第一章
「おーい、ハル? 聞こえていますかぁー?」
「……っ…………」
声が聞こえる。
人様が心地よい昼寝タイムを満喫しているのに……誰だよ。
「むぅー、反応しないなぁ……もう、はよ起きんとお母さんがぁー、そのはなびらに人口呼吸しちゃうぞぉー?」
小悪魔っぽく語尾を上げる明るい声。
こいつは……。
「んっ――何だよ、華凜」
「もー何だ、じゃないわよ! これから会議よ?」
俺は肩をグラグラされると、ふと華凜の身体を見渡す。
枝毛の無い滑らかな赤髪からは胸を刺激するような香りが漂う。メリハリのある身体付きで多分、女なら誰でも憧れそうなプロポーションをしているこいつは『三浦華凜』県立南大和高校一年だ。
「ちっ……いいだろ少しくらい」
「はぁ? あんた社長でしょ? シャキッとしなさいよ!」
「……!?」
背中を叩かれる。華凜が言う通り、俺は《Peace alive》の社長だ。
――《Peace alive》は俺を含め六人。
鷺ノ宮グループに所属し株は百パーセント《鷺ノ宮 源一郎》つまり、あの日俺達を助けてくれたおっちゃんが所持している。
主な業務は小説コミュニティーサイトの運営。ユーザーから依頼された小説、特にライトノベルをフィードバックし、将来ライトノベル作家になりたい人が比較的早くデビューできるようにサポートすることを事業の柱として活動している。
儲けは広告収入と、良作を鷺ノ宮グループの出版社に売り込むことでの手数料収入を理想としているが、書籍化された作品は無いので広告収入に限られている。
ちなみに、華凜は《副社長》だ。学校でも生徒会《副会長》を務めているので、申し訳ない気もするが。
「んが!? ――ってめ、何つう破壊力だよ、二の腕太くなったんじゃねーか?」
「なっ……ふっ――太くなってないわよ! もぅ、ハルのイジワルぅー!」
「って! だから叩くんじゃねーよ。俺の脳細胞が死んだらどうする」
「ふんっ! お股蹴り上げなかっただけいいでしょ? ハルのバカ」
「結構酷いこと考えているな……ちっ。そんな事言ってると婚期遅れるぞ?」
「こっ――あっ、あたしはハルの……」
と内股をムチムチ擦らせながらじっと見つめられる。
「そんなコテコテな演技するな。俺は華凜と結婚する気なんて無い」
俺にはもっと大切にしたい人がいる。今はドアの向こうで作業しているが……。
「――うん、ごめん、ハル」
「いや、そんな覚めあがった顔で見るな――気が散る」
「そんなことより、早く会議を始めません?」
「雪乃さん……」
冷ややかな声に聴衆が集中する。
――鷺ノ宮雪乃。私立鷺ノ宮学園中等部三年。
おっちゃんの孫で社会勉強も兼ねてビジネスに参加してもらっている。名は身体を表すように、冷酷な雰囲気を醸し出す雪乃はデスクに敷かれている書類と睨めっこしている。
腰まで伸びるきめ細やかな黒髪は日本古来の雅さで支配し、吐き捨てるような口ぶりは拒絶感が滲み出ているのは気がかりだ。しかし、物怖じしない交渉力はピカイチで企業訪問の際には同行してもらっている。もう少し愛想よければ完璧なのだが。
「私はあなた達の痴話喧嘩に付き合っている時間は無いわ。これからおじい様に渡す資料の作成もあるし議事録も書かないといけないわ、お判り?」
「ああ……雪乃には色々と助かっている」
「感謝されることはしてないわ。ただ、おじい様に命じられてここに居るだけ。他意は無いわ」
と青縁眼鏡を、くいっ、と上げ作業に戻る。
「そうか」
「それと、私を名前で呼ばないで下さい。穢れます」
と言い捨てた雪乃は背筋を垂直にし、先月発表された《Win●ows》シリーズのノートパソコンに打ち込む。
「もー《ゆきのん》のこと放って話進めようぜっ! ハルルン♪」
「………………」
「おー……すすめよう、すすめよう!」
「その《ゆきのん》って呼び方やめてあげろよ、雪乃が困っているだろ」
「えーいいじゃんいいじゃん。ねぇー、リスリスぅー」
とぴょんぴょこしているのは《前川せきな》市立東大和中学二年。
華凜や雪乃と比べて物足りない身長ではあるが、引き締まった顔は年相応の幼さを醸し出し、すらっとした身体のラインは機敏さが出ている。根から先までに色付いた茶髪はサイドポニーでまとめられ、動く度パンパン跳ねる癖っ毛はせきな的にポイント高いらしい。
気になる点、って言うか、時計なんて見ないくせに腕時計を付けている。確か華凜がプレゼントした物で凄く大切にし、寝ている時でさえ外していないらしい。
「おー、リスリスりょーかいしましたぁー」
