第十話 元婚約者の困惑
マンゴルト・レークスは己に起きたことがよく分かっていなかった。
彼はドレミーファ王国の第二王子として生を受けた。上には三か月早く生まれた兄と、数年先に生まれた数人の王女。彼の生誕以後は子供が生まれなかったので、国王の子供としては末子に当たる。
そんな彼は、国王の息子ではあったが、誰からも喜ばれる子供ではなかった。彼の母親は身分の低いこの国の貴族の娘で、数人いる側妃の一人でしかなかった。それも別に他の側妃に比べて寵愛を得ていたという訳でもなかった。ただたまたま、国王の子種から男児を産み落とせたという幸運を手にしただけの、女だった。
しかもマンゴルトの生まれた時期は悪く、三か月年上の兄エドワルドの誕生でこの国の跡取り問題が全て丸く収まるだろうと安心されていた時に生まれてきた。もしマンゴルトが王女であったなら、この国の王城は三つの派閥に分かれ次期国王は誰であるかなどという争いが起きることはなかっただろう。
だがマンゴルトは男として生まれた。
彼は生まれてからずっと、国王になれと囁かれた。恐らくそれは、兄エドワルドも同じだっただろう。ただ違ったのはマンゴルトの元にはいつだって父親である国王が居たということだ。
マンゴルトは、エドワルドを別に嫌ってはいない。けれど父が一番に愛している子供は自分であるという自負があった。
だからこそ、父は公爵家たちという重臣たちがエドワルドを王太子に、と言うのを振り切ってあの手この手でマンゴルトを王太子にしようとしてくれているのだ。
国王の打ったマンゴルトを王太子にするための最も重要な布石は間違いなくレオーネ・アミキティアを婚約者にしたことだった。マンゴルトは、大人しい彼女を好いていた。優しく、家族思いの少女だとずっと思っていた。
実はそうではなかったようだと知ったのは偶然だった。
学院で偶然知り合った平民の少女。とある教授へ届け物をしなければならず立ち寄った平民の校舎で迷っていたところを助けてくれた、心優しいマリア。彼女と暫く関わっていく内に、いじめにあい始めたと知った。そのような俗悪な事をするものがいるとはと憤慨するマンゴルトに、少女はその犯人らしい人物の名を上げた。
それがレオーネ・アミキティアだった。
まさか、とマンゴルトも思った。しかしマリアは実際に傷ついている。涙を流し、逆らうことの出来ぬ立場にいる人物におびえている。それは偽物ではないとマンゴルトには思えた。思えばこの時には既に、マリアに心惹かれていたのだろう。レオーネとは幼いころよりも婚約者であったものの、その関係は男女のものというよりも兄妹のものに近かった。マンゴルトにとって、マリアは生まれて初めて心惹かれた異性だった。
エスカレートするいじめ。それはマンゴルトがマリアと仲良くなることに嫉妬した、レオーネがしたという。
マンゴルトは、結果から言えばそれを信じた。震えるマリアを抱き寄せ、慰めながら二人は愛を育み始めた。敵が居る者たちの連帯感は強い。レオーネという敵を手に入れた二人は、あっという間に距離を縮めた。
そのうち、マンゴルトの中に一つの考えが浮かんだ。か弱い立場の者を自分勝手な理由でいじめるものなどが己の妻に、ひいては未来のこの国の王妃になるなど、許されざることだ。マンゴルトの中にある王妃像は兄エドワルドの実母である王妃しかなかったが、マンゴルトは彼女の事が好きではなかった。王妃はマンゴルトやマンゴルトの母に出会うと、いつも冷たくあしらうのだ。どうしてこのような女性が国王の正妻なんだろうという疑問を抱いたことは一度や二度ではない。何よりその国王本人も、王妃を苦手として、マンゴルトにこう囁いた。
「本当に愛する人を手に入れなさい。あのような、恐ろしい女を妻にはしてはいけない」
ならばレオーネは恐ろしい女だ。愛する人はマリアだ。マンゴルトの中であっさりと結論は出た。レオーネとの婚約を破棄し、マリアと結婚し、父の跡を継ごうと。
それを実践しただけだった。確かに父や母に相談をしたりはしなかった。取り巻きである部下たちの反応も良くはなかった。しかしマンゴルトは自分の選択が間違っているとは思っていなかった。だからこそ、パーティという人目のある場所にて、レオーネの罪を暴いたのだ。これで彼女が言い訳をしたりすることが出来ないように。
レオーネは顔を真っ青にして震えていた。図星をつかれたのだとマンゴルトはいい気になったが、彼女の弟たちは逆に怒り反論してきた。王族への口答えは不敬ともされかねない事であったが、場所が学院であったために不問となった。しかしマンゴルトはマリアの訴えを悉く嘘で否定してくるレオーネの弟二人を目の前が真っ赤になりそうになりながら睨んだ。卑しい心の姉には卑しい弟がいるのだと思った。
結局、どんな理由であれパーティを騒がせて良い理由にはならぬと、エドワルドの手によってパーティは解散され、マンゴルトは無理矢理王城に連れ戻され、部屋に軟禁された。マリアに会わせてくれ、と訴えても兵士たちは動かない。兵士たちは既にエドワルドからマンゴルトを部屋の外に出すなと厳命を受けていたのだ。
騒ぎを聞きつけて部屋にやってきた父に同じことを頼もうとしたマンゴルトだったが、予想外のことが起きた。父はマンゴルトから事情を聴くと怒ったのだ。なんてことをしたのだ。そう叫んだ父をマンゴルトはぽかんと見上げた。
