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『現代版百物語第三夜:二口女』

作者: 百太郎

自宅アパートの台所で、この部屋の主、津島卓也が素っ頓狂な声をあげた。


『あれ~?また減ってるよ~。そんな食ってないのにな~』


先々週に買ったばかりの米びつの前にしゃがみ込み、眉間に皺を寄せ、首を傾げている。

米びつを覗き込み、中の米の量を確認しているようだ。目盛りを見て、更に首を傾げる。


『げっ。三個も目盛りが下がってる。確か、昨日入れたばっかだよなぁ?米泥棒かぁ?…そんなもん居るわけねえじゃん!』


彼が一人呟いていると、ガサッという音が背後から聞こえた。パッと後ろを振り向く。

すると、そこにはスラリと長い二本の足が、行儀よく並んでいる。

つと上を向くと、彼女である手嶋夏奈子が、不思議そうにこちらを見つめていた。


『何してんの?難しい顔して?』


そう言うと、彼に近付いてきて、すぐそばにしゃがみ込む。

そして、彼の顔を覗き込み、もう一度聞いてくる。


『ねえ、どうしたの?顔が怖いぞっ、たっくん!』


言うが早いが、いきなり両頬を手で挟まれグリグリとされる。

彼は慌てて振りほどこうとするが、思いの外挟む力が強いのか、中々外せない。


『や~め~ろ~よ~。話すから~、やめて~!』


抗議の声を彼が発したことで、ようやく拘束が解かれた。いたずらっ子のような笑顔を浮かべ、彼女は離れる。


『怖い顔してる、たっくんが悪いんだからね~。ふっふふ』


笑いつつ、今度は鼻を摘まんでくる。頭を振りながら抵抗を試みるが、彼女の方が素早く動くので、まるで意味がない。またしても、抗議の声を発する。


『やめて~!分かったから~!やめて~!』


そんな彼の様子を見てピタッと彼女は手を止めた。が、まだ顔には先ほどの悪戯っぽい笑顔が浮かんだままだ。


『ホント?もう怖い顔しない~?』


聞きながら、なおも手をワナワナさせ、顔を弄ってこようとする。

そんな、彼女の様子に自然と笑みが溢れてきた。


『あっはは。もう、やめろって言ってるだろ~』


そこで初めて彼女は悪戯するのをやめ、笑顔のままで立ち上がると彼のそばから離れていく。


『今度怖い顔してたら、お腹くすぐるからねっ。ふっふ』


振り向き様にそう告げると、鼻歌を歌いながらリビングに入っていった。

彼は尻餅をついた格好のままで、去っていく彼女の後ろ姿を苦笑まじりに見送る。

これが、彼女のいつもの愛情表現なのである。こちらが眉間に皺を寄せたりしていると、ああやってからかってくるのだ。

最初の内は彼も、随分驚いたものである。なにせ、考え事をしている最中にやってくるのだ。キョトンとしていると、彼女は決まってこう言った。


『難しい顔してると、幸せが逃げちゃうぞ。ほらっ、笑って笑って!』


その言葉に、些細な事でも悩んでしまう性格の彼は、救われたような気がした。まだ、その後に待っているくすぐり攻撃には慣れていないけれど。

そんな事を考えていると、リビングの方から彼女の甘えた声が届く。


『早くこっち来なよ~。一緒にテレビ見よっ』


分かったよ~、と言うと立ち上がり、リビングに入っていく。

彼女は待ってましたとばかりにこちらを向くと、自分の座っていた場所をじりじりと移動し、彼の座る位置を空けてくれる。そこにドカッと座り、一緒になってテレビを見ながら笑う。その状況で、ふと激減しているお米の事について聞いてみた。


『あのさ、さっき米見てたんだけど、減ってるんだよ。食べた?』


何の気なしに聞いたのだが、彼女の反応がない。隣を見てみると、さっきまで笑顔だった彼女の表情が消えている。驚いていると、急にこちらを向き、怒ったような口調で言い返してきた。


『何?私が食べたらいけないの?いいじゃん、私も買ってきてるんだから!』


表情も心なしか怒ったような顔をしている。思わぬ反応に彼女の顔を見つめたまま、キョトンとしてしてしまう。しばらく見つめ合ったままでいると、彼女は急に怒った顔から満面の笑みになる。


