第四話 悪夢のような
――耳鳴りがする。耳の奥で、あの日の声が響いている。
学院で定期的に開催されている社交パーティ。当然参加するのは貴族子弟だけ。
貴族たちの要と言っていい王子たちはいつも注目の的だ。当然、その婚約者も。
エドワルドの婚約者は流石に居ない。まだ隣国から嫁いで来ていないからだ。となれば自然注目はレオーネへと向く。なのでレオーネは、パーティがあまり好きではなかった。良い視線も悪い視線も一身に受けねばならないのは彼女には重荷だった。王妃になれば、そうならざるを得ないというのはレオーネにとっていくつかあった不安の一つだった。
社交パーティでは女性は男性に付き添われて入るのが一般的だ。レオーネにとっては婚約者であるマンゴルトがその相手であるのだが、可笑しなことにその日はいつまでたってもレオーネの元にマンゴルトは現れなかった。侯爵家の娘ともあろうものが、誰にもエスコートされずにパーティへ入る訳には行かない。マンゴルトに何かあったのだろうかという不安を抱えながら、結局レオーネは下の弟ティベリオにエスコートされることになった。上の弟であるクレメンテは既に婚約者の令嬢がいるので、彼女をエスコートしなければならなかった。付き添いを頼むと今年学院に入ったばかりのティベリオは胸を張った。
「お任せください、お姉様!」
その様子の可愛らしさに微笑んで、レオーネはパーティ会場へと赴いた。
「あら、レオーネ様、今日は可愛らしい紳士とご一緒ですのね」
などと数少なくなった同級生の令嬢や家の付き合いで顔見知りの殿方らに声を掛けられながらパーティ会場へとついたレオーネは、マンゴルトを探した。
マンゴルトはあっさり見つかった。
レオーネはマンゴルトに駆け寄っていった。マンゴルトも、婚約者の姿に気づいたようだった。その視線の冷たさに、レオーネは立ち止まった。
「お姉様?」
淑女を放置するとは、文句の一つでも言ってやります! と意気込んでいた弟は姉の様子が変わったことに目ざとく気づいた。
マンゴルトの目は、冷め切っていた。冷たい、敵意のある目だ。なぜそのような視線にさらされるのか理由も分からず、どうしたら良いかも分からず、まるで目に見えない重りを付けられたかのようにレオーネはその場に立ち尽くした。ティベリオも将来の義兄から姉に注がれている視線に気づき、訝しげな顔をして、それから勇敢にも姉の前に立った。そんな弟の姿は、マンゴルトの視界には入っていないようだったが。
マンゴルトは周囲の取り巻きから離れると、息を吸った。それから腹に力を入れた声を上げた。
「レオポルディーネ・アミキティア! 貴様との婚約は、今ここで白紙とする!」
パーティ会場が凍りついた。すぐ近くにいた人々は爆弾を目の前で爆発させられたような顔をして固まり、離れた場所にいた人々は状況を把握しようとこちらへと視線を寄こす。
「マン、ゴルト様?」
レオーネが口に出せたのは、その一言だけだった。その後、記憶にある限り、ちゃんとした言葉を言えた覚えはない。
「貴様は我が后には相応しくない!」
マンゴルトの言葉がレオーネの耳に入る。元々声の通る男だったから、彼の声を近距離で大音量で聞くと耳が痛い。頭をつかまれて揺らされているようだ。レオーネは震える手で目の前にいるティベリオの肩を掴んだ。そうしなければ、今すぐに倒れていただろう。
「どういう意味ですか!」
二の句も告げないレオーネを支えながら、ティベリオが声を張り上げた。視界の端で、上の弟であるクレメンテが駆け寄ってこようとしている姿が見える。
相手が王子であるにも関わらず、ティベリオは果敢にも声を上げた。一歩間違えれば怒りを買いかねない状況であるにも関わらず、だ。
「お姉様とマンゴルト様の婚約は、陛下とお父様との間で交わされた婚約のはずだ! それがこんな簡単に覆るはずがない! 何かの間違いです!」
「父上は関係ない。これは俺の判断だ」
「は?」
「その女は、将来国王となる俺の后としてふさわしくない! よって、婚約は破棄する。以上だ」
「お姉様のどこが、ふさわしくないというんだ!」
マンゴルトからすれば、ティベリオなど子犬程度のものだ。はん、と鼻を鳴らして視線はレオーネへと戻される。侮蔑。失望。怒り。
「その女はマリアに執拗に嫌がらせをし続けた!」
静まり返っていたパーティ会場に、点火されたように囁き声が広まった。
マリアって誰? 嫌がらせ? アミキティア嬢はそんなことしたのか? いやそもそもマリアって誰だよ。そんな女性いたか?
