第五話 海の唄
レオーネがパーラガルの屋敷に来てから自室として使っている部屋にはバルコニーがついている。そこからは美しい海を一望できる。
朝でも昼でも夜でも、バルコニーから景色を見るのはレオーネの好きなことの一つだった。それまでは意味もなくただ時間をつぶすために見ていたが、トゥーレが暮らすようになってからは素直に美しいと感じる空と海を眺めている。
トゥーレが来てから一週間と一日が経過した。もう怪我はすっかり治ったらしく、昨日の午後の診断ではもう大丈夫であるとフォージ医師からのお墨付きも貰った。
それは良いことであるが、同時に悲しいことでもある。怪我が治った以上、必要以上にこの屋敷に彼が居る事を、皆許さないだろうと思ったからだ。
最初に海に出た日から、何度か海へと出かけた。トゥーレはよほど海が好きなのか、六日目の昼など、目を離した隙に消えてしまった。数秒前まで膝程度の深さまで海に入っていたから、まさか波に浚われたかとレオーネは年甲斐もなく焦った。実際は軽く海に飛び込んで泳いでいただけらしい。淑女のマナーもかなぐり捨ててスカートの裾が濡れるほど海へ入ったレオーネの目の前に、トゥーレはひょっこり顔を出した。全身びしょぬれのトゥーレは、海へ入ってきたレオーネに酷く驚いたようだった。驚いたのはこちらよ、とレオーネはトゥーレの胸を叩いた。
「突然消えないで頂戴、心配するわ」
トゥーレは深く何度も頷いた。
なお濡れた服で帰った後はミカエラからのお叱りが飛んだ。二度とするなというお達しと共に。外出禁止を言い渡されなかっただけマシだろう。
ネグリジェから覗く自分の肌を見る。以前より白さが無くなり焼けた。貴族の子女としてはあまりよろしくないことだが、構うものか。王子に婚約破棄をされた自分など、よくてどこかの後妻だろう。勿論、父や母の願いであるならば素直にその結婚を受け入れるつもりではある。長年育ててもらった恩がある。けれども、許されるならば侯爵家に残り、十三年という時間、次期王妃として受けた教育の成果を実家のために使うのも良いだろう。レオーネは弟たちと仲も良い。あくまで彼らを支えるだけであるのなら、きっとそこまで悪い顔はされまい。
そう思えるほど、レオーネの心は落ち着いていた。パーラガルの屋敷に来た頃など、マンゴルトとの出来事を思い出しては落ち込み。自分の未来を想像しては落ち込み。ということの繰り返しだった。心配している周囲の言葉なぞ耳には入らずそればかり考えていた。それが今は未来の事をあれこれと考えることが出来るようになっている。これはきっと、良い変化であるとレオーネは思っている。
バルコニーに置かれた椅子に座り、明るさを増していく空を眺める。夕焼けも嫌いではないが、レオーネは朝焼けが一等好きだ。……気温は少し、少し寒いけれど。
海を見た。明るい、陽の色を纏った海を。その色はトゥーレの色とはまるで違う。トゥーレの色は、深く―――。
「お嬢様」
ハッと振り返ると家庭教師のミカエラが立っていた。ミカエラはおはようございます、と礼をしたあと左手に持っていた毛布をそっとレオーネの肩にかける。
「この季節でも、朝は寒うございます。お体を冷やされてはいけません。景色を眺めるのは結構でございますが、しっかりと御自分の体調のこともお考えください」
「ごめんなさい、ミカエラ先生」
そういってから視線を移し、レオーネは「あら」と首をかしげた。レオーネとトゥーレがよく訪れる浜はアミキティア侯爵家の持ち物なのだが、その範囲は大きな岩がある場所で仕切られている。その岩の向こう側は一般人もよくやってくる浜で、個人漁を営んでいる人間たちの船なども置かれている。小さな小さな港のようなものだ。そこに人が集まっている。
長く掛けられた桟橋は不思議な形をしていた。桟橋は海の沖のほうまで伸びていて、しかし途中でまるで階段のような形を取り、先は海の中へと消えている。その桟橋の土台がまだ陸地の部分に人が集まっているのだ。
「あれは?」
「海人ですね」
パチリ、とレオーネは瞬いた。視線をミカエラから桟橋へと移す。桟橋の先には先ほどまで何もいなかったが、レオーネが視線を移したのとほぼ同時に海の中から何かが浮き上がってきた。
遠いから音は聞こえない。海の中から現れたのは大きな泡だ。その泡は地上の空気に触れても離散せず、わずかにふよんと揺れている。どうやら泡はその中にいる人物の動きに合わせて動いているようだった。
人物の全身が見えた。男だ。極普通の人間と同じ形をしている。男が完全に桟橋に上がると、泡がはじけて消えた。桟橋を歩き出した男に引き続き、次々に人が海の中から現れる。レオーナは感嘆の声を上げてから、海人だわ、と繰り返した。
全部で二十人ほどの海人が海の波間から姿を現した。その容姿は色々だ。肌の色は一貫して焼けたような褐色に近い色をしているが、髪の毛の色は茶色の者、金の者などがいる。全体的に色素は薄めのようだ。