『びっくりした?怒ってなんかないよ~。でも愛する彼女に、米食った?はないぞ~、コウちゃんっ!そんなこと聞く人にはお仕置きなのだ~!!こ~ちょこちょこちょこちょこちょこちょ~』


言いながら、いきなり両脇腹をくすぐってきた。


『わひゃひゃひゃっ!?やめて~!悪かった!もう聞かないから!まっ、まじでもう、わひゃひゃっひゃひゃ!?勘弁して~!』


彼女の猛攻に彼は抵抗する事が出来ず、されるがままになってしまう。結局、この日は眠るまでちょっかいを出され続け、疲労困憊で一日を終える事となった。




翌日、うるさく鳴る携帯電話のアラームで卓也は目を覚ました。

携帯を止めるために手にとって確認すると、それはアラームではなく着信音だった事が分かり、おやっ?と思う。

そこで初めて、不在着信が数え切れないほど溜まっている事に気づき、彼は頭が真っ白になった。

ふと横を見ると、隣で寝ていたはずの夏奈子の姿がない。彼女は普段、とある商社で働いており、朝の八時にはこの部屋を出ていく。そこから察するに、今の時間は確実に八時を過ぎているだろう。

彼は、おそるおそる携帯の時計を確認する。

時刻は朝の十時半過ぎ。

彼の会社の出社時刻は九時ちょうど。


『…ちっ、遅刻だぁぁぁぁぁっ!!!』


しばらくの間を置いて、部屋中に絶叫が響く。

とにかく急がなくては、と気ばかり焦り着替えもままならない。


『あっ、くそっ!ズボンが入らないっ!くそっ!んっ!あっ!?おわっ!?』


慌てた拍子にズボンに足をとられ、その場に転倒する。

台所の床に全身を強かに打ち付け、目に星が飛んでいく。そのままの姿勢で、彼の口からうめき声が漏れる。


『つぅっ!いてぇ。何だよ、もう』


その時、倒れている彼の頭上でカサカサッという物音がした。

んっ?と思い目線を動かすと、米びつの前で視線が止まる。そこに、小さな何かが動いているのが見えた。目を凝らして見ると、それはなんと小さなネズミではないか。驚き、思わず声が出る。


『あっ!ネズミッ!』


彼の発した声に反応し、ネズミはぴょんっとはねたかと思うと、一目散に棚の隙間に潜り込んでいった。

彼はそのままの姿勢で、ネズミの逃げていった方を見つめ、ただぼんやりとする。

しばらくそうしていたら、昨日の事を思い出しハッとした。

ここ何日か続いている、激減する米の原因が、今わかった。それは間違いなくネズミだ。ネズミが、米びつから米を食べていたのだ。

だが、分かったら分かったで、また彼を悩ませる新たな問題が発生する。


『分かったけど、どうしよう?ネズミなんて初めて見たしなぁ。捕まえりゃいいのか?…捕まえてどうすんだよ?ああっ!もう、わかんねえ!!』


彼が大声を出し、頭を抱えるのとほぼ同時に、机の上に置いてあった携帯電話が鳴り出した。

ビクッとなり、携帯を手に取る。画面を見ると、彼の会社の上司からだった。一気に現実に引き戻され、彼の顔が強ばる。おそるおそる電話に出てみると、火が出る程の怒声が電話口から聞こえてきた。とりあえず平謝りしつつ、何か良い言い訳はないか、と頭を巡らす。そんな事を考えている間に、一方的に電話は切れた。深いため息を一つ吐き、彼は項垂れる。


『行きたくないなぁ。めっちゃ怒ってたも~ん。怒られるの分かってて行くの、やだよ~。寝坊って言ったら怒んだろうな~、も~う』


もうネズミの事など、頭の隅にもない。上司に対する言い訳を考える事で、頭がイッパイになっている。ぶつぶつ文句を言いながら、その場で行ったり来たりを繰り返す。彼はしばらくそうしていたが、やがて諦めたように、もう一度深くため息を吐き、会社に行く準備を始める。言い訳は会社に行くまでに考えよう。そう思い、手早く支度を終えると自宅を飛び出す。

