005、『汎ゆる事を疑うべし』と実践することは難しい
しばらくの時間がたって、すこし落ち着いた。
床にぶちまけられた湯はすでに熱を失ってとっくに冷たい水に変わっている。
吸う息の中には湿気が混じっているが蒸せたりするほどではない。
先ほどまで部屋に満ちていた炊き込めた香のにおいは換気の結果薄まってきている。何らかの花の香に似ている。あまり、香には興味がないので何かまではわからないが、薄まってくるといい香りだというのがわかってきた。
「……なるほど」
自分で呟きながら何がなるほどなのかとも思う。
分かったことは確かにある。冷静になるためにも確認していこう。
まずは、自分の今いる場所が先ほどまでいた場所とは遥かに違うこと、ここでは『遥か』というのはもう、二階から一階に落ちたとか、そんなレベルではないということだ。この場所は、怪しげな匂いがして、怪しげな儀式の跡があるが、作りはどこまでも元居た場所とは違うようだ。
例えば、床材は破片が見えているが木の上になんともつかないものでコーティングがなされているようだ。触れてみたところ、柔らかさを感じ、断面を見ると泡が入っているようだ。つまり――多分、液体を固めて作ったものなのだろう。それだけを取り出せば似たようなことをできるものをいくつか知っているが……にかわ、水あめ、セメント……水自体もそうか? まぁ、いくつかはあるものの、液体が固まっても固まり切らないか、固まった時点でかちんこちんになってしまうかのどっちかだ。これのように、指で押せばへこみ、離せば少し戻りとするようなものはない。
例えば、ガラスの板であったり、例えば、扉の作りであったり、例えば、照明の種類であったり、何もかも、上げていけばほとんどのものが元居た場所とは違う。違うと判断できる。
文化とは伝播するものだ。国が同じであれば言うに及ばず、大地がつながっていれば文化は伝わるし、海でつながる向こうとすら何らか文化はつながっていて、方向性は違うことがあっても、レベルという物差しで見ればそこまでの差はない……はずだ。
「つまりは……」
つながっていないというのが一つの仮説。その仮説はしかし、この場で、すとんと飲み込んでもいいものではないと思う。何しろ、それこそまさに『見るのも聞くのも初めて』というやつだ。
あの女王に言われたそれに近い気がするが、これから調べものをしようとしていたものの答えだけが、ぽんと渡されたような状態で。それを偶然であると飲み込めるほど幼くなく、あるいは、度量がない。
「信じられない」
信じられないことばかりだ。信じられないことしかないと言ってもいいかもしれない。理性では正しくその通りであるのだが、感情。
――そう、感情という面では一つ信じていいかもしれないと思うものがある。
それは柔らかく暖かい、なんとも精巧緻密におられた毛織物。少し、立った毛羽が肌を浅く刺し痒みを生むがそれを含めて。ぶかぶかの毛織物の上下をこちらを見ぬように渡してくれた青年。
その前に、こちらの体に無遠慮に視線を這わせていたような気がするが、その後の気遣いを見るに、多少の過ちであるか、或いは、こちらの勘違いだったようだ。凹凸の少ない体は見ても楽しいものではないだろうし、そもそも、一般的に言って大事なところはカバーできていたはずだ。太ももや、鎖骨、へそや二の腕などに、過剰に興奮するたぐいの人間でない限り見るべきところはなかっただろう。
もしかすると、先の毛織物を渡すために体のサイズを確認していたのかもしれない。その場合は、女性への気遣いには欠けるものの必要なことをしていただけであって……まぁ、何を優先と考えるかの個人差ということだろう。
その辺りを勘案するなら今は、お隣さん――つまりは隣家の住人ということだろう――の対応に部屋を出た彼を信じてもいのではないかと、そう思う。
何もかもを信じないか、善意を感じた一つを信じるか。
選択として提示されるのがその二つであるとするなら……。
「信じてみよう」
心の中で思ったはずが口に出していて、自分の言葉が耳に届いて、染み込んでいく。
あぁ、信じてみよう。
取り繕うように自分に、何かを信じなければ耐えられないとか、そんな言い訳を投げてみるが自分自身でそれが言い訳に過ぎないことを認識している。
――まったく。
塔の中で引きこもっていられれば私は何にも脅かされなかったのに、今の私を守るのは暖かく肌に荒い毛織物だけで、なんとも心細く身が竦む。
毛織物の袖を、きゅうと、強く握って目を瞑っているうちに、部屋の扉が開いて男が戻ってきた。