周囲のざわめきをものともせず、マンゴルトは高らかに声を上げた。
「貴様のような、卑しい心を持った女が将来国母になるなんて、寒気がする。人の心を踏みにじるようなものなど、願い下げだ!」
膝から力が抜けた。倒れる身体を支えたのは、人混みをかき分けてきたクレメンテだった。
クレメンテは冷ややかな目でマンゴルトを見返した。
「恐れ多くも殿下、そのマリアという娘は、殿下が親しくなされている平民の娘のことでしょうか」
「――――そうだが?」
レオーネはぼんやりと床を見ていた。ティベリオとクレメンテの二人に支えられているから座り込んではいないけれど、そうでなければ侯爵家の令嬢としてあるまじき醜態を晒していただろう。
平民? え、平民!? 王子は平民とそういう仲なのか?
会場の人間の困惑は頂点に登る。つられるように、マンゴルトの口調はどんどん厳しくなり、それに反論する弟たちの語気も強まっていく。
レオーネはマンゴルトと弟たちの言い合いを、そしてエドワルドが騒ぎを治めようとしている声を聞いて―――気がつけば、ベッドの上だった。
「お姉様! 良かったあああ」
「良かったですわ……」
目が覚めたレオーネの手を握って、ティベリオがおうおう泣く。握られた右手が痛い。ああ、この子も随分大きくなったのだと、ずれたことを思った。ティベリオの横には、クレメンテの婚約者である令嬢もいた。将来の義姉であるレオーネのことをとても慕ってくれている、可愛い娘だ。クレメンテの姿は見えない。
白い天井を眺め、此処はどこだろうと動かない頭で考える。
「私……どうして」
「我が弟の奇行のせいで、倒れられたのだ」
声に釣られてゆっくりと視線をずらすと、開かれたままになっているドアのところにエドワルドが居た。ティベリオは涙でぐちゃぐちゃの顔で、現れたエドワルドに挨拶をする。エドワルドは苦笑気味に右手で制した。ぐすぐすと義姉の手を握って泣く義弟の頭を、クレメンテの婚約者が撫でている。
失礼、と声をかけてからエドワルドがレオーネのベッド脇へとやってきた。
「レオポルディーネ・アミキティア殿。どこまで覚えている?」
エドワルドの問いに、僅かに瞬く。どこ、まで。どこまで。
マンゴルトの射抜くような視線が脳裏に浮かび上がった。こわばった身体は、自然ティベリオの手を強く握った。ティベリオは何も言わず、レオーネの右手を握り締めたままだ。
「マンゴルト様が……。婚約を、破棄、すると…………それ、から。クレメンテが来て…………ティベリオ、クレメンテは何処?」
「お兄様はお父様のところです」
そうか、お父様の―――。
嗚呼、本気なのか。と、レオーネは身体を横にしたまま思った。
本気、だったのか。あれは。
「貴女には知る権利があるでしょう。僭越ながら、私が説明を」エドワルドの言葉に、ぱちりとレオーネはまあるい目を瞬いた。「――貴女が倒れられて、まだ三時間ほどしか経っていない。パーティは急だが終わらせた。覚えておられないのならば、そのままの方が良いとは思うが。我が弟はあの後、貴女の罪とやらをいくつも声高々に上げていったのだ。嗚呼、罪は全て貴女の弟君たちが否定していった。作り話ばかりだったからな……そうだとしても、暫くは話題となるかも知れぬが……。全て論理的に弟君たちに否定され、マンゴルトは見苦しく聞き苦しくも破棄だ破棄だと喚くので、王宮付きの騎士に捕まえさせねばならなくなった」
エドワルドはこんなによどみなく喋る人だったのか。
レオーネの知るエドワルドは、いつも静かに、大人しく、その場に立っているような人物だ。
「マリア、というのは平民の女生徒だ。マンゴルトと、親しくしていたらしい。…………はぁ、彼女を妻にする、とマンゴルトは騒いでいる」
「妻、に」
「嗚呼。…………貴女に言うのも失礼だが。我が父の例も見るとおり、王妃である人物のほかに妻を娶ることはありえることだ。が、ただの平民でしかない女を側妃にするのでさえかなり難しい、あまつさえ王妃になど出来はしない。出来て正式な立場も守りもない情人だろう。……いくら父上といえどかの娘を王妃など、許すとは思えない」
レオーネは何も考えたくなくて、静かに目を閉じた。
外からエドワルドを呼ぶ付き人の声がして、エドワルドが退出した。最後に何かを言っていたが、レオーネの記憶にはない。王子に対してあるまじき対応だったはずだが、エドワルドからお咎めの言葉がくることはなかった。
エドワルドの居なくなった部屋には、ティベリオがスンスンと鼻を鳴らす音だけが響いていた。