9.「絆を結んだものには責任がある」ってことじゃない?
「サン=テグジュペリのブレスレット発見は奇跡だ」とつらつら考えているうちに、僕は同じサン=テグジュペリの著書『人間の土地』で語られた二つの奇跡を思い出した。
ひとつは二章の「僚友」というパートで語られる、仕事仲間ギヨメの、アンデス山脈遭難のエピソード。
真冬に想像を絶する暴風雨に遭遇し、アンデス山中のダイヤモンド湖畔に不時着したのだ……。
機体の下の雪に穴を掘って暴風がやむのを待つこと二日間。
そのあと彼は、五日と四晩、氷点下四十℃の寒気のなか、ピッケルもザイルも食糧も持たずに四千五〇〇メートルの高い峠を越え絶壁に沿って歩き、生還した。
驚くべき強靭な肉体と強靭な精神。
しかし、それでも雪の中に腹ばいになって、もう苦しみを終わらせようと思ったことが一度だけあった。
そのとき再び精神を奮い立たせたのは、妻の存在だった。
遺体が見つからない場合、失踪の認定が下るのは四年後。その間は保険がおりないから、妻は窮乏するのではないか…。
だから五〇メートル先の雪から突き出ている岩角まで歩こう。あそこなら、夏になって誰かが遺体を見つけてくれるかもしれない。
彼は起きあがり、再び一歩を踏み出した。
そして、けっきょく歩きつづけた。
ギヨメを苛酷な状況のなかで突き動かしたのは、彼を待っている、残されたものたちへの「責任」だと、サン=テグジュペリは言っている。
(『人間の土地』は詩人の心と勇気ある冒険者の言葉でつづられた稀有の書だ。
くわしいことが知りたかったら、ぜひ本書を読んでほしいと思う。もっとずっと透徹な言葉と描写で、信じられないような職業飛行家としての体験談がつづられているから。きっと心を捉えて、次元の違う世界を見せてくれるはずだ。)
二つめは、サン=テグジュペリがリビア砂漠に不時着して生還したこと。『星の王子さま』の下敷きとなった奇跡のエピソード。
サン=テグジュペリと機関士は、脱水症状の恐怖に苛まれながらも、生きる道を探り、水を求めて砂漠を歩いた。ほぼ二〇〇キロも! なぜなら…、
耐え難いのは、死への恐怖ではない。自分のことじゃない。
耐え難いのはじつは…
「待っていてくれる、あの数々の目が見えるたび、ぼくは火傷のような痛さを感じる。すぐさま起き上がってまっしぐらに前方に走り出したい衝動に駆られる。彼方で人々が助けてくれと叫んでいるのだ。人々が難破しかけているのだ!」(『人間の土地』新潮文庫より引用)
サン=テグジュペリはそう表現している。
自分の消息が途絶えたら、自分が大事に思っている人たちがどんなに苦しむか、途方に暮れるかをひたすら思い、三日間歩きとおした。
そして、ベドウィンの遊牧民に助けられる奇跡を体現したのだ。
「サン=テグジュペリは本のなかで、難破者は自分たちではなく、ぼくらを待って、悲嘆にくれている人々のほうだ、というようなことを言っている。
きっと飛行機の創成期、そして戦争を通じて、遭難した仲間が数知れずいて、自身も辛い思いをしたし、遺族の悲しみをいやというほど目の当たりにしてきたんじゃないかと思うんだ。
『絆を結んだ者たちにたいして責任がある』と、サン=テグジュペリは経験を通して身にしみて実感していた。
だから、海底に沈んで息絶えたとしても、消息不明のままではいられなかった。
彼の魂が、ブレスレットが見つかるように仕向けたのではないか……。
何か強い意志がそこに働いているような気がして仕方がないんだ」
僕はレディバードの目をじっと見て、さらに言葉をつないだ。
「きみがここにいるのは、少なくとも僕にきみが見えるのは、姉さんが仕向けたことにちがいない。
本を書くことは、姉さんにたいする僕の責任だと思ってた。
だけどほんとうは、僕が姉さんの死を受け止めて、気持ちの整理ができるようにって、姉さんが用意してくれたプログラムなのかも…」
鼻の奥がツンとして、涙が出そうになった。僕は、手元にあったティッシュで目をごしごし拭いた。
「案外、生と死の境目は曖昧なのかもしれないわね。
生きているものにとっては、死は目の前に絶対的に立ちふさがっている壁のようなもの。 だけど、死んだほうの側にとっては、その境目はそれほど絶対的なものじゃないのかもね」
思いがけない優しい口調。それから、こんどは保育園の先生が幼い子どもに注意するような口調でこう言った。
「でもショウちゃん、話が少しそれたと思うわよ。
星の王子さまに戻しましょうね」
「ごめんごめん。だから、自分にとって大事な人というのは、極限状態におかれたとき、つまり死と向き合ったとき、じつは思っている以上に、とてつもなく大事だったんだと思い知らされる。
だからさ、なんでもない日常のなかでも、絆を結んだ人に心配りをして大切にするように、ないがしろにしないように。
そういう教訓が込められているんじゃないかな」
僕は気を取り直して、そう話した。
「ふむふむ」とレディバードは頷いた。
「たしかにそういう教訓は読み取れる。
王子さまも、プライドが高くて気まぐれなバラのところに戻ったしね。
それはそうなのだけど、秘密の解明ということでいうと」
そこで一息つく。
「はずれだわ」
「なんだよ…」
ため息が出た。




