プロローグ “物語のシマ”があるんだそうだ
「シマだと思うのよ」と姉は言った。
「本を読んで気持ちがパチンと弾けることがあるじゃない。笑ったり、泣いたり……主人公と同じ気持ちになって。
そのときに弾けた想念が空に上っていって、天空のはるか彼方に漂っていると思うの。
人の気持ちはいろんなところで弾けるから。
音楽とか、絵とか、映画とか、漫画とか…。実際の生活でだって、気持ちは弾けるでしょ。
その弾けた気持ちは、同じように天空のはるか彼方に上って溜まっているの。ちょうど雲みたいに。
それで共感しあう想念が集まってシマをつくるんだわ。
クラシック音楽のシマとか、現代美術のシマとか、ミステリー小説のシマとか、料理好きのシマとか、いろんなシマがあるわ。
で、子どもの本のシマもあるってわけ。
強力なやつよ。
だって誰だって子どもだったときがあるし、子どもの純粋な気持ちで弾けたら、そりゃたくさんのキラキラした想念が集まっているに違いないもの。
このシマに上陸しようと思うの。
物語をつくる才能がある人は、物語を語ることで、物語を楽しむのが好きな人は、本を読むことで、上陸できるのよ。
もうすでに、いろんな有名な住人がいるわ。トールキンだの、エンデだの、アーサー・ランサムだの、スティーブンソンだの、モンゴメリだの、アンデルセンだの、数え切れないぐらいよ。
あなたにやってもらいたいのは、その子どもの本のシマへの案内人。
ほら、誰だって思い出の本があるもの。それを思い出してもらうの。そのきっかけになる本を書くのよ。
本を読んだときの喜びを、もう一回味わってもらうために。
本を読めるって、幸せな「とき」なのよ。
心が落ち着いていなければ、文章が頭に入ってこないし、イメージも展開できない。
本に集中できるのは、心が揺れてないから。それって、けっこう幸せよ。
おまけに、本を読んで心が弾けたら、ものすごく嬉しい時間でしょ? その時間を取り戻してもらうために、仕掛けてほしいの。大人になって、忘れてる人が多いから。
わたしがやりたかったことだけど、もう時間がなさそうだから、あなたがやってちょうだい。
メモがあるから参考にして、わたしの仕事を引き継いでほしいの。
あなたが書く本の中に、わたしの未来があるわ。未来があるって信じられるのは、嬉しいものよ。
だから、お願い。子どもの本のシマがあるってことと、上陸する方法を、ちゃんと書いてね」
「でも、姉さん」と僕はいった。
「そんなこと言ったって、姉さんが思うような本が書けなくて、つまらないものしか書けなかったらどうするんだい?」
「いいのよ。それはそれでかまわない。でもね、あなたはわたしと一緒に育ったんだし、気が合ってたし、よくわかってくれると思うのよ。
むずかしく考えないで、心をプチプチ弾けさせながら書いてくれれば、それでいい。
弾けた気持ちは、ほら、天空のはるか彼方のシマに引き寄せられ、シマをより強力なものにするわ。あなたはシマに上陸して、きっと良い時間を過ごせるわよ。それでいいんじゃない」
僕は昔から、姉には頭が上がらない弟だった。
「あなたはライターなんだから、自分の仕事もあるでしょう。だから、私の貯金をあげるわ。それを仕事の報酬だと思ってね。
あなたなりに全力を尽くして、いい仕事をしてちょうだい」
そう言うと、姉はニッコリ笑った。
そして、その三日後に、懸命に生きた人生を店じまいし、息を引き取った。ガンだと医者に言われてから三カ月後のこと。まだ四〇歳だった。
そういうわけで、僕は姉が残した仕事を引き継いだ。そもそも畑違いの僕が、そんな崇高な仕事を請け負うのは気がひけるが、とにかくやれるだけのことをやってみようと思う。
大切な姉が残した仕事だし、姉にとっての未来が詰まっているのだから。