最後に自宅玄関の鍵を閉める時、ふとネズミの事が頭を過ったがそれ以上考えず、自宅アパートを後にする。


『まあ、会社行ってから考えよ。今ネズミどころじゃないし』


ポツリと呟くと、早足で会社に向かうのだった。




夜の十一時過ぎ、疲れはてた卓也はようやく自宅アパートに到着する。

あの後、彼はこっぴどく上司に絞られた。小一時間もある大説教である。

それだけならまだしも、説教の終わり際に残業まで言い渡されてしまった。もちろん、残業代は出ないサービス残業だ。

遅刻した手前断る事も出来ず、彼は渋々それを引き受けた。そんな感情がよくなかったのか、彼にちょっとした災難が次々に降りかかる。突然電気を消されたり、正面玄関で閉じ込められたり、掃除のおばちゃんに不審者と間違われたりと散々な目にあう。

そこでそのまま帰ればよかったのだが、道中会社の先輩のアドバイスを思い出し、ネズミ罠を買いに走ったのがよくなかった。会社の近所のドラッグストアが臨時休業でやっておらず、それならと行った薬局はネズミ罠を置いていない。極めつけは、会社から二駅の場所にある大型ドラッグストアが店舗ごとなくなっている、という大事件が起こっていた。

またそこで諦めればよかったのだが、変に意地になってしまい、今度はドラッグストアを探すことになる。結局、自身のアパートの近くに二十四時間営業の薬局があり、そこでようやく購入することが出来た。素直に帰っておけばよかった、と後悔と疲れがドッと押し寄せてくる。

愚痴を言う気力もなくし、ようようここまで歩いてきたのだ。

ふと、アパートの二階を彼は仰ぎ見て、灯りが点いている事にホッと胸を撫で下ろす。

夏奈子が帰ってくる自分を待ってくれている、そう思うと妙に足取りが軽くなり、疲れが取れたような気になってくる。

軽やかにアパートの階段を駆け上がり、あっという間に玄関扉の前まで着くと、わざと明るい声を出し扉を開け放つ。


『ただい~ま~。帰ったよ~』


言って中に入っていこうとすると、台所の方から彼女が頭をひょこっと出し、笑顔を彼に向けた。そのままパタパタと台所から出てきて、彼のもとに駆けよってくる。


『おかえり~。ご飯できてるから食べる~?それとも、お風呂~?』


まるで新婚夫婦のようなやりとりだなあ、と思いクスッと笑ってしまう。

彼が笑ったのを見て、彼女の表情が、笑顔から不満そうな顔に変わる。唇を尖らせ、拗ねたような顔だ。

その顔のままで、笑顔の彼に抗議している。


『も~う!笑わないでよっ!だって、やってみたかったんだもん!いいでしょっ!も~う、笑わないでっ!』


その姿が可愛らしくて、笑顔をやめる事ができない。


『も~う、いいもんっ!コウちゃんなんて、ずっと笑ってなさい!ワタシ知らないんだからっ!』


怒ったように言うと、頬を膨らませぷいっと横を向く。

またその顔が可愛いのだ。笑みを我慢する事が出来ず、思わず吹き出してしまう。

そんな彼の様子に彼女はまたむくれ、ぷりぷりと怒りだす。


『もう、知らない!コウちゃんのバカッ!!』


言い放つと、クルッと後ろを向いて台所の方に入っていってしまう。

さすがにやり過ぎたと思い、謝るため靴を脱ぎ、自身も台所に入っていく。

彼が入ってきた事に気づいた彼女は、また膨れっ面を作り拗ねたような口調で怒る。


『ふ~んだ!せっかく今日はコウちゃんの大好物作って待ってたのに。こんなイジワルするならコウちゃんの分はありませんっ!お腹を空かせて寝ちゃえばいいのですっ!ベーッだ!』


