望み
かの有名な宇宙飛行士は言った。
『地球は青かった』と。
実際、世界の7割を海が占めているらしい。そして残った陸地における森林は3割。この世界の大半は自然という大いなる存在に覆われている。
しかし私の目に映る『世界』は、無機質な灰色ばかりで青どころか緑さえも、とってつけたように不自然に視界の隅で縮こまっている。どの青も緑も命も窮屈そうに檻に閉じ込められ、穢れを押し付けられ、邪魔ならば駆除される。
そうして皆言うのだ。『私は世界の維持に貢献している』と。
そんなのは、世界ではない。誰かが、世界を灰色に歪めた。世界を貶めた。
この世で最も美しいものはなんだ? そしてその美しいものを破壊する害虫は誰だ?
今大地を覆う緑は3割。だが害虫どもがのさばる前は4割5分存在していたそうだ。
誰かが緑を奪った。誰かが青を汚した。美しく尊いはずの生命の星は、今や地に落ちた。
だから私は願った。害虫を駆除する力が欲しいと。かつての輝きを取り戻すべきだと。
さあ、害虫は誰だ? そんなもの決まっている。ああ、神よ。もしもいるというのなら私に救済の力を下さい。世界が滅びる前に、世界を救う力を私に下さい。
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「おはようございますお嬢様。本日も麗しゅうございますわ」
「……おはよう。今日の予定は?」
「本日は家庭教師様がいらっしゃる日でございますので午前は数学と化学の授業、午後からはアルル村の視察と相成っております」
部屋の扉の近くには落ち着いた色合いの服を着た使用人が控え、時間通りに目覚めた少女に声をかける。少女は体を起こすと、言葉を返しながらも控える使用人には目もくれず反対側に逸らせば、窓の外にきれいに整えられた花園が広がる。しかしそれはどこまでも続くわけではなく、石壁にぶち当たる。更にその奥には灰色の世界が広がっていた。
「お嬢様は先日8歳となられて、領地の管理の一端を担う時が参りました。初の職務が視察と重要なお仕事をお任せされるとは、領主様もお嬢様に期待されておられるのですね」
「次期領主の妻となる者として、民の印象を良くしようという魂胆でしょう。それにアルルの村は比較的に近場とはいえ、普通幼子を外に出すかしらね?」
豪奢なベッドから体を起こして、虚ろな瞳を外に向けていた少女は、緩慢な動きで視線を戻しつつ素足を柔らかなカーペットにのせ立ち上がる。これまた華やかな衣服をクローゼットから取り出した使用人は、腕を上げた少女に服を手早く着せていきながら、嬉しそうに語り続ける。
「エル様はロスタッド家の第一子でございますから、将来婿をお迎えしてロスタッドの領地運営をお助けなさる以上、今のうちに領地について知るのは悪いことではございませんよ。それにお嬢様は大変聡明で愛らしくありますから、民に愛される立派な妻となれますよ」
「ああ、そう。安泰の未来のために媚でも売ってくるさ。いったいどんな人に私ごと全部あげちゃうか知らないしどうでもいいけど、それが私の義務だって言うのならそれに従うだけ。おなかすいたから、早くいくよ。リラ」
「もうお嬢様ったら! 最後に髪飾りを付けますからじっとしていてくださいな! そのような捻くれたことを仰らないで、もう少し素直になってはいただけませんか!」
使用人はまるでやんちゃな子供を窘めるかのように注意をするが、エルはリラの言葉など何一つ耳に入れていない。使用人の手が少女の頭の上を飾り付けている内は微動だにしなかったが、離れたとたんにエルは歩き出す。
少女は己でも理解できない憂鬱を抱えて無駄に絢爛な、エルの主観では醜さに満ち満ちた廊下を闊歩する。
まるですべてがどうでもいいかのように。なにもかもを置き去りにするかのように。
*******
「さあ、お嬢様お乗りになってくださいませ」
太陽が天を下り始める頃合い。エルは使用人の手伝いの元、靴を履き玄関を出る。眼前には黒く磨きこまれた長い鉄の塊が主人を待っていた。
「私これ嫌いなんだけど。馬でいいじゃない」
エルは文句をいいつつも鉄の塊――リムジンの、運転手によって既に戸を開けられている後部座席へと滑り込んだ。
「馬だなんて、いつの時代の話をしておられるのですか。意固地な貴族様でさえ今では車に乗っておられますよ? そもそもこの屋敷に馬なんておりません」
エルの後に続いて車に乗り込みつつ、エルが文句を言うたびに出てくる古典的な手法に呆れながらも使用人は律儀に返答する。運転手は確認したのちに滑りだすようにアクセルを踏んだ。
「いいじゃないか別に。古き良き伝統を重んじるべきだ」
「そんなことを仰るのはお嬢様ぐらいですよ。お隣の国では最近空を飛ぶ車が実用化されたそうでございますよ? どちらかというと我が国は後れを取っていて、古き技術から抜け出せてはおりません。そのうえで過去を振り返るようなことをすれば、技術競争に敗北した弱国だとあざ笑われてしまうではありませんか」
