6.レディ・バードという名前の二〇センチたらずの、年齢不詳の、得体の知れない女の子が現れる
僕はハル文庫の近くに引っ越すことに決めた。
資料を調べるため頻繁に文庫に出入りするなら、せめて移動の時間くらい節約したいと考えたからだ。
その小さな女の子が初めて姿を見せたのは、六月末の夕方。
新しい部屋に引っ越してきて、片づけをしたあげくに、徹夜で原稿を書き上げ、仕事先の編集部に送り、昼過ぎまでぐっすり眠ったあとのことだった。
太陽は西の空に傾き、やがて地平の向こうに消えてしまおうとしていた。もうすぐ陽が沈む辺りの空は淡い茜色から赤葡萄酒色、そして紫色へとゆるやかに変化していくだろう。
蜂蜜のような光が僕のいる窓辺にも届き、地平のはるか向こうへと誘い出そうとする。
「もう夕方だな」
僕は眠気をとばすように背伸びをした。
「あなたは第一、昼すぎまで寝ていたんじゃない。やっと起きたと思ったらボーっとして。
そういうの、ぐーたらって言うのよ」
突然、小さいけれどはっきりとした高い声が、すぐ側で響いた。
僕はびっくりして跳びあがり、イスに座りなおした。
「だれっ?」
しかし、だれかがこの部屋にいるはずはない。
一人暮しなんだから。
空耳か?
あたりをキョロキョロ見回しても誰もいない。
けっきょく僕は、心の中で自分が考えたことが頭に響いただけだろうと納得することにした。
「やっとあたしの声が聞こえたみたいね」
こんどは右耳のそばで声がした。びくっとして声が聞こえた窓のほうを向く。
すると、いたんだ!
なんと、窓の桟に生意気そうに腰をかけ、ふてぶてしく脚を組んでいる小さな女の子の姿が目に入った。
頭の後ろがチリチリするような妙な感じがした。
うそだろっ!!
顔をそむけてから、また視線を戻してみる。
まじまじと見入ってみる。
目をこすってみる。
でもやっぱり、窓の桟のところに、茶色い髪で唇が赤いおチビさんの女の子が座っていた。背の高さはせいぜい二〇センチ。小さいとはいえ、どうやら子どもではなさそうだ。
「きみ、だれ?」
僕がそう尋ねると、女の子はやおら立ち上がり、くるっと空中で一回転してテーブルに飛び移った。そして、ていねいにプリンセスお辞儀をし、晴れやかな調子でこう言った。
「あたしは妖精よ。あなたがわたしに出会えたのは、これ以上ないくらい名誉なことだし、幸運だと思うわ」
幻覚があらわれた?
いったいどうしたんだ。
目の前に人間の形をした人形みたいな女の子がいて、妖精だと豪語している。
僕は何も言えずに固まっていた。
「あなたは、あたしのことをティンカー・ベルかって聞かないのね」
とその小さい女の子がいった。
「なんで?」
「そう聞く人が多いから」
「それじゃあ、あなたはティンカー・ベルさんなんですか?」
(ティンカー・ベルは『ピーター・パン』 に出てくる妖精だ。)
「違うわ!」
なんだよ、ややこしいな。
僕が黙ってしまうと、その妖精は話し始めた。
「あたしの名前はレディバード。物語のシマの妖精よ。ここには、あなたのお姉さんがよこしたの。
ショウくんのところに行って、いろいろ相談にのってあげてねって」
「………?」
「あなたのお姉さんはね、人間の役目を終えて物語のシマに戻っていらしたの。本来は、由々しき家柄の方なのよ」
「ちょっと待って。話が見えないんだけど。きみの言ってること、さっぱりわからない」
「ふん。信じようと信じまいとあなたの勝手よ。あの素晴らしい方があなたのお姉さんだったなんて、こっちのほうがビックリだわ。とにかくあたしにはお役目があるのよ」
そう言うと、消えてしまった。
いままでそこにいたのはウソのように、ただ、いなくなってしまったのだ。
大法螺に聞こえるだろうけど、そんなわけで、彼女はときどき僕の前に現れるようになった。
物語の境目はだんだん曖昧になっていく。意識の中と外の境目が判然としなくなるのと同じだ。何がほんとうで、何がウソか、線引きができる人は多くはないんじゃないか。
でも、もし姉が物語のシマで(物語のシマが本当にあるとして)現在進行形で存在しているとするなら、こんな嬉しいことはない。
唐突にそう言われても信じがたいけれど、そのときの僕は、目の前にあらわれた小さい女の子の言うことをすんなり信じた。
ちなみにレディバードというのは、ほんとうの名前じゃないらしい。なんだか、長ったらしい、言いにくい名前があり、それじゃ呼びにくいからって、レディバードの愛称がつけられたのだとか。
いつも水玉の衣装をつけているからレディバード。レディバードはてんとう虫の意味だ。
「『美しい』って言葉が抜けてるわ」
「へっ?」
「だからどこを見てるのって話よ。
人のことを描写するとき、一番印象深いことを抜かしたりしないでしょ、普通は。
『美人』だとか『素敵』だとか、そういう表現はできないのって話ですよ」
「ああ、ごめん。忘れてた…」
と言ったものの、じつは美人とかそういうことを考えたこともなかった。
もちろん、よく見ればすごい美人だ。
だけど、リカちゃん人形を見て「ほう美人だ」なんて感心するやつがいたら、引いてしまわないか。
人形は人形だ。美人とか考えるまでもなく、美しくつくられている。
妖精だって同じだ。
だいたい妖精というだけで圧倒されて、美人かどうかなんて気にしたこともなかったのだ。
「ふうん、そうですか。注意力散漫ってわけよね?」
咎めるように言うレディバードをそっと見ると、謎めいた表情でじっと僕を見ていた。僕はここぞというところでやりそこねた初心な中学生のように、「ごめんよ」とつぶやいた。