002、塔の賢者
例えば、あなたが最もリラックスできる瞬間はどんな瞬間だろうか。
どんな人でも気を抜きリラックスをする瞬間というのはあるはずだ。
もしも、人生でまったく弛緩するような瞬間がないというのならば、
――それはどれだけ苛烈な人生だろうか。
まぁ、それは一般論として。
・
ある少女がいた。
彼女は『賢者』と言われる存在であり、古くから伝えられてきたり、新しく掘り出されたりする書物――あるいは、その断片を他の賢者たちとともに読み込み、英知を交わし、新たな書物にまとめることを生業としていた。
『塔』と呼ばれるその建物には他にも多くの労働者がいたが、この塔の中では賢者は最も尊ばれる存在であった。彼らは忘却するということを知らず、あらゆる書物を読み込み、取り込んだ智をもって新たな智を開く、思考における開拓者であったからだ。
少女は、その塔の中では、若輩であり、多くの先達に学びながら塔の中で生活をしていた。
外の世界とは違い、それだけに集中できる環境というのは素晴らしく、次代の星として期待される一人であった。彼女にとって、書を読むことは生業であり、娯楽でもあった。彼女にとって、考えることは運動であり、享楽であった。彼女にとって、論を交わすのは戦いであり、交流であった。
その成長は、常に張りつめた緊張の上に乗っているものであった。
彼女にとっての、弛緩は、毎日の冷たい水を採った湿らせた布で体をぬぐうだけの清拭ではない、温かな湯を張った浴槽を用いた一人での入浴であった。
文化習俗的に、そのあたりに入浴文化があったわけではない。そのうえ、個室とは言え、本を主とする塔の住人が、湯気と火気を必然伴うものを好むのは喜ばれざる事であった。
ではなぜ、彼女がそのような設備と風俗を得たのかといえば、昔の賢者の残したものだからだ。
『衛生観念』というものの戸口に立った、数十年前の賢者が、別の本の記述から作ったのが彼女の愛用する猫足型の浴槽でった。
本の通りであれば鋳鉄で形を作るとあったようだが、これは鍛鉄だ。
とはいっても、量産しないのに、鋳鉄を使うのがコスト的によろしくなかったからだろうと推測される。加工精度の問題などではない。
そして、鍛鉄の表面に焼き物に使用する釉薬を塗り、焼くことを何度も重ね作られたのが、その浴槽。琺瑯技術はほかにも多く応用されている一分野である。とはいえ、おそらく、市場に出すなら塔の門前町のそれなりに大きな家を建てるよりも高い値段になるであろうもの。
それが、日の目を見なかったのは、単に、最初の賢者が熱い湯に長い時間漬かるということを好まなかったからだろう。
少女は五つほどのケトルを使い、煮炊き部屋と自室を行き来しつつ浴槽を熱いもので満たしながら漫然と考えた。きっとこの浴槽を作った賢者が、入浴をすることと衛生との関係について、きちんと表すことができていれば、こんなに苦労することもなく、もっと整備された環境があったのではないか、と。
その場合は、入浴というひそやかな楽しみを独占することもできなかったわけであるが、結局、入浴というのは個人的な行為であり、最終的には一人で楽しむものであるのだから、広まっていてもいいだろう。むしろ、そうなっていた場合は、入浴に伴う何らかの娯楽なんかも発展していたかもしれない。
――そう考えればなんとも惜しいことである。
だが、それでも、その賢者を責める気にならないのは、少なくとも、この浴槽を後代のために残してくれたことと、あとに研究するもののために、と、自室に持ち込むための研究するという口実を残しておいてくれたことである。
(痛し、痒し、と思うことにするとしよう)
無心になって往復し、気づく頃には浴槽にはそれなりの量の湯がたまっていた。
沸騰寸前の湯を注ぎこんだことでもうもうと湯気が立っている。
本来は――というか、前の賢者の時には、それ用の設備ごとあったらしいので、最初から入りごろの温度の湯を注ぐようになっていたようだが、残念ながら現状は研究設備の私的利用だ。
多少の不便は飲み込むことにしよう。不便とは、要するに、冷めてちょうどよくなるまで少しの時間を待たなければいけないということだけなのだから。その時間は実際、今の状況では必要であり、煮炊き場の火を消して、ケトルを一つ残して返却することもその時間にしなければならない。
まぁ、そういった雑事を済ませても、少しの時間がまだ必要で。
――少しだけ、読みかけの本を開いで文字の上で目を滑らせる。
本を開くのは、まぁ、ポーズのようなもので、彼女にとっては思考がはかどる体勢なのである。
