最終話 ちかい
レオーネは背筋を伸ばし、その時を待っていた。新たな婚約者、いや、レオーネの年齢を考えれば相手がよほどの年少でもない限り、すぐに夫となるだろう相手が屋敷に訪れるのを。
メイドたちが総力を挙げて身支度をしてくれたレオーネは何処に出しても恥ずかしくはない貴族令嬢の姿を取っている。その肌が以前に比べて灼けてしまっているのは、もうどうしようもない。メイドたちが必死に白粉を塗ってくれたものの、あまりに塗りすぎるとあからさまでより見苦しく映ってしまうので、適度なところで諦めた。
青を基調としたドレスは父が王都の屋敷からわざわざ持ってきてくれたドレスで、レオーネ自身も好きな一着だった。けれども今青という色を見ると、どうにもトゥーレのことが思い出されてならない。トゥーレの瞳はこれほどあからさまな青ではなかった。もっと深い色だった。そう言い聞かせても、浮かんできてしまう顔や声の記憶に自分自身に向かって溜息を吐いてしまう。
「どうかしたのかい、レオ」
「なんでもありませんわお父様」
そっと娘の肩に手を置いて、体調を気遣ってくれる優しい父を見上げ、レオーネは微笑みを浮かべる。
「ただ、少し緊張していますの。…………マンゴルト様との婚約を結んだ時とは、また随分と事情が違いますでしょう」
「ああ、確かに」
マンゴルトの名を出すと、父の声がやや不機嫌になる。仕方がないと思う。レオーネも自分で理解しているが、アミキティア侯爵家は家族仲が非常に良い。父は母と子供たちを誰より愛しているし、母は夫と子供たちを誰より愛していて、子供たちは互いはもちろん両親を深く愛している。だからこそ相手への攻撃は己への攻撃に等しいと考えてしまうのだ。
「……そういえば」と、レオーネは自分が大事なことを父に確認していないことを思い出した。「わたくしの結婚相手となる方は、王子とおっしゃっていましたが……どこの国のですか?」
アミキティア侯爵はおや、と瞬く。
「……言っていなかったかな」
「聞いておりませんわ」
「ああ、それはすまない。他の皆には伝えていたから、ついお前にも伝えた気でいたよ」
アミキティア侯爵が革の椅子に腰かける。腕を組む姿はどこか優雅だった。
「お前に結婚の話を持ち掛けてきたのは、海人の国の王子だ」
「……海人」
レオーネは目を丸くした。指先が震えそうになるのを、手を組み替えることで隠す。
相手の男が海人の国の王子だというのなら、嫁ぐ先が海人の国ならば、もしかすればレオーネは意図せずにトゥーレと再会することになるかもしれない。
それはレオーネの望むところではなかった。再会し、まだ聞いたこともない彼の声が嘘つきと、裏切り者と自分を責めたら。
僅かに青ざめた娘の心情をアミキティア侯爵は勘違いした。全く見慣れぬ海の中での生活を想像し怯えているのだと思った。
「大丈夫だ。私もいったことはないが、海人の国は過ごしやすい良い場所だという話だ。何より、あちらの王族にはカトリーナ王女殿下が嫁いでおられるから、お前は一人きりでもない」
カトリーナ王女殿下というのは現国王の妹の名だ。確かにそうであったと記憶を掘り返す。しかしレオーネが不安に思っていることはそんなことではなかったので、娘の不安を取り除こうという父の声かけは失敗に終わった。
「失礼いたします」アニアだ。「ご到着されました」
レオーネは肩を震わせる。アミキティア侯爵が先に立ち上がり、レオーネのために手を差し出す。その手を取るのを、彼女はほんの少し迷った。けれどここまで来てもう後戻りはできない。
結婚してからずっと、トゥーレと会ったりしないことを願い、怯え続けるのか。そう考えるだけでこれから先の結婚が何よりも憂鬱なものになった。どうしてよりによってと思ってしまう。