ぷりぷり怒りながら、いきなりアッカンベーをしてきた。

彼はまた吹き出しそうになり、なんとか我慢する。口許に手を当て、一つ咳払いをすると謝りながら彼女に近づいていく。


『ごめんごめん。あんまり可愛かったから、つい笑っちゃったんだよ。怒るなよ~。許して、カナ。お願いっ!』


目の前まで行くと、おどけた調子で手を合わせ許してもらおうとする。悪気はないのだから、これで機嫌を直してほしいという思いもあった。片目だけを開け確認する。

しかし、彼女はまだ唇を尖らせたままだ。


『むぅ~。そんなんで許すと思ったら大間違いなんですからねっ!許して欲しいなら条件がありますっ!聞いてくれないともう一生許してあげませんっ!!』


言いきると、また膨れっ面をして横を向いてしまう。

意外に怒っていたのだと分かり、少し驚く。しかし顔に出すと、今度は本当に怒らせてしまいそうなので、努めて冷静な表情を作る。そして、彼女にゆっくりと聞いてみた。


『…どうすればいいの?』


すると、彼女はいきなり彼の耳許まで顔を寄せ、さっきの声とはうって変わった甘い声で囁く。


『じゃあキスして』


その瞬間、彼の思考回路がショートした。




一夜明け卓也が目を覚ますと、隣で寝ていた夏奈子の姿がない。もう起きているのだろうか。上体を起こし部屋の中を確認するが、姿は見えない。

彼はすぐに探すのを諦め、ベッドの上に寝転がる。頭の中に浮かぶのは、昨夜のやり取りばかり。思わず、口角がつり上がる。


『可愛かったなぁ、カナ』


呟くとまた浮かんでは消える、昨夜の情事。ニヤニヤ笑いが止まらない。

そんな彼の思考を遮るように、突然携帯のアラームが寝室に響く。ビクッとして携帯を手に取る。

朝の七時三十分、もう起きる時間だ。彼は顔をしかめる。


『面倒くさいなぁ。会社行きたくないなぁ。休んじゃおっかなぁ』


ぐうたらとベッドに寝転がりながら、怠惰な事を考えてしまう。

そんな彼の思考を読んでいたように、今度はメールの着信が入る。起き上がり、開いてみると彼女からだ。


「昨日は楽しかったね♪ワタシも寝られなかったしさ…。それより、もう起きた~?起きなきゃダメだぞっ!会社サボろうとか考えちゃダメだからねっ!サボったら嫌いになっちゃうぞっ!…ウソだよ~ん♪でも、ホントに起きなきゃダメだよ。遅刻しちゃうぞっ!」


送られてきた文面を見て、また彼はニヤニヤと笑みを浮かべる。

愛されていると実感する瞬間だ。彼を気遣う彼女の気持ちが、メールの端々から見て取れる。しかし彼は、またベッドの上でゴロンと横になってしまう。どうやら彼女のメールに従う気はないらしい。


『だって面倒くさいんだも~ん。風邪ひいたって言えばいいんだし~』


誰に言い訳しているのかは知らないが、はなから会社に行く気がないようだ。

なおもゴロゴロと寝転がりながら、メールへの返信を考える事に思考を移動させる。


『う~ん。まず最初はありがとうから入って、愛してるは入れた方がいいよな。え~と、それから~』


ガサガサッ!


まるで、その思考を邪魔するかのように大きな音が台所からした。少しビクッとなり、そちらに目をやる。

見た途端、彼は身を強ばらせた。そこには、見たこともない程大きなネズミが、シンクの下に置いてあるビニール袋をいじくっているではないか。


『うわぁっ!!』


思わず叫び声をあげ、ベッドから飛び退く。


ゴンッ!


『いてっ!?くぅっ』


その勢いで、彼は後ろの壁にしたたかに頭をぶつけ悶絶する。しばらくベッドの上で、後頭部を押さえ動く事が出来ない。痛みのあまり、目に涙が浮かんできた。

頭の痛みに耐えていると、不意にカサカサッという軽い音と同時に、何かが走り去っていく音が聞こえてくる。おそらく、あのネズミだろう。

涙目のまま台所の方を確認すると、やはり巨大なネズミは姿を消していた。その場には、倒れたビニール袋から散らばったネズミ罠しか残っていない。

まだ痛む頭を押さえながら、彼はこれが天罰というやつだろうか、と思う。そして怠惰な考えをしてしまった事を、早くも後悔しだす。


『あ~、もう何か分かんないけど普通に会社行ってればよかった。カナの言うこと聞いて~』


頭を抱えながら、時計を確認すると起きてからおよそ十分程しか経っていない。

渋々といった様子で、彼は立ち上がると会社に行く準備を始める。

行くと決めたら速いもので、手早く準備を終えるとさっさと部屋を出ていこうとする。

その時、ふと台所に転がっているネズミ罠が彼の目に入ってきた。

後頭部がズキッとうずき、思わず頭に手を当てる。突然、彼の脳裏に今しがた見た巨大なネズミと、昨日の朝見たネズミの姿が浮かんで消えた。

その瞬間、彼は台所に向かい、ネズミ罠を手に取る。少し思案した後、思い切って封を開け米びつの前に置く。それを見て立ち上がり、軽く頷くと台所を後にする。

そして、彼は会社に向かうため部屋を出ていった。




その日の会社終わり、卓也は早足に自宅アパートまで向かっていた。衝動的に仕掛けてしまったネズミ罠を確認するためだ。

部屋を出た時は、捕れていればいいし捕れなくても構わない、と思っていた。それが会社に着き、先輩に今朝の出来事を話している内に風向きが変わってきた。話を聞いていた先輩は、浮かない表情で彼にこう言った。