「んで、リスリスってなんだよ。アリスのあだ名か?」
「うんっ! この偉大なるせきりん様が試行錯誤の上で考えたんだよん!」
自分でじぶんのことを《せきりん》とか呼ぶのはどうかと思うが。
「ほぅ、レビュー依頼溜まっていたけど、どうだ?」
「うーんっ……たしかーハルルンの机にあったのは読んで、リンリンのチェック待ちー」
「相変わらず仕事は早いな」
「おうよ! 仕事と女を落とすのは朝飯前だぜぇーハルルンっ♪」
「要らんこと言うな」
脳天チョップ。
「――アベしっ……!? 痛いよー、うー」
むー、と頭を抱える。
こんなふざけた言動しているが、こいつは《瞬間記憶力》を持つ。大雑把に言えば、一度見たことを忘れないらしく、いつでも引き出して読み返すと言う常人には不可能なことをやってのける奴だ。まったく、人間よう判らん。
「痛くしたんだから当然だろ?」
「むぅー、手加減してくれてもいいじゃん、ハルルンの鬼っ! 鬼畜っ! 淫乱!」
「ほほーう、淫乱とは聞き捨てられないな……」
「うへっ、ハルルン目こえー。リスリス助けてぇー」
「おー、がってんしょうち!」
とせきなの前でトーセンボしているのは《アリス》東文ヶ岡小学校三年。
青い瞳、ふわふわ銀髪、お人形さん体型。まるで不思議の国から飛び出してきたかのようなアリスは、桜色のひらひらが印象的なワンピースを身に纏う。
「ふっ……今日も似合ってるな。せきながチョイスしたのか?」
アリスの背中に隠れるせきなに問いかける。
サイドポニーがピョッコリ出ているが……。
「そっ……そだよぉ……」
「ほぅ……結構似合ってるじゃないか。アリス、ほらこっちおいで」
「おー、アリス、いくぅー」
「あー! リスリスの裏切り者ぉ―」
とてくてく覚束ない足取りで近づいてくる。
アリス――本名は判らないが便宜上《南》性を名乗っている。
会社を立ち上げて三日後、スーツケースと《アリスをよろしくお願いします》と素っ気ないデジタル文字で書かれた手紙を首にかけて、会社の前に座っていた所を保護した。
未だに素性不明だが、俺はもう一人の妹、として大切に育てている。
「――よしよし。アリスはいうこと聞いてえらいぞ」
「おー、アリス、えらい?」
「そうだぞ。あんなチンチクリンのいうことを訊いちゃだめだ」
「こらーっ! 誰がチンチクリンだー! ハルルンのロリコン!」
「誰がロリコンだ! これはアリスの親代わりとして行っている行為で法に触れていない。無罪だ」
「ほうほう。被告人はこう言っているが原告のリンリン!」
「――えっ? いきなり何よ」
せきなの矛先が華凜に向けられる。華凜は座ってスマートフォンに打ち込んでいたらしく、呆気を取られた感じだ。学校から連絡でも有ったのだろうか。
「もう! リンリン反応遅い。これじゃあ《The漫才》で優勝できないよ」
「あたしはそんな漫才大会に出る気も無いわよ。それより、いい加減座りなさいよね、もぅ! 言い出しっぺがうるさくして全く」
「……そんなガミガミいうこと無いじゃん。そんなんだと《お母さん》じゃなくて《お婆さん》になっちゃうぞー」
にししー、と笑うせきな。
こんなせきなと同居している華凜には敬服する。
「うぅー、せきなとあたし……三つしか変わらないのに……」
「そう落ち込むなって、な?」
「なんかハルに慰められるとムカつくけどありがとう。そういうところ、変わらないね」
「……うっせい」
何を基準に変わらないと評価しているかは判らないが、気恥ずかしかった。
ドンチャン騒ぎの中、会議は短針が六に差し掛かった所で終わり、各々が活動する。
華凜は後片付け。雪乃は手帳を参考にホワイトボードへ来週の予定を書き込む。
「ほんじゃーリスリス、仕事始めようぜぇー」
「おー。はじめよう、はじめよう!」
せきなとアリスはユーザーの投稿作品を読むため別室へ移動する。
学校も有ったというのに、元気な奴らだ。
「さて……俺はと」
重い腰を上げて給湯室へ向かう。
華凜にあれの在り処を尋ねないと……。
「よう。捗っているか?」
「うーん、ぼちぼちかな」
給湯室では案の定華凜が皿洗いしている。
そもそもオフィスを前提としているためキッチンは無い。大変狭くて申し訳ないが、ここで調理はここで行ってもらっている。
「いつものだよね、ハル」
「あぁ……助かる」
端的なやり取りの後、華凜はスポンジの手で冷蔵庫を指す。
俺は最近では類を見ないタイプの扉を引きオムライスを取り出す。
「そういえば、ケッチャプ余ってる?」
