第二話 砂浜とレオーネ
目が覚めてから三日後にはトゥーレは動き回れるようになっていた。
四日目には屋敷の中を自由に動くようになった。大体もう大丈夫だろう、とは言われたが、あと数日はあまり激しく動かないようにとフォージ医師に告げられる。
どこの者とも知れぬ相手だが、レオーネが連れて来た客人だ。トゥーレは丁寧に扱われた。
言葉が喋れないトゥーレは、メイド長アニアの命によって準備された紙束に慣れぬ様子で文字を書きコミュニケーションを取っている。歩くのも苦手なのか、よく何も無いところで転びかけるトゥーレをまるで大きな弟のような気持ちでレオーネは見てまわった。
レオーネには実弟が二人いる。クレメンテとティベリオという名前の弟たちは、姉の贔屓目を抜いても優秀だ。二人とも、学院でとても優秀で……。
ピタリとレオーネは足を止めた。一歩前を歩いていたトゥーレが振り返る。男の人にしてはトゥーレの髪の毛は長い。男性の髪の毛は短く切りそろえられるのが基本だ。長くても襟にかかる程度の長さだ。貴族も、平民も関係ない。しかしトゥーレの髪の毛は普通に肩にまで掛かっている。男性としては長すぎる長さだが気にした様子はないし、似合っていると思うのでレオーネも気にしないことにした。
風に揺れる髪の毛を耳にかけたトゥーレが首をかしげる。レオーネは微笑んだ。
「なんでもないですわ、トゥーレ」
トゥーレのことを当初レオーネは「トゥーレ様」と敬称を付けていたが、すぐさまトゥーレに否定された。【トゥーレとよんでください】と拙い字で請われ、レオーネはあっさり頷いた。それ以降、レオーネはトゥーレのことをただトゥーレ、と呼んでいる。
一方で、トゥーレのほうは声が出ないので分かりにくい。基本文字でしか呼びかけられないのだが、レオ、と呼ばれていることに気がついた。唇の動きが、どうみてもそう呼んでいるとしか思えない動きなのだ。
レオーネの本名はレオポルディーネという。普段親しい人からはレオーネと呼ばれているが、ごく一部、家族などからはレオと呼ばれることもある。だがレオーネはこの愛称をあまり好きではなかった。
(レオ、なんて、男の子みたいだわ)
理由といえばそれだけだが、やはり淑女として育てられたレオーネは男の子のような名前で呼ばれることを嫌がり、友人たちにもレオーネと呼んでもらっている。
だからこそ、言葉としては出てこなくてもトゥーレに「レオ」と呼ばれた時驚いた。しかしそれを咎めることはしなかった。普段ならば絶対に怒る呼び名を咎めもせず、レオーネはトゥーレと一緒にいた。
冷静に考えれば、そもそもレオーネのことを呼び捨てにしていることを咎めるべきかもしれないが、レオーネはそのことは気にしていなかった。そもそも立場とかそんなことを気にしないで助けた相手であったし、呼び捨てにされたからといって見下したりされている訳ではなかったので気にも留めなかった。
再び歩き出すとトゥーレも一緒に進む。
今二人がいるのは砂浜だ。一番最初にトゥーレを助けた所でもある。どこかに行きたい? そう問いかけたレオーネに、トゥーレは【海】と返事をした。
少し前までは持つことも忘れていた日傘で肌を守りながらレオーネは歩いていく。トゥーレは屋敷で転びかけていたことを忘れるほど軽快に、砂浜の上をタッタッタと歩いていく。それを慌てて追うも、砂浜というのはとても歩きにくいのだ。根からの箱入り娘であるレオーネは、今まで海を眺めることはあっても、その時は浜に石で作られた高台のようなところから見ていた。降りたとしても、数歩程度の範囲だけだ。波打ち際まで降りたのは、トゥーレを見つけた時が初なのだ。
片手で持っていた日傘が重さで右へ左へ前へ後ろへと揺れる。慌てて両手で日傘を持って安定させる。上手く歩けずその場で足踏みをするレオーネに気がついたトゥーレが戻ってきた。
トゥーレの大きく骨ばった手が日傘の柄をレオーネの手ごと掴む。ひんやりと冷たい手に驚いた。トゥーレはそのままレオーネの手から日傘を取り上げるとそっともう片方の手をレオーネの肩へと回した。
なんと言っているのかは分からない。レオーネは読唇術など学んでいない。けれど、その口の動きが【大丈夫?】と言っている気がした。
体に触れられるなど本来ならば怒るべきだろうが、その手つきにはなにも嫌な気がしなかった。困っている女性に手を差し伸べる紳士。そんな感じだ。だからか、レオーネも拒否できなかった。頷くとトゥーレは優しく微笑み、海へと近づいていく。
波際まで歩いてきて、さざめきがとてもよく聞こえてくる。これまで、海の近くにいることはあっても触れたこともなかったレオーネは不思議な気持ちで波を見た。近づいてきては去って行く。触れた砂が重く色づいたかと思えば、瞬時に軽くなる。