『お前、それかなりマズイぞ。ネズミは一匹ならまだいいけど、お前の話だと二匹だろ?しかも聞いてるとサイズ的に親ネズミと子ネズミじゃん。それって繁殖してるって事じゃねえの?ネズミって繁殖力半端じゃねえから、その二匹以外にもっといると思うぞ。そんな罠一つ仕掛けたくらいじゃダメなんじゃねえの?』


その言葉に、彼は少なからず戦慄した。大量のネズミが、米びつの中でうごめいている姿を想像してしまったからだ。

そこからは気もそぞろで仕事に全く身が入らない。一匹でも多く捕っていかないと、という思考に時間が経つ事に変わっていく。終業時間になる頃には、彼の頭の中はネズミのことで一杯になっていた。とりあえず今朝仕掛けた罠を確認し、捕れていなければ業者に頼もうと考えていた。

一刻も早く確認したいという思いからか、自然と彼の足が早くなる。

ネズミの事を考え、黙々と歩く。すると、あっという間にアパートの前まで着いてしまった。彼はつと顔を上げ自宅の窓を確認し、おやっと首を傾げる。

電気が点いていない。

彼女は部屋にいないのだろうか。いつもなら、彼女の方が先に帰ってきているはずである。


『今日は遅いのかな?』


口に出して、もう一度首を傾げた。しかし、すぐに思い直し自宅へと歩を進める。玄関前までたどり着き、ノブに手を掛けたところで、またまた彼は首を傾げる。

鍵が掛かっていない。

出掛けにきちんと施錠をしたはずなのに。


(まさか、泥棒!?)


そこで彼は、この日二度目の戦慄を覚える。もし泥棒が入っていたとしたら、彼女と鉢合わせした可能性はないだろうか?だとしたら、電気が点いていなかったのも説明がつく。

一度思ってしまうと、もうそうとしか思えなくなり、いてもたっても居られなくなる。

その時点で、頭の中はネズミの事から彼女を救う事に完全にシフトしていた。


『カナが危ない。助けなきゃ!』


意を決したように、ノブに手を掛け一気に扉を開ける。

ゆっくりと視線を漂わせ室内を観察しようとするが、薄暗くてよく見えない。

彼は視線だけは前に向け、手探りで玄関の灯りを点けようとする。だが、中々スイッチを見つけることが出来ない。前傾姿勢で尚も前の壁を調べようとした時、段差に足を取られ前のめりに倒れそうになる。


『おっ!?』


咄嗟に両手を出し、顔から落ちる事だけは防いだ。思わず、大きな声が出てしまい片手で口を抑える。冷や汗が一滴、額を流れていく。

まだ泥棒が部屋の中にいるかもしれない、その緊張感が彼を支配していた。

そんな中、彼の前方で何かが動く音がした。

さっとそちらに目をやる。すると薄闇の中、スラッと伸びた足が二本スッと現れた。

彼は、すぐにそれが彼女の足であると気づく。すぐに声をかけようとして口を開きかけ、何故か躊躇する。

どこか様子がおかしい、そう思った瞬間、彼は強い力で上に持ち上げられていた。足が空をかく。

驚き、声も出せずにいると今度は急に下に降ろされた。そして、前方に強く引っ張られる。何とか抵抗しようと体に力を入れるが、びくともしない。それどころか力を入れた瞬間、強く締め付けられ息をすることが出来なくなってしまう。

段々と彼の頭がボーッとしてきた。手足に力が入らなくなり、まるで糸の切れた人形のような状態になる。無抵抗のまま、また前方に引きずられていく。

その時、ボンヤリとした彼の頭の中に彼女の声が聞こえたような気がした。


『か、カナ?』


名前を呼んだ瞬間、薄ボンヤリとした視界が急にハッキリとする。

少し締め付けが緩まったのだろうか。息が出来るようになった。とたんに体の拘束が全て解かれ、床に落とされる。

ゲホゲホと咳き込みながら、視線を前に移す。すると彼の目の前に、髪を振り乱した彼女の姿が目に入ってきた。明らかに様子がおかしい。声を掛けようとして、またも躊躇する。彼がそうしている内に、機先を制し彼女が話し始める。


