だぞ」

 酷く不思議そうにしているアミキティア侯爵は、少し前までこの屋敷に滞在していたトゥーレのことなど知らない。勿論報告はされているだろう。娘と親し気にしていたことも、聞いているかもしれない。けれどアミキティア侯爵にとっては、娘が慈悲の心で助けて世話をしていた見知らぬ人間よりも、大切な娘が行き遅れなどと後ろ指をさされないようにする事のほうが重要であった。

「急な話になってすまなかったな。明日は朝から準備をするよう頼むぞ、アニア」

「かしこまりました、旦那様」

 レオーネは立ち上がった。足元を見つめ、握りこぶしが見えぬようにドレスの裾で隠す。

「少し、時間をくださいませ」

 その一言をなんとか絞り出したレオーネは、足早に執務室を出た。アミキティア侯爵は声をかけてはこなかった。廊下を次第に早足にしながら歩く。途中、家庭教師のミカエラとすれ違い、もっと上品に歩いてくださいと小言を貰ったがそれにもおざなりに返事をしてレオーネは自室に飛び込んだ。

 着替えをしていた時は混沌としていた室内は、既に綺麗に片付けられていた。ドレスが粗雑に放置されていた机の上には、小さな小瓶が置かれていた。その小瓶の中には四つ折りに折られた一枚の紙。レオーネはそっと小瓶を手に取り、中の紙を取り出した。開けば、たった三日しか経っていないのに懐かしく感じるトゥーレの文字が書かれている。

【まっていて】

 その小さな紙を間違っても破いてしまわぬようにレオーネは再び小瓶に仕舞い、小瓶を両手で持った。

 あの夜、彼の手を取るべきだったのではないか、と心の中で誰かがささやいた。けれどその直後にいえ、いけませんと言う声がする。

 二つの未来を想像する。あの月夜、トゥーレを選んだ未来。彼を選ばず、こうして父のもって来た殿方と結婚する未来。

 トゥーレを選び、家と家族を捨てたならば、きっと後悔したとレオーネは確信する。男と消えた娘など、醜聞でしかない。年少の弟たちの人生にも黒い噂を生み、後ろ指を指されるような人生を与えてしまう。マンゴルトは己が間違っていなかった、男と逃げるような女なのだというかもしれない(レオーネの知っているマンゴルトならばそんなこと言わないだろうが、あのパーティの日に騒いでいた姿を思い出すとそう言う姿を想像できてしまった)。何より、十七年間育ててくれた恩を何一つ返すことなく男を選んだ、そんな己を嫌悪し、軽蔑し、自分に自信を持つことすらできず、心の底からの幸せなど掴むことは出来ない。

 今父からもたらされた未来を選んだならば、家と家族の尊厳を守り、マンゴルトの言葉など戯言に過ぎぬと人々に伝えることが出来るだろう。アミキティア侯爵は王子だと言っていた。どの国だろうか。ドレミーファ王妃の祖国には、確か結婚適齢期でまだ正妻も持たぬ王子などいなかった。第一王子エドワルドの婚約者である王女の国にも話の条件に合いそうな王子は居ない。となると、隣り合ってはいないもっと遠方の国ということになる。一度嫁いでしまえば、簡単にドレミーファ王国に帰ってくることは出来ないだろう。けれど何も知ったもののない場ならば――いつか忘れることが出来るかもしれない。思い出すと震えてしまう恐ろしいパーティのことも。今心に居る人物のことも。

 どちらにも選ぶ価値は合った。どちらにも後悔が着いてくる。そのどちらが良いのかを、自問自答する。

「私は……レオポルディーネ・アミキティア。アミキティア侯爵家の一人娘」

 自分を定義する。

 自分は何者であるのか。

 自分の行動によって誰が苦しみ、誰が喜ぶのか。

 自分はどうするべきなのか。

「私は……私は……」

 父。母。弟たち。…………トゥーレ。

 小瓶を胸元に抱き寄せて、レオーネは目を瞑る。


 月夜、手を取らなかったことを。唇を重ねなかった過去の自分を、彼女は力なく褒めた。

「ごめんなさい、トゥーレ。私は、待てないわ」

 どれだけ選択肢があろうとも、選ぶことの出来るものは最初から決まっていた。


(――嗚呼でもせめて、もう少し時間が欲しかったと思う事は、いけないことだろうか)

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