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第八話 意思の月

 二人の小さな外出は、全て屋敷の者に筒抜けだった。

 後になってみれば普段はしっかりと様子を伺っている使用人たちがあの日に限ってあっさりとレオーネとトゥーレを見失う筈はなかったのだ。大道芸人たちの見世物を見終わった後、二人はのんびりと町を歩いてから屋敷へと戻った。戻った二人は玄関ホールの所で待ち構えていたアニアとミカエラに捕まってお叱りを受けた。怒気を強めて怒るのではなく、淡々と自分たちの行動がどのような危険があったか、屋敷の者たちが本当にその外出を把握していなかった場合、それが発覚した時にどれほどの不安を使用人たちが感じるのか、等の内容を説教された。


 使用人たちの怒りはかなりのものだったのだろう。夕食の席以後、レオーネとトゥーレが会えないようにと手回しをされてしまい、おやすみの挨拶もないままレオーネは自室にこもった。しかしどうにも寝付けず、バルコニーの窓を開く。

 燈台の明かりが闇としか言い様のない海を照らしていた。暗い暗い海。空を見上げれば星空があるが、その星の輝きは海中へは届かない。果てのない黒色を見ていると、昼間に見ているあの明るい爽やかで優しい海は何なのだろうと思ってしまう。

 バルコニーの手すりに手をかけて、レオーネは暫し海を見つめていた。

 がしゃん。物音がしたのでレオーネは視線を下に向ける。夜の暗さに慣れてきていた目は、丁度レオーネの部屋の下で梯子を持っている男の姿を見た。

「誰?」

 声をかけてから、あまりに不用心であるとレオーネは思った。しかしもう出してしまった声を戻す術はない。口元を抑えて下を見つめていると、梯子をいじっている男が顔を上げ、レオーネを見るとニコリとほほ笑んだ。トゥーレだ。

「トゥーレ、こんな時間に何しているの」

 トゥーレはニコニコと笑って梯子をレオーネの部屋のバルコニーにかけた。どうやら登ってくる気らしいと気付き、眉をハの字に下げる。いくらなんでも、夜に男が女の部屋にやってくるなど、良い訳がないのだ。ただでさえ昼間にも怒られたのに、アニアやミカエラにばれてしまったら、どれほど怒られるだろうか。

「トゥーレ、ダメよ。止めて。お話ならこのまましましょう」

 そう声をかけてみるもトゥーレはもう登り始めていた。無理矢理梯子をどけるなんてことは危なくて出来ない。それに自分でこのまま話をと言ってみたものの、いくら闇に目が慣れたとはいえこの暗さでは彼が紙に書いた文字を読み取ることは出来ないだろうということは分かっていたので無理ではあったのだが。

 結局、止めることは出来ないままトゥーレはバルコニーの手すりに腰を下ろした。片手は言葉を書く手帳とペンを持って、もう片方の手は後ろに回している。

「今までこんなこと無かったのに……どうしたの?」

 レオーネの問いに、トゥーレはそっと背中に回していた片腕を前に出す。彼が手に持っていたのは掌サイズの海の泡(マリーン・バブルズ)だった。目を丸くしたレオーネに、トゥーレは用意していたのだろう文字の書かれたページを見せる。

【貰った】

「そうだったのね。気付かなかったわ……触っても?」

 トゥーレが頷いたので、レオーネはそっと泡を手に取る。

 皮製品を柔らかくしたような、弾力のある泡だった。割ろうという明確な意思さえなければ割れることはなさそうだ。その泡を両手で軽く潰してみたりしていじった後に、レオーネは目を細めながら呟いた。

「ねえトゥーレ」

【?】

「貴方の声を聞いてみたいわ」

 トゥーレはページを捲るのを止めた。少女は顔を上げることはせず、手の上に乗っている泡を見つめ続け、言葉を落とす。

「トゥーレが喋れないのは体が悪いとかではなくて、貴方が海人(うみびと)だから……そうでしょう?」

 トゥーレはゆっくりと、白紙のページを開いてペンを走らせた。最初のころに比べると随分と上手くなった字をレオーネに向ける。

【気付いていたんだね】

「最初は、本当に生まれつきだと思っていたわ。でもこの町は海人(うみびと)との玄関口の一つ。海人(うみびと)がいることは何も可笑しくはないもの。……貴方はいつも海に行きたがっていたし、何より……今日の海人(うみびと)たちと、貴方の肌も髪の色素の雰囲気も、良く似ているわ」

 波音だけが不規則に歌を奏でている。

【ごめん】と書かれたページをトゥーレは見せた。それからその下に小さく書きつける。【その泡は小さすぎて、喋ることは出来ないんだ】

「……そうなの?」

【小さくても口元と喉を覆えないと、喋ることは出来ないんだ】

「……残念だわ。貴方の声、聴いてみたかったのに」

 レオーネは目を伏せた。前髪で目元が影になった。雲一つない空から月がずっと二人を見ている。

「話は海の泡(マリーン・バブルズ)のことだけかしら。……見せに来てくれて、ありがとう。もう遅いわ。万が一にもミカエラたちが様子を見に来ないとも言えないもの。もう、帰った方が」

 トゥーレは手帳を横に置くと右手を伸ばしてレオーネの頬に指先を滑らせた。あっとレオーネが声を出した時には大きな手が頬から耳の裏、顎までを支え、上を向かされた。家族と元婚約者以外の男性とこれほどまで近く触れ合ったことは無い。トゥーレの手が触れている頬が灼けるようだった。