「あれは海人の商人と大道芸人でしょう。パーラガルには一定期間ごとに現れるそうですから」
「大道芸人? どんなことをするのかしら」
「私も見たことはございませんが……水を使ったイリュージョンと銘打ち、一般的な見世物では見られないようなものを見せるそうです」
「まぁ」
レオーネの視線は海の中からやってきた隣人たちに注がれている。
「……お気になるのでしたら、この屋敷にお呼びしますが」
「……いえ。大丈夫よ」
レオーネは首を横に振った。しかしその瞳はキランと光っていた。
朝食を食べた後、レオーネは家庭教師ミカエラの目を盗み、パーラガル生まれのメイドに話を聞いた。商人たちは各々の事情でやってくるが、大道芸人たちはひと月に一回やってきて、三日程度公演をして帰っていくのだという。海から上がってきたのなら、今日の昼には確実に公演するだろう、と。
いつものようにトゥーレに会ったレオーネは普段よりもやや顔を彼に近づけてニコリと微笑んだ。
「ねえトゥーレ、今日は浜ではなく、街へ行きませんか?」
【?】
よく使う単語は使いまわすため、トゥーレが差し出したクエスチョンマークのページは少し擦れている。
「今、海人が来ているのよ」
【!】
「彼らは見世物をするらしいわ。見に行きません?」
トゥーレが笑って何度も頷いた。決まりねっ、とレオーネは笑みを浮かべた。
当然のことではあるが、トゥーレと二人きりで見世物を見に行くなどばれたら説教だ。二人で行動が許されていたのはあくまでも行き先が浜で、そこはアミキティア家の持ち物である場所であったからに過ぎない。一方街中になってしまえば、どこに誰がいるかも分からない。自分に身に覚えがなくとも命を狙われることがある。それが貴族というものである。
レオーネは自分が持っている中で一番安そうな見た目のワンピースを着、一番質素な傘を持った。靴も一番使われて草臥れている物を履く。勿論アクセサリーなどは付けない。髪の毛はメイドに三つ編みにしてもらって肩から前に垂れ提げた。
トゥーレはいつもとさほど変わらない格好で現れた。元々トゥーレに与えられていた服はこの屋敷の使用人たちが着る服だったから、その恰好のまま出たところで見つかりはしない
いつもの如く屋敷を出た二人は、屋敷が見えなくなったところで方向を変えた。向かう先はパーラガルの街中だ。背後からはお付きの者の気配はしなかった。
パーラガルの地形は平野だ。そこに一階建て、高くて三階建て程度の家々が立ち並んでいる。建物の屋根は黄色で塗られている所が多く、遠目から見ると黄色い花畑のようだと昔の画家は言った。
その町中をレオーネとトゥーレは手をつないで歩いていた。当初はいつもの様に横に並んでいたのだが、海人が来ているためか、人通りは多く道は混んでいて街について早々に二人は逸れかけた。なんとか合流は出来たがもし逸れてしまってはトゥーレはもちろんレオーネとて土地勘がある訳ではないので危険だ。よって離れ離れにならないように手をつなぐことを提案したのはトゥーレの方だった。
周囲の平民たちと比べればまだ白い肌を、褐色の肌が覆っている。掴まれていた手は筋肉のしっかりとついた、まさしく男らしい手だった。繋いだ手がまるでロウソクの先を握ったように、熱い。
カンカンカン。
金属を打ったかのような音が響く。人々の視線が、音の発生源へと集中し、皆体をそちらへと動かしていく。隣の人間との距離がより近くなり、邪魔になりそうだと思ったレオーネは日傘を閉じた。左手で日傘を落とさぬようにしっかりと持ち、右手は逸れないようにトゥーレの手を握る。
トゥーレは器用に、人の間を縫って音の発生源が見える位置までレオーネを連れてきた。
街の広場の中央にある噴水を囲うように海人たちが立っていた。広場から見て海が見える方角に向いて立っている若い海人が、手に持った鐘を小さなハンマーでたたいている。
人が広場一杯に集まった所で、鐘を打っていた海人が、笑顔を浮かべて一礼した。その笑顔はなんの邪気もない明るさがあった。海人が右手を大きくふって、一人の長く伸びた髪の毛を女のように結っている男の海人を指す。長髪の海人は貝殻のような色を放つラッパの先を噴水の水の中に何度も付けていた。そして準備が整ったのか、水が中に入り込んでいるだろうラッパを上に向けて空気を注ぎ込む。普通のラッパであれば音が鳴るはずだが、海人の持つラッパは音を奏でることは無かった。その代わりシャボン玉のように大きな泡が噴き出してくる。泡はどんどんと大きくなり大人が入ることが出来るほどの大きさになった。そこで長髪の海人がラッパに空気を吹き込むのを止めると、泡はラッパの先から零れ落ちた。地面に落ちて割れるかと思われた泡はボールのように柔らかく石畳の上を跳ねた。