『…コウちゃん。これ何?』


感情のこもっていない口調で言いながら、彼女は手に持った何かを投げて寄越した。薄暗い室内にドサッという音が響き、投げられた物が彼の足元に転がってくる。

目を細め足元を確かめると、それは黒っぽい塊であった。


『何これ?』


思わず呟くと、彼女が激昂する。


『それはこっちが聞いてんのよっ!!』


今まで聞いた事もない荒々しい口調に、彼は面喰らう。

何も言えずただ黙っていると、またも彼女が口を開く。


『分かんないの?じゃあ教えてあげるよ。それはね私の髪の毛!コウちゃんの仕掛けた罠に引っ掛かった私の髪の毛だよっ!!』


最後の方は感情が爆発し、絶叫に近い声音になっている。

そんな彼女の様子に、彼は戸惑いを隠せない。怒りに顔を歪めた彼女と、床に転がる髪の毛を交互に見る。どうにも状況が呑み込めない。

なぜ彼女の髪の毛がネズミ罠についているのか?台所で転んでしまったのだろうか?

色々なことを考えている内に、彼女が今度は静かな声で話し出す。


『許せない。許すわけにはいかない。コウちゃんには罪を償ってもらわなくちゃね。そうだ、そうしよう。それで決まりだわ』


まるでうわ言のように、一人でぶつぶつと呟いている。もうその目は彼の方を向いておらず、どこか虚空を見つめている。

気まずい沈黙が場を支配していく。

これではいけないと意を決して話し掛けようとした時、突然口を何かにふさがれた。

驚き、咄嗟に手で払いのけようとする。だが、手を動かす事が出来ない。どんなに力を入れてもビクともしない。

助けを求めようと彼女の方を見やり、更に驚く。彼女の長い髪が風もないのにゆらゆらと揺らめき、まるで意志があるかのようにうごめいているではないか。

目をみはり、彼女を凝視する。

その視線に気づいた彼女が限界まで口角を上げ、彼に笑いかける。

次の瞬間、意志を持った髪の毛がいっぺんに覆い被さってきた。彼の視界が一気に真っ暗になる。

全身を髪の毛に包み込まれ、身動き一つとれない。またも、彼の意識が遠くなる。おぼろ気な意識の片隅で、最後に彼が聞いたのは彼女の声であった。


『ごめんね、コウちゃん。でも、おいしく食べてあげるから。恨まないでね』


そこで、彼の意識は完全に闇に呑み込まれ、戻ってくることはなかった。


『おいしかったよ。ごちそうさま。コウちゃん』




~完~

最後までお読み頂き、ありがとうございました。

今回は題名にもなっている「二口女」の説明をしたいと思います。私の記憶にある話を紹介します。


ある村に独り身の男がおり、お嫁さんを求めておりました。そこに、大変気立ても器量も良い人が嫁いできます。夫婦仲はとてもよく、しばらくは幸せな日々が続きます。

しかし、旦那さんには不思議な事が一つありました。それは、奥さんが旦那さんの前では全くご飯を食べないということです。

不審に思った旦那さんはある時、屋根裏に隠れ奥さんの行動を観察する事にします。すると旦那さんが見ている事に気付かず、奥さんはおひつを開け炊いてあるご飯をバクバクと食べ始めるのです。

しかし、それは顔についている口ではありません。頭の後ろに大きな口があり、自由に動く髪の毛で、器用にご飯を丸めながら、後ろの口で食べていくのです。

旦那さんは恐ろしくなり、自宅から逃げ出します。すると、奥さんが追ってきて旦那さんを大きい桶に詰め、さらおうとします。それを、旦那さんが持っていたお札で助かる。

というような話だったと思います。

今回、執筆したお話は前述の話をモチーフにしたものです。

ただ今回は、ラストが食べられて終わりなのでバッドエンドですが。

今回は女性の豹変についても書いてみたかったので、最後の所はよく書けていると思います。あくまで私見ですが。

今後も、不定期ではありますが執筆はしていきたいと思いますので、楽しみにしていて下さい。

それでは。


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