「うちの国は農業国だ。畑が違うのに競うのはおかしな話じゃないか。それにどこの国も食料を自給せずにこの国、レムアに依存している。それでいいでしょうよ。うちはうち、他所は他所。それだけのこと」
エルは窓を限界まで開けて、顔に風を受け止め目を細める。心地よい風に思わず笑みがこぼれそうになるが、視界を埋め尽くすのはコンクリートで舗装された道路に高層ビル群。街道には等間隔に並ぶ枝を切り落とされた木々。幸せは瞬く間に吹き飛び町並みから目を逸らすように前方を見やると、リムジンの先行をする一台のバイクが見えた。バイクに乗るのは、軽鎧を着こみ長剣を背負った男だ。サイドミラーにもバイクが映り込んでいることから後ろにもいるのだろう。そして今は見えないが助手席には魔法使いがいるだろうとエルは予想する。
「お嬢様、直に門を出ますから窓を閉めてお座りくださいませ。安全のために防護魔法はかけておりますが、万一のこともございますから」
「アルルの村までの魔物なんて大したのはいないでしょうに。明らかに過剰な護衛じゃないか」
ロスタッドの家紋が入ったリムジンは、ノータイムで門を通過していく。その後も門を出ても続く灰色を見つめていたが、失礼いたしますという運転手の声の後に自動的に閉められた。視界が遮られ急に手持ち無沙汰になったエルは暇つぶしにと問いを投げる。
「アルル村についてなんでもいいから説明して頂戴」
「すでに把握されておられるのでは? ……いえ、了解いたしました。アルル村はロスタッドの都より車で2時間ほどの場所にございます、ロスタッドが誇る最大の農村となっております。村と呼ばれてはおりますが、その規模と外観は街と呼ぶ方が相応しいかと。かつては広大な敷地を生かしての田園地帯でございましたが、今は技術が進み室内環境を調節することで世界各地の特殊な植物の栽培を行うことが主流となっております。もちろん、穀物の類の栽培もされてはいますが面積当たりの収穫量が増加した現在その規模は縮小し、その差分は周囲の村々が補っております。しかしながらそれでも他国に輸出できるほど食糧には余裕はございますから、領主様は世界各地の食材のさらなる品種改良と掛け合わせを行うことで高級路線で行くことをお考えのようです」
「で、私はどこに視察に行けばいいの」
「その、交配と品種改良を施された新商品、アルロロの工場でございます。アルロロは、アルル特産の……」
「ああ、もういい。どうせ工場長に嫌になるほど聞かせられるんだ。で、この街道にでる魔物の間引きはアーキアがやってるの?」
「はい、一番交通量が多いところですから。通常であればまるっきり会わないことはないのですが、今回はお嬢様の視察に合わせて徹底的に掃除されたそうです」
「お疲れ様なことね。都付近に出るのは弱い魔物ばかりだというのに、無駄な税金」
「お嬢様の視界に不浄なものを入れないための措置と、アルカード様が仰っておりましたよ」
リラの言葉に胡乱に顔を歪める。しかし視線は一向に使用人には向かない。
「アルカード様ぁ? はあ、なんでロスタッドの娘のために軍を動かしてるのかなぁ。元来領主家と護家はいがみ合い監視しあう関係でしょうに。もうめんどくさい寝る。着いたら起こして」
「アルカード様だけでなく、アーキア家の方々は皆お嬢様の心配をなさっておりますよ。ではお休みなさいませ……」
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すべての行程が終わり、領主邸ほどではないがそれなりに大きな村長宅の客室にあてがわれたエルは、夜着を身に纏う。夕食を村長に招かれ、その後に領主邸に戻るには夜も増し、活発になる魔物の襲撃に遭う可能性を考慮して案の定アルルの村で夜を越すこととなった。
「お休みなさいませお嬢様。明日の朝食も村長様との会食となっておりますので、くれぐれも寝坊をなさりませぬよう」
「その時はリラが起こしに来るんでしょ。おやすみ」
静かに戸が閉められ、室内にはエルただ一人。この時間だけが唯一一人になれる時間だった。エルとしてこの静けさがもっとも心地よい時間で、そして明日のわずらわしさを思うと憂鬱にもなる時間だった。
ベッドに横たわり、睡魔が訪れるのを待ちながら一人を堪能していると、村の外から空間の歪みを感知した。一つ一つは小さいが、一か所に複数の空間の穴が開けばエルはその力の特性上はっきりと認識できる。エルは驚きのあまり飛び起きて、感知した方向に意識を尖らせる。
「っ!? 空間の歪み!? そんなことできるのは、誰も……いや、ワタリドリ? でも複数が一斉に飛ぶなんてありえない。でもだったらあれは、どういうこと?」
今では歪みはないが、空間の波紋というような、揺らめきの存在はある。少なくとも何者かが転移した、してきたということだ。