出来る限り割り切ったつもりであったのに、まるで鉛の靴を履いているかのように足取りが重い。
いつもより足取りの遅い娘に気が付いたアミキティア侯爵がずれた慰めの声をかけるも効果は無かった。
「こちらでお待ちです」
そういってアニアに開かれたドアからは透明な膜が顔を出している。それが何であるか、レオーネは分かった。海の泡だ。
「このままお入り頂いて大丈夫とのことです」
「なるほど。流石に海の泡に入るのは人生で初めてのことだな」
そういいながらアミキティア侯爵が先に入室した。
泡の中に踏み出す直前、レオーネは肩を落として呼吸を整えた。そして、足を踏み出した。
体の先が触れた泡は、破裂することも跳ね返すこともなく、まるで沈むかのようにレオーネを迎え入れた。たった一歩踏み出しただけで、レオーネの身体はあっさりと部屋全体を覆うように張られている海の泡の中に入ってしまったのだ。初めての体験を素直に受け止めていると、明るい低音の声が部屋に響いた。
「レオ!」
あまり呼ばれない己の愛称を呼ばれて視線を前に――既に部屋に入室していた未来の夫に向けたレオーネは衝撃のあまり普段ならば貴族の令嬢らしく取り繕っている笑顔も捨てて、そこに居た人間の名を呼んだ。
「トゥーレ……どうして!」
間違いなく、そこに居たのはトゥーレだった。別れた時に着ていたごく普通の青いシャツではなく、糊の効いた青のシャツとズボンに、所々がラメが入っているかのように煌めく青のジュストコールを纏っている。
そして今、彼は聞き間違いでなければ……。
レオーネの元へと近づいて来たトゥーレはその夜の海のような瞳をぱっちりと開いた。髪の毛と同じで色素が薄めの睫は、室内の明かりで茶色っぽく見えている。日に灼けた肌と同じく、レオーネやアミキティア侯爵と比べても濃い色の唇を開いた。
「【まっていて】……って、言っただろう?」
今度こそ、レオーネは聞いた。トゥーレが喋っているのだ。今聞こえてきた優しい声は、トゥーレの声なのだ。
先ほどまでとは一転して頬を僅かに紅潮させ、レオーネは上にあるトゥーレの顔を見上げた。同じように、トゥーレも自分よりは低い位置にあるレオーネの顔を見下ろしている。
まるで、あの月夜の再現のようだ。そう一瞬思った時、手を叩く音がして我に返る。
「トゥーレ。まずはご挨拶が先だろう」
そこでレオーネは、室内に居る他の人間に気付いた。トゥーレの纏っている物よりもやや豪勢な雰囲気を持つジュストコールを着た男性が椅子に座って居た。年齢はトゥーレと比べて、随分上のように見える。
トゥーレが彼を振り返り、謝罪をこぼす。
「すみません、兄上。……はじめまして、アミキティア侯爵。海人の国第四王子、トゥルシオプスと申します。トゥーレとお呼びください。……この度はお会いできて、光栄です」
「こちらこそお会いできて光栄ですとも、トゥーレ王子。……我が娘とはどうやらお知り合いのようで」
「ええ、それについてもしっかりとお話したいと思っています。まずは席に着いてからにいたしましょう」
トゥーレの兄である男性とトゥーレが横に並んで座る。トゥーレの目の前にレオーネが。トゥーレの兄の前にアミキティア侯爵が腰を下ろした。口火を切ったのはトゥーレの兄だ。
「では改めまして自己紹介を。トゥーレの兄の海人の国第一王子のケトスと申します。この度は突然の我らの申し出をお受けいただき、本当に感謝しております。まずはアミキティア侯爵が気になっているであろう、我が弟とレオポルディーネ嬢の関係なのですが、実は数週間前にトゥーレは海流の事故に巻き込まれまして、そこで意識を失い倒れていたところをお嬢様にお助けいただいたのです。こちらの屋敷にお世話になっている内にお嬢様の優しさに触れ、弟はお嬢様にほれ込んでしまったようでして。それで、急ではあるのですが結婚の申し入れをさせていただいた、という事でして」
