3.南欧風のブックカフェと私設図書室ハル文庫
「資料は揃っているから、見に来るなり取りに来るなりするように」と姉の義理の母親、つまり杉崎さんのお母さんのハルさんから言われていたけれど、結局文庫を訪れたのは、梅雨入りした六月も半ばすぎだった。
文庫というのは、姉が杉崎家の一隅に開いたブックカフェと私設図書室のこと。
杉崎家は昔から地元では土地持ちとして知られており、都内にしては広い土地の中に、これまた昔ながらの広いお屋敷をかまえていた。
庭にはリンゴや桃、柿、ミカンなどの果樹が何本も植わっていて、季節をずらして実をつける。
そこに、テーブルとイスを数組置き、庭に張り出したはなれに、水周りを整えて、コーヒーや子供用の飲み物、お菓子を用意する調理スペースを造っていた。
雨が降ったときも、コーヒーを飲んだり、本を読んだりできるように、屋根を張り出させたスペースもある。そこなら、雨の匂いを感じ、雨が地面に落ちるのを眺めながら、屋根を打つ雨音を楽しみながら、解放された気分で本を読めたりするのだ。
カフェのカウンターの隣は、壁に本がぎっしり詰まった子どもの本の部屋。それにつづく一部屋は、好きなように本が読めるフリースペース。そこは、六一インチの大型テレビが置いてあり、映画の上映会などにも使われていた。
日本家屋の屋敷のなかで、南欧風に整えられたブックカフェは、杉崎さんの知り合いの建築家がデザインしたもの。自然な雰囲気ながら大変お洒落だ。だから、子どもだけでなく、大人にも口コミでひろがり、本好きの人が足しげく訪れていた。
姉は図書館の仕事をする中で、子どもたちを本好きにする文庫活動に興味を持つようになっていった。
第二次世界大戦後、図書館がいまのように整っていなかった頃、子どもたちにもっと本を、ということで始められた家庭文庫。
日本で最初に家庭文庫を開いたのは、『赤毛のアン』シリーズの翻訳などで数多くのファンをもつ村岡花子だ。一九五二年に大森の自宅に「道雄文庫ライブラリー」を開設。(ちなみにこの年、カナダの作家モンゴメリの書いた『赤毛のアン』の初の日本語訳が出版された。)
一九五八年には、石井桃子が自宅に「かつら文庫」を開いた。『熊のプーさん』をはじめ数多くの翻訳や、戦後すぐのベストセラー『ノンちゃん雲に乗る』などで、日本の児童文学を先頭に立って牽引した人だ。
これらをきっかけに「家庭文庫研究会」が発足し、「子どもたちに本を届けよう」という運動は全国に広がっていった。
いまでは図書館の児童書コーナーも整備され、読書環境はずっとよくなっているものの、「でもね、もっと人から人へ、というつながりが大事だと思うのよ。昔むかし、本なんてなかったころ、炉辺に子どもを集めて、長老が物語を語ってきかせたようにね。つながりが子どもの心を育むんだわ。『本』と『つながり』といえば、このスタイルが最適なんじゃないかと思うの。だから、杉崎とお義母さんにかけあって、文庫を開いたのよ」
と姉が話していた。
放課後の子どもたちが、きっかけは何であれ本を読みにくるように、姉は一〇〇円で飲み物とおやつのセットを用意していた。
手づくりの、あっさりした甘さのケーキやドーナッツ、スコーン、小ぶりのサンドイッチ、団子やお芋。それに飲み物も麦茶や果物を絞ってつくるジュースなど。これは働いている母親たちに好評で、毎日一〇〇円玉を握りしめ、宿題を抱えてやってくる子どもたちが何人となくいた。
「杉崎さん。うちの子どもたちも、文庫に行きたいって、児童館を休んじゃうのよ。これじゃ、児童館があがったりだわ」
近所の児童館の先生がブックカフェでくつろぎながらそう嘆くのだと、姉が笑って話していた。
そんなわけで、ブックカフェ・私設図書室ハル文庫(姉のお義母さんに敬意を表して、この名前にしたそうだ)は子どもだらけだ。
そして、じつを言うと、僕は子どもがあまり得意ではない。
だから、前置きが長くなったけれど、僕が文庫を訪ねたのは、子どもがいそうにない、平日の午前中のことだった。