そこへ白い歯が印象的な若い女の海人が飛び出てくる。仲間たちが二人がかりで泡を頭上に持ち上げると、女の海人は掌を合わせ、腕を真っ直ぐ頭の上に伸ばした。足もしっかりと合わせてまるで一本の棒のようだ。その女の手に向かってゆっくりと泡が下ろされる。今度こそ割れると思ったのにやはり泡は割れない。随分と丈夫な泡のようだ。女は全身がすっかりと泡の中に入ってしまった。その後ろでラッパ奏者の海人は、次々に泡を生みだしている。大きい泡、小さい泡、中くらいの泡。それらがいくつも噴水の周りに現れて、気付けば噴水は泡まみれになっていた。
体格の良い海人が、抱えてきた箱の中身を泡に向かってぶちまけた。中から大量の水が泡に落ちていく。空気だけが入っていただろう泡の中は海水と、共に運ばれてきたのだろう魚でいっぱいになっていた。
丸い小さな海が次々と作られていく。それをかき分けて、泡に入ったあの女の海人が噴水の縁に上った。
「ええ、本日はわたくし共の芸をご覧に来て下さり、誠にありがとうございます!」
レオーネは驚いて、目を丸くしてしまった。陸では喋ることの出来ないはずの海人が、ハッキリと喋っていたのだ。レオーネの様子に気が付いたふくよかな女性が声をかけて来る。
「おやお嬢さん、海人の芸を見たことがないのかい?」
「ええ。……もしかして、あの泡は、海の泡なの?」
「あらよく知ってるじゃない!」
「本物は初めて見ましたわ……」
「そりゃ、海人がいなけりゃ誰も使ったりしないからねえ」
女性の声を聞きながら、レオーネは観客に向かって喋っている海人へと視線を戻した。
海の泡とは、陸上では言葉を喋ることの出来ない海人たちが生み出した発明品だ。例え地上に居るとしても、その泡の中に居る間、海人はその声帯を震わせて、地上の人に言葉を伝えることが出来るようになるのだ。知識としてはレオーネも当然知っていたが、本物を見るのは初めてだった。ふくよかな女性の言う通り、ドレミーファ王国の人間でも内地で育ったものは見たことも、場合によってはその存在を知らぬことも多いだろう。レオーネが知っていたのはひとえに、王妃教育の一環で海人についても多く勉強していたからに過ぎない。
パーラガルの人々にとってはどうやら海人も、海の泡も、慣れ親しんだものらしい。
大道芸人たちが泡を駆使して様々なことを行う。泡から泡へと色鮮やかな魚たちが飛び移ったり、泡の中で魚たちが躍ってみたり。
初めて見るものにレオーネは瞳を輝かせ、芸に見入った。
盛り上がりを見せる最中、泡の中に入っていた女の海人が歌いだした。空の果てまで届くような美しい調べに集まった人々もうっとりと耳を傾ける。
「さかな こざかな おおざかな
なみの うたが きこえるかい
みずくさ さんご いわのあな
みみを すまして きいてるの
さあさ りょうびれ じゅんびして
はらの たいこを ひびかせば
きょうの うたげの はじまりだ
きょうの うたげの はじまりだ
ここには ひるも よるもない
さあさ そろえて うたいましょう」
歌詞の意味はレオーネには良く分からなかった。きっと海の下での出来事を語っているのだろう。
最後に高い音でメロディーを響かせてから歌が終わった。観客たちは一斉に手を叩き、口笛を吹いて歌姫に賛美を送った。
「凄い、凄いわ。ねえトゥーレ」
頬を赤く染めながら傍らの男を見上げると、深い青と目が合った。見に行ったこともない、暗い果てのない海の底が、太陽の光に照らされて僅かに明るさを手に入れていた。その下にある口元は穏やかに丸まっている。
レオーネは視線を下に落とす。自分の頬が赤らんでいる理由が数秒前までと違うことを少女は理解していた。
見世物は先ほどの歌で一区切りがついたようで、観客たちは用意されたバケツの中にコインを落としてから思い思いに町へと散っていく。
小さな子供が、道具の片づけをしている海人の元へと駆け寄った。子供たちがいくつか言葉を重ねると、海人は笑顔で頷く。子供たちは広場に散らばっている海の泡を拾い上げた。
人の数が少なくなった所でレオーネは人々がお金を入れているバケツに近づいた。
「とても面白かったわ」
【良かった】
海人たちはレオーネの声に笑顔を浮かべた。それから横のトゥーレを見てある者は不思議そうに、ある者は驚いたような顔をする。しかしレオーネはバケツにコインを入れており、それに気付かなかった。
レオーネが顔を上げると海人たちが一様にレオーネとトゥーレを見ているので、首を傾げる。軽く結われた髪の毛が風に吹かれて小さく揺れた。
「どうかなさいましたか?」
海人たちは首を横に振った。それから歌を歌っていた女が口を開く。既に泡の外にいる彼女の声はレオーネの鼓膜を震わせることは無かったが、それでも口の動きで伝えたい言葉が何かは伝わった。
ありがとう。
その五文字の言葉にレオーネは再び微笑んだ。