「なんと。確かに人を助けたとは聞いておりましたが、まさかそれがトゥーレ王子だったとは……」
「あまりに急で、本当に失礼なことを」
「急だなんてそんな事はありませんとも。それでそちらからの申し出なのですが、有難くお受けいたします」
「ああ、それは」ケトスの表情が柔らかくなる。「弟はお嬢様と思いあっているから大丈夫だと言い張っていたのですが、そうだとしても侯爵からお許しが出なければ結婚などできませんから……そのような返事を頂けて、嬉しい限りです」
思いあっている、というくだりでトゥーレはケトスを軽く睨んだが、ケトスは知らぬフリを通した。アミキティア侯爵の視線も僅かにレオーネに向けられ、恥ずかしさから膝に視線を落とす。
「では詳しい内容について是非お話したいのですが……よろしければ少し、部屋を変えてもよろしいでしょうか」
「と、申しますと」
「いえ。トゥーレとそちらのお嬢さんを、しっかりと話させてやりたいのです。勿論若い男女を密室で二人きりなど、よからぬ噂が立ってしまいますから。ははっ」机の下でトゥーレの足がケトスの足を踏んだ。「使用人の皆さまは同席していただいても結構ですので」
「レオーネ。どうしたい?」
傍らの父を見上げ、レオーネはしっかりと頷いた。アミキティア侯爵の目じりが下がり、口角が上がる。
「では、そう致しましょう」
アミキティア侯爵と、ケトスが部屋から出て行った。入れ替わりのようにアニアと若いメイドが部屋に入るが、レオーネにとって生活をする空間に使用人がいることはなんら可笑しなことではないので気にならなかった。
「トゥーレ……全然知らなかったわ、何もかも」
「黙っていて、すまなかった。嘘をつこうとしていた訳ではないんだ。ただ、言うタイミングというものが無くてね」
トゥーレは立ち上がると、レオーネの座って居る椅子の斜め前にしゃがみ込んで、あの夜のように手を伸ばす。そっと熱い指先がレオーネの目元を撫でて掌が頬に押し付けられ、まるで焼かれるような気持ちになった。ただ顔を触られている。それだけなのに、何かとてもいけないことをしている気がした。
トゥーレの手が頬から離れ、膝の上に置かれていた手に重ねられる。
「レオ。俺の妻になってくれ」
胸に抑えようのない温かさが広がっていく。激しい運動をした訳でもないのに、まるで社交ダンスの練習をずっとし続けた後のような火照りが爪の先まで体を熱す。男らしく骨ばって小麦色に灼けた肌を細くて白い指先が包み込んだ。
言っても良いの? と声がする。
言っても良いのよ。と声がする。
こんな奇跡があるのだろうか。心を近づけた相手が、何一つ不足のない身分を持ち、こうして新たな結婚相手になることなど。信じがたい事であった。けれども今目の前にトゥーレは居て、その声帯を震わせて言葉を交わすことが出来る状況にある。
もし。レオーネの胸に生まれた声を形にしても、家族に不利を及ぼすことはもう無いのだ。
「トゥーレ」
小鳥が愛を乞うような甘い声が転がり出る。
「すきよ」
目の前で、男は微笑んだ。二人は手を握り合ったまま、静かに影を重ね合った。
これにて本編完結となります。連載の形式を取ったものではこれが初完結作品になりました。
いつもいつも、見切り発車して途中で頓挫ばかりしていたので、つたなくとも一旦は完結という形を持ってくることが出来て嬉しく思います。ここはどうなの? あれはどうなの? という小話はまだまだ書く余地があるとは思っているので、そうした話が纏まることがありましたら、追加させていただくこともあるかもしれません。
ここまで読んでいただき、誠にありがとうございました!