「アミキティアの令嬢との婚約を独断で破棄した挙句、平民を妻にするだと? お前は国王という立場を捨てる気なのか」
「いえ、違います父上。私は国王になります。ですがその正妃として、レオーネは相応しくはないのです」
「それを決めるのは貴様ではない。私だ!」
父の発言にマンゴルトは驚いて言葉を失った。いつだって優しく、尊敬できる父が、まるで別人になってしまったようだった。
国王は兵士たちに重ねてマンゴルトを部屋から出さぬよう命じると去っていった。
どうしてと疑問を胸に抱きながら、マンゴルトは部下たちが助けに来てくれるのを待った。けれどもいつまでたっても誰も助けにはこない。――マンゴルトは知らない事であったが、部下たちは皆マリアを正妻にさせるつもりなど無かった。故に彼のこの勝手な行動から生まれた問題を処理しようと奔走していたのだ。
部屋に訪れるのは父ぐらいのものだった。度々部屋にやってきては、心を入れ替え、マリアのことなど忘れてレオーネと婚約を再び結べと諭しに来るが、その回数が増えるほどにマンゴルトは頑なになって拒絶した。何故父は真実の愛を見つけたマンゴルトを祝福してくれないのか分からない。
ただマリアに会いたい、と日々呟く王子の姿を兵士たちは無感動に見つめていた。
数日後、部下の一人が初めて部屋に現れた。
「今まで何をしていたんだ! 早く私をここから出せ!」
「本日はご報告をするためにここにお通しいただきました」
「報告?」
「はい。殿下がご執心でしたマリアという娘ですが、家族諸共田舎に引っ越すことになったそうです」
「……なんだと?」
マンゴルトは目を丸くした。
マリアがどうして、と呟いた彼に部下は言う。
「あの娘にとっては貴方よりも己の今後の人生の方が大事だったのですよ」
「そんな、今後の人生だと? 私の妻になって王妃となるというものだろう」
「不可能です。あの娘が正妻では、貴方は王太子には選ばれず、国王になりえない。なによりマリア本人が、王妃になどなりたくないと申しておりました」
「嘘だ。そんなことはありえない! 嘘をつくな!」
「目を覚まして下さい、殿下! マリアを選ぶことは玉座を捨てることなのですぞ!」
「私は王太子になる者だ! この国の国王となる者なのだぞ。その妻は王妃なのは当然だ! でたらめばかり、父上だけではなくお前たちまで私とマリアを、彼女が平民だからと引き裂こうと言うのか!」
マンゴルトは部下を部屋から追い出した。部下は暫く部屋の前で声を張り上げていたが、暫くして何も反応しないマンゴルトを諦めたのか、去っていった。
それ以降部下たちは誰も来ない。
マリアが自分のことを捨てたなど、マンゴルトは信じなかった。正しくは信じないように自分に念じた。彼女と過ごした幸せな日々を想って、ただこの部屋から出られる日を待っていた。
そんなある日。兄エドワルドが部屋を訪れた。
「随分と酷い顔だ。しっかりと洗っているのか?」
「兄上は一体何を言いに来たというのですか?」
「報告をな」
その言葉にいつかの部下が思い出され、マンゴルトは鼻息荒く叫んだ。
「ハッ。また報告ですか。今度は一体どんな報告だというのです?」
「随分と荒んでいるな。アミキティア侯爵令嬢についてだ」
「……レオーネの? 彼女の罪が認められて裁かれたのでしょうか? ならば良いお話ですね」
「早とちりはやめろ。彼女が結婚することになった、ということを一応お前にも報告しておくことになった」
「……けっこん?」
マンゴルトはまるで何も知らない子供のような顔で、兄を見た。兄の表情は部屋に入ってから一度も変化していない。ただただ目の前の出来事、物事を興味もなく横に流している。そんな様子だ。
「あのような女が、結婚ですか。どんな男と結婚したというのか……」
「うん。他国の王子だ」
「……今、なんと」
「だから、他国の王子だ。しかも……」エドワルドはマンゴルトの顔に自らの顔を近づけた。荒ぶって数日風呂にまともに入っていないためにマンゴルトからただよう異臭にも表情を変えず、まるで秘密を伝えるように囁いた。「海人の国の、な」
エドワルドは即座にマンゴルトから離れた。数秒固まっていた後、マンゴルトは部屋中に響く大声で叫ぶ。
「馬鹿な! 何故あのような女が!」
「それは私も知らぬ。一体どこでどうやって彼女が王子に見初められたのかは謎だ。しかし、海人の国から直々にアミキティア侯爵の元に話が来たのは事実。そしてアミキティア侯爵は、その話を受け入れた。お前に婚約を破棄された娘にとって、これから先二度とないだろう幸運の切符だ。手放す訳がない。何、お前にとっても良い話があるぞ。彼女が結婚することで、父上は今度こそお前とアミキティア侯爵令嬢の二度目の婚約を諦めた。これで晴れてお前はパーティ会場であれほど罵った女性と結婚する未来を失った訳だ。お前の今後については母上と父上が話し合っているから、そのうち結果が出るだろうさ。……さて話はそれだけだ」
久方ぶりに会った兄は、そう話を締めると、ショックを受けている弟の身など一切気にせずに部屋を出て行った。
分からない。どうしてこうなったのだろう。
部下が離れていった。父が離れていった。マリアが離れていった。
なぜ。
誰も訪れなくなった自室で、マンゴルトは小さく呟いた。




