10.星空には五億もの鈴、そして泉がある
雨が降り続いたあと高気圧がやってきて、やっと晴れ上がった新月の夜、雲ひとつない空は深く濃い群青色となり、東京にしてはめずらしく、たくさんの星が瞬いていた。
三階の部屋のベランダに出て空を見上げながら、僕はリビア砂漠の夜空を思った。
きっと星の数はこんなものじゃないだろう。
真っ暗闇の砂漠では、空はもっと近くに感じられるにちがいない。月が輝く夜には、月光が風によってできた砂の突起を照らして、光と影の文様を浮かび上がらせるかもしれない。
それにいつか見た南の島の空のように、夜空一面にぎっしり星が詰まっているだろう。
五億の星と言っても、大げさには感じられない。
その星のひとつに王子さまがいると信じる。
笑い声が聞こえるんだ。
鈴のような優しい響の屈託のない笑い声。
心はほっかり温まる。
前に子どものいる友人が言っていた。
「あのな、子どもが夢を見ながら声に出して笑ってたんだよ。
ほっとした。
この子はいま幸せなんだ。夢のなかで笑えるってことは、きっといまの生活は大丈夫なんだって安心したよ」って。
優しい愉快な笑い声は、人をほっとさせる。
生きていて大丈夫だと思わせてくれる。
『星の王子さま』のなかで王子さまは、星を見上げたら、五億もの星から自分の笑い声が聞こえるだろうと言っていた。
そのように想像できたらステキだ。
それから泉の水。
サン=テグジュペリは飛行機が不時着してリビア砂漠をさまよったとき、水を渇望した。
ただただ水が飲みたかったろうと思う。
生きることは「水」に集約される。
なにしろ地球上の生命体は、この星が水の惑星だったからこそ誕生したのだ。
王子さまはパイロットから泉の水をのませてもらった。激しい喉の渇きは癒された。水こそは命の源だ。
王子さまは物語のラストで、自分も星空を見上げながら、パイロットから飲ませてもらった水のことを思うと言っている。
すると五億もの星から泉がわき出でて、自分の喉を潤してくれるように思えるんだ。
いま僕は星空を見上げ、そのなかのひとつの星で、王子さまがバラに水をやり、気まぐれな言葉に微笑みながら頷き、ヒツジの世話をし、夕焼けを見つめ、そして、地球の泉の水のことを思っていると想像する。
笑い声が聞こえるような気がする。
星星の間に響く優しい笑い声。
「ねえ、人生を素晴らしいものにしてくれるのは巨万の富でも名声でも権力でもなく、素敵な笑い声と美味しい水なんだ。
星の王子さまの秘密って、それかもしれない。
普通の生活をしていると、水なんかいつでもどこにでもあるように思ってしまうけど、じつは絶対条件として、なくてはならない大切なもの。サン=テグジュペリも『人間の土地』のなかで、『「千夜一夜物語」の中のアリババの宝物のすべて、あれとてはたして一つの涸れない泉に比べるほどの価値があるだろうか?』と言っていた。
つまりどんな宝物よりも価値があるということだ。
『笑い』と『水』は生きるための秘密だ。
僕の考えてること、間違ってるかな?」
ベランダの手すりのところにあらわれたレディバードに向かって、ぼくは小さな声でそう囁いた。静かな夜にベランダで普通の声でしゃべったら、きっと近所中に響くだろうから。
「いいえ。そのとおりよ。
あなたはいま、心底そう思い、感動し、優しく楽しい気持ちになり、勇気すら感じている。
それが秘密なの。
本を読んでそんな気持ちになれる。その部分が、その本の秘密ってわけ。
もしかしたら、人によってそうなれる場所は違うかもしれない。
大事なのは『ここが』ということではなく、『あなたが』ということ。
気持ちがパチンと弾ける!」
そう言いながら、レディバードは指をパチンと鳴らした。
(ほんとに小さな指なのに、えらく大きな音が辺りに響いた。)
それから、にっこり笑ってこう言った。
「ほら、いまみたいに気持ちが弾けるのが、物語の大切な秘密なの。弾ける要素はいろいろよ。誰かを深く愛したり、自分のことじゃないのに、人のために勇気をふりしぼって戦ったり、どうしようもない悲しみで涙が溢れたり。
夢のような美しさ、湧きあがる喜び、思わず微笑んでしまうかわいらしさ、それでも失わない明日への希望…。
そういう胸がキュンとなって気持ちが弾ける部分を掬い取って、本に書いてね」
僕はちょっとの間、返事をためらった。
すごくむずかしい宿題を出されたような気がしたから。
それでも、気を取り直して言った。
「わかった。できるだけやってみるよ」
「あなたのお姉さまに、そうお伝えするわ。きっと喜ばれると思うわよ」
レディバードはにっこり笑った。
あの日以来、レディバードは姿を見せない。
僕は『星の王子さま』について、原稿をまとめあげた。
じつは、それがこれ。
「えっ?」という顔はしないでほしいな。
堅苦しいことを書き並べるより、僕がたどった心の物語をそのまま書きとめたほうが、弾ける気持ちが伝わりやすいと思ったんだ。ハルさんやアヤさん、ヤスコさん、杉崎さんに、なんて言われるかはわからないけれど。
でもこれが、僕が伝えたいと思った『星の王子さま』の物語だ。
きっと、あなたにはあなたの、語るべき『星の王子さま』の物語があると思う。
で、誰かに話したくなったら、ブックカフェ・私設図書室ハル文庫を訪ねてくれないか?
コーヒーを飲みながら、こんどはあなたの話を聞かせてもらうから。
●参考文献
『星の王子さま』アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ著・河野万里子訳/新潮文庫
『人間の土地』アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ著・堀口大學訳/新潮文庫
『夜間飛行』アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ著・堀口大學訳/新潮文庫
『星の王子様の眠る海』エルヴェ・ヴォトワ、フィリップ・カステラーノ、アレクシス・ローザンフェルド著・香川由利子訳/ソニー・マガジンズ
『星の王子さまの美しい物語』アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ著・アルバン・スリジエ、デルフィーヌ・ラクロワ編・田久保麻理、加藤かおり訳/飛鳥新社
『サン=テグジュペリの生涯』ステイシー・シフ著・檜垣嗣子訳/新潮社
朝日新聞2008年3月17日朝刊記事「星の王子さま作者 私が撃墜~元ドイツ軍パイロットが告白」