あと少しで波が打ち寄せる場所、というところでレオーネは立ち止まった。トゥーレはそんなレオーネに不思議そうな顔をした。
波にどこからか浚われてきた貝殻が打ち上げられる。ヒビの入ったそれは、二枚貝の貝殻だけれど、片側だけだった。もう一枚、ともにいるはずの存在はない。貝殻のほうへと波が打ち寄せるが、浚うには至らない。
視界に手のひらが現れた。レオーネよりもずっと、よく日に焼けた手のひら。骨ばって、大きな手のひら。その指の隙間から、波に浚われて貝が海の水の中へと消えていった。
顔を上げると、トゥーレが心配そうに眉をひそめていた。レオーネはそっと顔をそらし、手で口元を覆った。数秒そうしてから手を胸元まで下ろす。
「……なんでもないわ。トゥーレ、今日はもう、帰らない?」
まだ来たばかりだ。それでもなんとなく、これ以上海を見ていたくないように感じた。
レオーネのために来たのではなく、トゥーレのために来たのだ。けれど。
トン、トン。とトゥーレの手が肩に触れる。うつむいた視界に人差し指を立てたトゥーレの手が入った。そのまま、手がゆっくりと移動する。釣られるようにしてレオーネは顔を上げた。
真っ直ぐとトゥーレが指差したのは、沖の方だった。一瞬、何もないように見えたそこに黒い何かが姿を見せる。それから、何かが噴出した。
「えっ」
目を凝らすと、再び何かが現れて、ハッキリとは視認できないものを噴出している。
日傘を一瞬はずしてトゥーレがしゃがみこんだ。波で濡れた浜に指で文字を描く。
WHALe
少しつづりが可笑しい字を見て、もう一度レオーネは顔を上げた。じっと見つめていると、黒いものが海面に顔を出している。
くじら、とレオーネは口の中で言葉を転がした。初めて見た。はじめて、はじめて!
日傘を拾ったトゥーレはくじらとは別方向を見て手を動かしている。くじらが見えなくなった所でそれに気がついたレオーネが視線をそちらにやる。そちら側にも何かいるのか、と思ったが、ちゃぷんと海が揺れているだけだった。魚でも跳ねたのだろうか。
【かえろう】
とトゥーレがまた字を書いた。それにレオーネは頷く。
トゥーレの手を取り砂浜から出ると、その後は真っ直ぐに屋敷へと帰った。
屋敷に着くとすでにレオーネとトゥーレの行動は家庭教師たちまで筒抜けだった。いくらお屋敷から近い海とは言え、嫁入り前の侯爵令嬢を男と二人で放置する訳もない。二人の様子が見える範囲でずっと見守っている護衛役が、家庭教師に報告した結果だった。
レオーネは家庭教師にこんこんと説教をされた。
嫁入り前の女性が男性と二人きり。しかも一つの傘のしたに入るだなんて。肩を抱き寄せられるだなんて……。おそらくトゥーレにもそういったお叱りが来たはずだが、トゥーレのほうはあっさりしていた。それだけレオーネに下心が無いのかもしれない。そう思うと、なんだか胸がツンとした。
食事時になると、以前よりも多い量が並ぶ。これはレオーネだけでなくトゥーレも食べるようになったということも勿論あるが、レオーネが以前よりも食欲を取り戻しているということもあった。といっても量はそこまで多くない。淑女たる者、欲に浮かれてお腹一杯食べるのはいけないことだという躾の成果だ。レオーネが食べるのは、普段から多くても腹六分目程度。
一方でトゥーレはよく食べる。食べるときの行儀は良いのだが、量が多い。異性の差を加味しても、レオーネの二倍程度食べているだろう。レオーネが食べられない分を食べてくれるので有難いけれど。
王都の屋敷に勤めているコックの腕は一流で、とても美味しいが、ここパーラガルの屋敷に勤めているコックの腕も良い。王都はやはり肉を中心とした食文化なので、パーラガルとは味付けも違う。パーラガルの味のほうが薄味だ。けれど別に味が無いわけではないし、なにより魚が美味い。毎度取れたての魚を漁師から買い、食事をする少し前に捌く。だから味のレベルもとても高い。屋敷に人がいない間はパーラガルにある店で働いているというコックの腕は折り紙付きだ。魚がこれほどに美味しいものだとは思わなかった。
レオーネの食欲が戻ったことにより、食卓には肉も並ぶようになった。肉や魚、それからパンにフルーツ。昼食と夕食には野菜も出る。生の野菜はどうにも苦手だが、茹でたり炒めたりしたものならば普通に食べられるので、大抵はスープにしたり炒めものになって出てくる。
今日は鶏肉のソテーと、魚の煮付け。それから一センチ幅にスライスされた白パンに、色とりどりの豆のスープ。それからびわの入ったゼリーだ。
トゥーレは肉は一切食べない。そのため、鶏肉のソテーはレオーネの分しか用意されない。
