2.灰色の縞々猫とロシアンブルーと、尻尾の短い三毛猫と
ハナミズキやつつじ、菜の花、そのほか様々な花がいっせいに咲き誇る五月も半ばすぎ。姉の四十九日の供養も終わって、親父と母親は九州の福岡にもどっていった。
「ショウは体に気をつけて元気にしとってね。ほんとに元気にしとかないかんよ」と羽田空港で僕の手を両手で握りながら、母親はまた涙ぐんでいた。親父は、うんうんと、うなづくばかりだった。
「そしたら、お盆の頃に、また帰るから」
僕はそう言って、両親を見送った。搭乗口に入っていく二人の後ろ姿は、肩を落とし、うつむきかげんで、ずいぶん老け込んで見えた。
夫の杉崎さんも、考古学の発掘調査を続けるために中東へと戻っていった。法事の間も終始青ざめた面持ちで、気軽に話しかけられる雰囲気ではなかった。
杉崎さんは姉の病状が悪化したため、発掘調査の途中で日本にもどってきて、二カ月近くこっちにいる。
「そろそろ、向こうにもどらないと」
四十九日の供養で集まっている僕たちの前で、もうしわけなさそうに言った。
たまたま人が出払って二人きりになったとき、僕は「大丈夫ですか」と聞いてみた。無精ひげがさらに憔悴した感じを際立たせている。
「なんとかね…。神様が考えてることはわからんよ。まあ、仕方がないとあきらめるしかないんだろうが。きみのほうは、どう?」
「ぼくは、いまだに実感がわかなくて。姉がどこかにいる気がして、ときどき『どこに行ったんだったっけ』と考えるんです」
「そうか…。私はサチコをいっしょに連れて行こうと思うんだ。よく『体が二つあったら、あっちとこっちと同時にいられるのにねぇ』と冗談を言ってたが、体がないのだから、もう場所にしばられることもない。これからは、いつもいっしょに…」
そう言いながら、口元をぎゅっと結んだ。くちびるが震えそうになったのだろう。僕の目にも熱いものがにじんできた。
あわててうつむきながら、「そうですね。そばにいますよ、姉は」と言うのがやっとだった。
姉と杉崎さんは、杉崎さんが大学の助教授をしているときに、杉崎さんのゼミを姉が履修したことがきっかけで知り合った。結婚したのは、姉が大学院を卒業した年だ。年齢が一〇歳はなれた、極めて仲の良い夫婦だった。
ただ、杉崎さんは専門の古代メソポタミアの発掘調査に意欲を燃やしており、姉のほうは図書館の司書の仕事を極めてみたいという気持ちが強かった。姉はそのために一年間、アメリカの大学に留学して専門の勉強をしたのだ。
そこで、二人はときどき別居し、杉崎さんが日本にいるときはともに過ごすという変則的な、お互いに自立した夫婦生活を選んだ。
「文庫もきみが引き継ぐの」
と、杉崎さんが、当然そうなるものという感じで聞いてきた。
「いえ、僕にも仕事があるので。それに畑違いだし。ぼくが姉に頼まれたのは、書きたかった本を代わりに書いて欲しいってことです」
「ああ、それは聞いてるよ。サチコがきみに頼んだって言ってた。前から書きたいと思って準備していたらしい。彼女の情熱と愛情が、君の手で本になるんだから、できあがったらきっと喜ぶだろう」
そこなのだ。姉に頼まれたものの、僕は自分がちゃんと姉の希望通りの本が書けるかどうか、まったく自信がなく、不安だった。
「じつは、無理じゃないかなと戸惑っているんです。専門的知識などないし。この分野じゃ、全くの素人だし。ちゃんと書けるかなと思って。文庫を手伝ってる女性とかいるみたいだし、その人あたりに頼んだほうが、いいものができるんじゃないかな」
執拗に浮かぶその思いを、つい杉崎さんに話していた。杉崎さん自身、姉を失ったことで撃沈しそうなのに。
「いやいや、サチコはきみにぴったりの仕事だと言ってましたよ。自分が書くよりもいいものになるんじゃないかとまでね。彼女はきみの文章が好きなんですよ。飾り気がなく、まっすぐ頭に入ってくるところがいい。それに、ほんとは子どもの本のよき理解者なんだって言ってたな。
『ショウは夢や愛について、よく知っている。大人になっても、少年の気持ちをちゃんともってる』ってね。
そうだ、きみは猫にたとえると、ロシアンブルーだそうです。で、ぼくは全身灰色の縞々の学者猫」
ロシアンブルーというのは青みががった灰色の、毛の短い、すっとした猫だ。
「猫ですか…。じゃあ、姉はさしずめ、シャム猫といったところかな」
「あるいは、尻尾の短い三毛猫かも」
お互い、笑いらしきものが口元に浮かび、ふっと温かい空気がよぎるのを感じた。
「この仕事はきみにしかできないと思って、とにかく本にしてください。私からもお願いします」
杉崎さんは、頭を下げた。
「はあ」
僕は返す言葉もなく、その言葉を受け止めた。そもそも、頼んだ本人の姉が亡くなってしまったのだから、断りようがないのだ。
ぐだぐだ言ってないで、いい加減、正面きって、腰をすえて取り組むことを考えたほうがいい。そう、覚悟を決めた。