考えるのは塔の業務とは別、塔を建立した王家の現在一番偉い人、女王から受け取った勅命についてである。
女王曰く。世界の危機だ。
・
『あなたがもしも、目の前に平らな机を置いて、平行な線を描いた場合は、それらの線は交わることはない。あなたの前にある机がまっ平ではなかった場合は、平行な線は平行なままで交差する可能性があることを認識できるだろうか』
目の前に開いている本は言葉を集めたものだ。
――あ、いや、真っ当な意味においてのそれではなく、断片と化し発掘されてきた文字の、単独では何のことかわからない言葉を集めてきたものである。文章というよりも、断章といったほうがいいか。それを集めて書物の形にしたもの。
『断片集』の『地別』の『七番』。このあたりの番号にはさほど意味がない。元の断章も数単語から数ページまでさまざまであるものの、内容が不明である分、発見された地域ごとでまとめるべきか、何処で見つかったかに関係なくわかる限りの製作年代で分けるべきか、あるいは、資料として見つけられた年代ごとに分けるべきか、もっと複雑なものでは文化の流れ等を考えあわせたうえでの時系列で並べるべきだという派閥もある。
関連性のある文書が近くになるようにまとめる方法についてすら、一学問になるのがこの分野だ。
まぁ、今は内容が頭に入っていないのだが。
(女王もむちゃくちゃだよ)
この大陸は女王により統治されている。王朝としては、五百年の歴史があり安定している……といっていいと思う。しかし、その安定は崩れ去るというのが、女王の言だ。
『私はそろそろ、この世を離れる。その時に起こる動乱を軟着陸させなければならない』
そんなことを言っていた。女王は見た目には成年である15にも達していないように見えるが、老獪で語る言葉のすべてに、黴臭さすら感じる歴史の重みと寒さすら感じる神性が籠っている。
彼女をして、五百年前から女王であったと非現実的なことを言うものもいるが、本人を前にしてみればなるほどそうかもしれないと思わせ、少なくとも、そのように語るものが、どうしてそんなことを口にしたのかをくみ取ることはできるくらいには女王は『そう』である。
だが、それにしても、見た目に年の若い女性がすぐに死ぬだのと言っているのはあまりいいものではないと思う。
ただ、懸念の内容自体はわからなくもない。
彼女が死ねば、国が荒れる、とそれについては残念なことに正しいだろう。
しかし、そのための、解決手段というのが……。
「異邦人の召喚……」
――全く。
異邦といっても、単純に大陸の外の国から人を呼ぶ、というのではない。
いや、広義にはあっているのだが、
呼び出すのは、他の世界だという。
つまりは、我々の世界の軛の外。
そうでなければ、根源を打破できないという。
絶対ではないけれど、この世界を作り出した神様を欺ける可能性はこの世界に生まれたものよりも外のもののほうが高い、と。見てきたようにあの女王は言っていた。我々、塔の住民はともかく、国民たちにとっては、その言葉があれば、本当かどうかはどうでもいい……は言い過ぎだが、最優先の事項ではなくなる。
簡単に言えば、このままでは悲劇が起こり、その回避方法としては、あり得るかどうかわからない奇跡の確率に頼るか、あるかどうかわからない何もかもが不確かな異世界という可能性にかけるかだ。と、少なくとも、この国の女王は言ったということだ。
本当にそれを心の底から信じているかはわからないが、言ったということは重い。
といっても、広く国民に対していったわけではなく。呼び出された場で趣味の話――女王も入浴を趣味としている――のついでのように出てきた話題だ。
だからこそ重い。あの女王は毅然としているときもあるし、女王然としているときもあるが、時に、信じられないようなことをするし、私に見せる面の中には悪戯をした後に叱られることにおびえる子供のような面もある。
甘えられているのだろうか。見目には同い年くらいにしか見えない、象牙の塔の住人だというのに。だとすれば、彼女はそういう意味では人を見る目はないのだろうが……あぁ、まぁ、彼女がそれで安堵できるならそれもいいだろう。
女王という一人の人間が安心を得られるというのは場合によっては万人の安心につながるかもしれないのだから……。
つらつらと、思い出している間に、浴槽の温度がちょうどよい温度から少し高い程度になった。
本を閉じて、机に置き、扉を閉める。
同じ部屋に置き続けていてはさすがに湯気での劣化が激しすぎる。
私は待ちきれない思いを胸に、着ている服を窮屈とばかりに脱ぎ捨てて、そのころにはちょうど良くなった浴槽に足をいれようとして――。
・
――光に包まれた。