王都であれば一人分として出されるだろうソテーの四分の一ほどの小さいサイズなのは、本命が煮付けの方だからだろう。パーラガルの人々は魚に愛着を持ち、同時に誇りも持っている。鶏肉のソテーを一口大に切り口に含む。やはりなれた肉の味は美味しく感じられるものだ。
パンを小さく千切り、それから魚を頂く。煮付けは柔らかいので肉に比べて簡単に身が崩れてしまう。口に入れるととろけるその食感は魚に慣れていないレオーネを虜にした。王都に帰ることになったら、逆に魚が恋しくなってしまうだろう。
豆のスープも美味しい。喉を通る時のぬるいぐらいの温度が心地が良い。豆も煮られているので柔らかく、食べるのも苦にはならない。
食後のデザートとして出てくるゼリーは、ギリギリまで冷やされて出てくる。これが本当に美味しいのだ。
デザートはメインのコックとは別のコックが作っているらしく、毎回レオーネを意識してか、女性向けに可愛らしくアレンジされている。王都といえど、こうしたデザートはパーティの時ぐらいにしか出てこない。特に王都ではケーキなど生クリームを使うタイプのデザートが一般的で、びわのゼリーのようなサッパリしたものはあまり無いのだ。
同じ国だけれど、やはり食文化というのは地域で違う。
「今日も美味しかったわ、アニア」
【ごちそうさまです とてもおいしかったです】
レオーネの言葉と、トゥーレが出した紙にアニアは微笑んだ。
お八つの時間頃、トゥーレは【きょうはすこしはやくにねます】【ディナーはいりません】【SweetdReams】と紙を出し、レオーネの手にキスをして部屋へと引っ込んでいった。トゥーレはおやすみの挨拶を毎度そうしていた。
通常、お休みの挨拶は家族や親しい間柄の同性だと頬へのキスが多い。親しくとも異性であれば、手のひらへキスを落とす。そこまで親しくないのなら、キスはなしで言葉だけのことが大半だ。トゥーレと出会ったのは数日前であるため、彼の行為は少々激しいスキンシップだが、レオーネは特に何も言わなかった。これもやはり、彼の行為からは幾分も嫌な気がしなかったからだ。
トゥーレと別れ、自分の部屋に戻るとメイドたちが部屋の掃除を終える所だった。礼をして退出するメイドを目で見送った所でテーブルの上に手紙があることに気がつく。手に取ると、そこには懐かしい友の名前が書かれていた。
マリー・ボニファシオ
その名前を見たレオーネはすぐさま手紙を開いた。手紙は一番最初から、開けやすいように一部切り込みが入れられている。メイドたちがしたものだろう。
マリー・ボニファシオ、旧姓マリー・リガー。
アミキティア侯爵家とも縁のある、リガー子爵の娘だ。
貴族の爵位には公侯伯子男という序列がある。その序列で考えれば、マリーの家はアミキティアよりも二段階も下の家だ。しかしながらリガー家の当主である子爵は、レオーネの父であるアミキティア侯爵と学院時代からの仲であり、爵位の序列を超えた公私ともに親しい仲だった。リガー子爵は優秀な人物で、アミキティア侯爵を始めとして様々な人物に重用されている。
その関係から、レオーネとマリーは家族ぐるみで幼い頃から会っていた。それこそ、社交界デビューよりずっと前から。
マリーはレオーネに比べて、ずっとさばさばした所がある少女だ。レオーネにも弟が二人いるが、マリーには上にも下にも沢山兄弟がいる。兄が一人と、弟妹が五人だ。貴族といえど、兄弟が多ければ強くなければやっていけないのかもしれない。勿論、淑女としての嗜みはしっかりと備えているが、即断即決、思い立ったら即行動するタイプの少女だった。
同い年の彼女はおよそ一年前、結婚して嫁いでいった。その相手が、ボニファシオ辺境伯爵だ。レオーネたちが暮らすドレミーファ王国の端、まさしく辺境の地を領地として暮らしている伯爵―――当時は次期伯爵だった―――は滅多に王都には現れない。それこそ、年に数度ある王家主宰の夜会でもなければ現れないレベルでだ。そのためレオーネは伯爵とは殆ど話したことがないが、口数は少ないが穏やかな人物であると思っている。強いタイプであったなら、おそらくマリーと喧嘩ばかりになってしまい長続きしないだろう。
そう、結婚しているのだ。
マリーとレオーネは今年十七歳。つまりマリーは十六歳で嫁いだことになるのだが、なんの問題もない。
ドレミーファ王国の成人は、男性が十八歳。女性が十五歳。成人すればいつでも結婚が出来る。
が、特に貴族であれば成人よりも早くから婚約者という形で相手がいることが多い。マリーもそうで(マリーの場合はリガー子爵が勝ち取ってきたようなものだ)、レオーネもそうだった。
レオーネも、そうだった。
手紙を持ったまま、レオーネは石像のように動かなかった。シンプルな封筒から取り出された手紙には可愛らしい花柄が薄く描かれている。その手紙を持ったまま、レオーネはまるで隠れるように息を潜めていた。