「確認、しなければ」
エルがそうつぶやくと、数舜後には乱雑に盛り上がった掛布団だけが残されていた。
「歪みはここ、か。村の外の森? いや、森なんてアルル付近にはなかったな、となると果樹園か」
あたりに等間隔にそびえる木々は、小さな白い実をたわわと実らせている。エルは、見たことないことから今まで食べたことのないものか、これから色付くにだろうかと予想する。もう揺らめきのような残滓は感じ取れない。警戒するようにあたりを見回すが、何も見つけることはできない。もしかすればどこかに去った後なのだろうかと考えていると、
「来たか、啓示の女」
「誰!?」
突如後ろから聞こえる幼い声に振り替える。そこにはエルとはさほど歳は変わらないと思われる一人の少年が立佇み、その周囲には白い鳥が複数木々に止まっていた。
「神に救いを求めたのはお前か?」
「救い? 何のことを言ってるの。それにどうして、人に懐く筈がないワタリドリがこんなにもいる、貴方何者っ!?」
エルはあまりの異常事態に言葉を荒げ取り乱す。思わず一歩後ずさるが背に木が当たるだけだった。
「ああ、覚えていないのか。お前は前世の死に際、神に救いを求めたのだ。世界の救済を。本来神は世界に干渉できないのだが、どういう偶然かお前は救済を行うにふさわしい『天恵』をもって生まれた。故にお前には神の意志を遂行する力があると、神に栄えある神の使徒として認められたのだ」
「前世って、私は一体何を望んだって言うのよ。神だなんて、私がそんなのに縋るわけが」
突然少年が殺気を放ってきたことに思わず口を閉じる。ワタリドリも威嚇するように体を膨らませて睨んでいる。
「神を、冒涜するなよ。お前はの望みはお前の魂に刻まれているはずだ。そして、お前は人ながらにして神と同じ望みを持った。もとから神は使徒である俺に意志の遂行をさせようと計画されておられたが、それにお前も加えてやるということだ」
「勝手に使徒認定して加えてやるだなんて、とんだ神様ね。で、そんな神様と同じ望み? 私が何かを願ったことなんて……」
エルは乾いた笑いを浮かべながら、人形のような少年の話を整理していく。望み、と考えようとしたところで頭の中に今日の記憶が蘇る。人の手によって整えられた庭、自由を奪う塀、その奥に広がる無機質な高層ビル群。植物たちは生きる場所を決められ、邪魔な腕は落とされ、実は全て奪い取られる。こんな屈辱はあるのか。
そうだ、それは今日に限った話ではない。空気は淀み、空を舞う鳥は薄汚れ、青に生きる魚たちは汚された水に潜み、持ち込まれた外敵に平穏を脅かされ、自然に存在しない廃棄物に命を奪られる。そんなことがあっていいのか。
いつもなら漠然とした思いが、今体の奥底から湧き上がってくる。そうだ、ずっと思ってたんだ。願ってたんだ。何年前、いや何十年前からずっとずっと。魂から湧き上がる怒りを自覚してしまって以上、無視するなんて出来はしない。したくもない。今、目の前に其れを叶える道があるというのなら、少年の手を取らない選択肢など存在する訳がない。
「……ねえ、貴方は、神は私の望みを叶える手段をくれるの? 害虫どもをすべて滅ぼす力をくれるというの?」
そのエルの言葉に少年は無表情からかすかに笑みを浮かべる。
「そうだ。神の使徒にして尖兵たる俺が神に代わって、人間を滅ぼそう。だからお前は俺にその『天恵』、『転移』を貸せ」
「貴方は神のために。私は世界のために。目的は違えど手段は同じ、か。くく、ふふ、こんな荒唐無稽な望み、叶う訳がないと思っていたのに神様が私の味方してくれるだなんて。信じられないよ、ああ、ああ今から楽しみで仕方ない」
エルは先ほどの怯えようが嘘のように、饒舌に語る。本来持ってはならない思想が、無意識に押し込んでいた望みが曝け出される解放感に酔いしれる。そんなエルを無視するかのように少年は問う。
「一応聞いておくが、神の望みが遂行された暁には、わかっているな?」
「もちろんだとも。私と貴方が人である以上、当然。すべて終わった時には私も貴方も死ぬ。そうでしょう?」
「愚問だったか」
「私もまた世界の犠牲の上に生きる罪深き人間だから。ああ、そうだ。貴方の名前を教えてよ、これから共に世界の救済を行う私の相棒さん。私はエル・ロスタッド。侯爵家の生まれにしてレムア国……いえこのガーナルド大陸で最も食糧の生産量を誇る『ガーナルドの食糧庫』のロスタッド家の長女」
「人が定めた肩書などどうでもいい。俺は、カナン。神から賜った使命を為すためにのみ生き、死ぬ尖兵」
清々しい笑みを浮かべた少女と相も変わらずの無表情の少年は手を取り合った。信頼などないが、ただ望むままに。
こうして史上最悪の魔王が邂逅したした瞬間であった。この世界が神の望み通りになるかなど、いかなるものでも予測は叶わぬであろう。これは報いか、天災か。これを機に世界は混沌に飲み込まれる。