 たった数秒の事が永遠のように感じられた。トゥーレの凛々しい顔が静かに落ちて来る。トゥーレを見上げていたレオーネは、彼の頭上で何かの意思を示すかのように静かに光る月を見た。

 若い男女の唇がまさに触れ合おうとする直前、月が強く光り輝いた。月光を頭の輪郭から洩らすトゥーレの姿は少女にはまるで教会に飾られる壁画のような神秘さを持って見えた。

「だめ」

 レオーネの口から漏れ出た言葉に、トゥーレが動きを止める。だめ、だめよ。重ねるようにレオーネは声を上げる。

 トゥーレが下ろしていた頭を上げる。少し距離が出来た二人は互いの顔全体が見える距離を保ったまま見つめ合った。トゥーレの唇が小さく動く。その声帯から音が出ず、レオーネの鼓膜を震わせることは無くとも、何と言っているかは分かった。だめ? そんな問い返しにレオーネはだめ、と繰り返す。

 トゥーレの瞳は静かにレオーネを見ていた。けれどその中に軽蔑か、悲しみか、何か感情が浮かぶのを見ることは出来ず、レオーネは彼の手から逃れるように手が添えられていないほうに頭をずらした。

「私は貴族の娘なの」

 己一人の感情を優先することは、許されない。

「私は侯爵家の娘なの」

 会って数日の男の手を取ることなど、許されない。

「私は、」

 胸に灯った温かさに正しい名前を付けることは、許されない。

「ごめんなさい……」

 トゥーレの手が完全にレオーネから離れる。そして一度は横においていた手帳を手に取り、何かを書いた。

 文字がレオーネから見やすいようにと差し込まれたページには【ごめん】と書かれていた。

 貴方が謝ることではないのだと言いそうになって、けれどそれを告げることすら許されないような気がして、レオーネは口ごもる。

 トゥーレの身体が手すりの向こう側に行き、足をかけられた梯子が軋んだ。レオーネよりも低い位置にトゥーレの頭が来た。一段足を下ろしたところでトゥーレは動きを止めて、空を見上げた。彼の丸い海に月が浮かんだ。その海面は瞬きによって消えてしまった。

 トゥーレの目がまたレオーネに向いた。

 おやすみ。

 そう確かに彼の口が動いた。

「……おやすみなさい。良い夢を」

 トゥーレは最後に笑って、今度こそ止まることは無く梯子を下りていくと脇に梯子を抱えて去っていった。レオーネはその背中が見えなくなってから部屋の中に戻る。随分と長くバルコニーに居た気がするのに、指先などを除けば体は少しも冷えてはいなかった。


 朝になり、いつものように朝食を食べ終えた後、トゥーレは静かに手帳を捲ってみせた。

【今日の午後 帰ります】

「今日……!」

 レオーネは張り上げそうになる声をすんでのところで抑えた。

「どうして、そんな急に」

 レオーネの疑問への答えは既に書いていたらしく、トゥーレは一枚ページをめくる。

【大道芸人たちが、国に帰るのについて行くことにした】

「なるほど。それでは貴方が最初に着ていた服等を用意したほうが良いですね」

 アニアの言葉にトゥーレは頷く。メイドたちがそれぞれトゥーレが出て行く算段を付け始めるのを、レオーネは席に着いたまま呆然と見つめていた。


 太陽は空高くへと昇る。昼食の時間を目前にして、屋敷の人々が玄関ホールへと集まっていた。

 砂浜に打ち上げられていた時に着ていた服(メイドたちによって疾うに綺麗に洗われていた)を着たトゥーレは微笑んでいる。誰も止める気配はない。当然だ。元々屋敷の者たちは彼をここに滞在させることに反対していたし、彼をとどまらせていたのも怪我や体調の様子を見るためだけだった。それが治っても留まっていたのは、レオーネが拒んでいてトゥーレも出て行く意思を見せなかったから、それだけ。

(昨夜もし、彼を受け入れていたならば彼はこの場にもっといてくれたのだろうか)

 しかしもう一度同じような場面が訪れたとしても、レオーネは彼の手を取ることは出来ない。

 周囲に出来る限りばれないように深呼吸を一つしてから、レオーネはトゥーレを見た。

「……どうか気を付けて」

 トゥーレはその言葉を噛み締めるようにゆっくりと頷いた。それから四つ折りにした紙をレオーネの手に握らせた。

「……これは?」

 そう問うも、トゥーレは笑顔を浮かべるばかりだった。今ここで開こうとしたら慌てて止められたので、部屋に帰ってから開くことにした。

 真上からパーラガルを照らす太陽の光を浴びながら、トゥーレは浜に向かって歩き出した。本当なら、彼が海に入る所まで見送りたかったけれど、別れを近くで見ることが怖くて、レオーネは屋敷に留まった。自分の部屋に戻ってから手に握ったままの紙を思い出した。そっと開くと、そこにはトゥーレの字でこうつづられていた。

【まっていて】

 バルコニーに繋がるカーテンを開けた。窓の向こう側に、昨日海人(うみびと)たちが上って来た桟橋が見える。

 桟橋の付近には既に海人(うみびと)たちが道具を持ち集まっている。彼らはトゥーレの姿を認めると笑顔で受け入れた。桟橋の上を海人(うみびと)たちが歩いて行く。その中の一つの背中をレオーネは見つめ続けた。

 トゥーレが海中へと足を踏み入れた。膝ほどまで海水に浸かった所で彼は振り返った。それからまた前を向くと、今度こそ海の中へとその姿を消した。

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