逃げ道
終わりの見えない垂直な壁を駆け降りる。時折壁が揺れて足が外れそうになる。
今となってはもう昔のことだが、こちらの世界に来た時も終わりの見えないところに落ちていた。
昔の自分ならただ真っ逆さまに落ちる事しかできなかったが、今の自分なら自分の体を制御することが出来る。
だがこの速さに彼女たちの体は着いて来られないだろう。
壁走りをしている間に靴はボロボロに砕け散ってしまった。だが、この方が都合がいい。道場に入っていた時にはいつも裸足だった。こっちの方が鬼化の能力も活かしやすい。
足に鬼化を宿しながらレンガの間に足の指をかける。黒い破片が飛び散るかと思いきや、鬼化は予想に反して発動すらしなかった。
「何だとッ!?」
何が起こっているのかは分からないが鬼化が足に使えない。手には鬼化が宿っている。
もしもコイツの加護がタキシードのような能力なのであれば、触れている場所は加護が発動しないことになる。
ベルモットが俺の顔を見ながら不安そうな顔をしている。今の自分はそんなに不安そうにさせる顔になっていただろうか。俺は腕にギュッと力を入れた。俺の顔を見ていたベルモットがギュッと目を瞑る。
それを確認した後、俺はためらいなく城だったものの壁の中に足を突き刺した。大臀筋と背筋にめい一杯力を入れながら急に減速する衝撃を極限まで抑える。少しでも体幹を崩すとベルモットとリタに衝撃がダイレクトに伝わってしまう。それだけは絶対に避けなければならない。
「ガァァァァァアアアアアッ!!!」
足がゆっくりと確実に削れていく。ここまで培ってきた治癒力でどうにか保てるかと思ったが、いつも鬼化に頼っているせいで、本当の痛みを忘れていたのかもしれない。
骨が削れ、血肉で赤い直線の足跡が出来上がっていた。脳が痺れるほどの衝撃に必死に歯を食いしばる。何度も両手の力が弱まりかける。その度に何度も自分に喝を入れて力を入れ直す。
大切なモノを無くしてしまったあの日から俺は絶対に大切な物を離さないと決めたんだ。だからここで離したら全部パーになってしまう。
ものすごい勢いで近づいてくる地上を見据え、タイミングを見計らい背中を丸めて手を突かずに彼女たちを抱え込むようにして受け身を取る。勢いがかなり弱まった後、彼女たちを転がりながら安全に着地させて自分は地面に倒れ込んだ。
危なかった。自分の足は膝ほどの高さまで削られていた。急いで鬼化を使いながら治す。こんなになっても死なないのかと自分で呆れる。そう一息ついていると自分の頭上に大きな影が落とされた。
「危ねぇ!!」
静かに療養している暇などない。今は敵の目の前だ!
俺は彼女たちを抱えると大袈裟に受け身を取ってそれを回避した。
それは大きな石の塊、一軒家ほどの大きさがあるので見ようによっては家が落ちて来たとまで言える。
それは巨大な礫、俺の今さっきまでいた場所にまるでクレーターの様な穴が開いている。
そしてそれは紛れもなく怪物の拳であった。
「嘘だろ......?」
いや、俺が鬼化の能力が使えなかった時、もっと言えばアイツが地面ごと様々なものを取り込み始めた時から想像はついていた。俺が何を相手にしなければならないのか。
そこには天を突くような大きさの怪物が立っていた。
壁中から顔の部位を生やし、何本もの腕を持ち、こちらを多数の眼がこちらの方を見ていた。無機物と有機物を無理やり合わせて動かしているような印象を受けた。こんなものが動いている、立ち上がっている、拳を振り上げる。その全てが異常だ。
背筋が凍る。これが全て相手の本体なのだとしたら俺はどうやってコイツを倒せば良いんだ? 始めてだ。生命体から飛び降りて死にそうになったのは。
「やるしかない。」
心は半ば折れかけていた。なのに口から出てきたのはどうしようもなく前向きな言葉だった。諦められない、ずっとここまであきらめてこなかった自分の声だった。今まで背負って来たものが諦めることを許してくれない。
それは重荷の様にも思えた。圧倒的な絶望感が自分の中で膨れ上がる。自分が何を相手にしているのか信じたくない。俺が相手にするべきは人だったはずだ。
そこまで来てふと思ってしまった。
今まで俺のことを皆が怪物だと言っていたこと、初めて俺が魔法の脅威について噛み締めた時に相手のことを怪物と言ったこと。
『怪物』
人ならざる者、畏怖するものへの蔑称。
俺は本当の怪物に出会ってしまったような気がした。
「やるしかないんだよ。」
頭で考えている事とは裏腹に漏れて出てくるのは前向きな言葉だけ。これまでもずっと唱えてきた言葉だけだった。
俺はもう既に覚悟してしまっていた。死んだらそこで終わりだということも分かっていた。
死ぬかもしれないと思ったとしても戦うしかない。帰る道はもう残されていない。ここに来て、前も理解していたはずのことを改めて考え直した。
「やるしかないんだよッ!!」
言葉が力に変わった。あやふやだった言葉が改めて自分の物になってような気がした。
ヤト爺が前言っていたことを思い出す。そんなあやふやな理由で戦うのなら戦わない方が良い、と。あの時はその言葉の意味を理解することはできなかった。それから少しずつだがその言葉の意味を理解した。分かった気でいたのだ。
こういうことだったのだ。
自分の心が折れてしまっても後戻りできないようにするための重い枷。
ヤト爺もえげつない。このことが分かっていたということは、つまるところこういう危機的状況に追い込まれたことがあって逃げようとしたことがあるということだ。プレッシャーに押しつぶされて息も出来ないような環境の中で誰かを守るために一人でずっと足掻き続けたことがあるということだ。
胸を一、二度叩く。地面の感触を裸足で確かめ、自分の状態が整っていることを再確認する。
鬼化の能力が血液を駆け巡る。沸騰するような熱を指輪が緩やかな熱に変え、体の芯から温まってくるような熱に変えてくれる。
彼女たちにこの場から離れるように伝えた後、ゆっくりと構え直して真っ直ぐに前を見据える。
いつものルーティーンを行うと、不思議なほど心は冷静さを取り戻していた。
「やろう。」
相手の常識はずれの大きな口がニィッと笑うのを見て、ゆっくりと俺は唇を引き締めた。
覚 悟 完 了
相手には異能も効かないみたいだし、一体どうやって戦えば良いというのでしょうか。