「あぁ、一人分なら大丈夫だ」
「先週買ってきたばかりなのにね。たくー、せきなが使いすぎなのよ」
「あいつは使うっていうか、描く、って感じだけどな」
オムライスをレンジに入れて温める。
そういや、やけにクオリティ高かったのが印象強い。たしか、『見てみてハルルン♪ 咲ちゃんチョー可愛くねぇ!?』とか言ってエロゲーのヒロイン描いてたな。中学生がエロゲーやっている時点で考え物だが。
「ふふっ、そうね」
「そういや、せきなは家でエロゲーとかするのか?」
「それ、あたしに訊く?」
「いやせきなと同居してるし、中学生に『おーい、エロゲーしてるかー?』なんて訊けないだろ」
アリスを世話するようになってから、せきなは華凜の家で暮らしている。とは言っても、目の前のアパートなので、離れている感じはしない。
「それはそうだけど……一応、去年まで中学生だったんだけどなぁー」
「ん? 何か言ったか?」
「いや別にー。うーん、パソコンいじっている所は見るけど画面まではね」
華凜なりに気を遣っているのだろう。
せきなも親元から離れている訳だし、少し位自由な時間が有っても良いだろう。
「そうか。別に止めはしないがほどほどにな」
「それじゃああたしがしているみたいじゃない。まぁ、学校に影響しない程度だったら見過ごしてあげるつもりだよ」
ピー……ピー……
温め終了のアラームが鳴り渡る。
さて、そろそろだな。
「……よしっ。じゃあ後はよろしくな」
「うん。ハルもね」
俺はおぼんにスプーン、ケチャップ、オムライスを載せて部屋を出る。
廊下は奇妙な静かで満ちていて、先ほどまでの騒がしさを忘れてしまいそうだ。
そして、海香の部屋の扉を開ける。
どうせノックしたって返事してこないだろう。
「……海香。夕食持ってきたぞ」
部屋に入る。
電気スタンドで机だけが照らされている空間。
カーテンも閉め切っており、独創的な暗闇が海香を包み込んでいた。
「…………」
カチャカチャカチャ……、とキーボードを叩く音だけが響く。
俺は微かな光を頼りに食事を置く。
「おーい。海香さん?」
「…………にぃに?」
無機質な声がそっと鼓膜を揺らす。
南 海香――俺の妹にして、唯一の家族。学校には通っていない。年齢は華凜と変わらないが、幼い頃満足のいく栄養を取らせてもらえなかった事が関係して、せきなより一回り小さい身体付きだ。
「――やっと気が付いたか。飯持ってきたぞ」
「……うん。ありがと」
海香はパソコンをスリープモードにして椅子を寄せる。すると、幼い頃から変わらないツインテールの穂先が鼻をくすぐる。ふっ……良い匂いだ。甘酸っぱい苺のショートケーキのような香りが細胞を直接刺激し、飯食ったばかりなのに食欲が増す。
「ケチャップはどうする。俺がかけるか?」
「……任せる」
「おう、任された」
ケチャップの蓋を取り、適当に線を描く。
海香はじっと行方を追う。
俺のおさがりTシャツしか身に着けていない海香が前かがみになると、鎖骨のラインが見えてしまう。
「……海香。また下着付けてないのか」
「……うん。にぃにとしか……会わないから」
「んま、そうだけどさ。付けないと形崩れるぞ」
「……そこまでない……にぃにのえっち」
「おいおい。何で俺が言われないといけないんだよ」
「……妹の胸……興味ない?」
「――ノーコメントで」
「……にぃに……照れ屋さん」
繋がっているようで繋がっていない会話を繰り返す。これでも回復した方だ。
牢獄から逃げた直後は抜け殻のようだった。それでも一年間入院して、俺の助け有りで生活できるようになった。だが、人に対する恐怖心は深く残り、俺以外とは会話しようとしない。何とかしたいと思うが、海香が受けてきた数々の酷い仕打ちを考えると、遠慮してしまう俺がいる。
「ほら、いただきますは」
「……その前に……いつもの」
刹那、海香の唇と俺の唇が重なる。
「……あっ……んんん……んんっ……にぃに……」
柔らかな唇が染み透っていく……。
離れていた数時間が寂しかったのか、貪るような舌が絡み合い俺の理性を支配する。
――妹とキス……こんなの普通じゃない。
止めないと――と思った時には心が海香に支配されていた。
「……っ……んは……海香ぁ……」
「……んっ……んん……ちゅぱ……んん」
粘膜が複雑に絡み合い、舌がぶつかり合うたびに快感を得る。
やばい……このままだと、兄妹で絶対にしていけない行為まで……
「……ゴクリっ……」
「……んん……にぃに……にぃに……」
俺は細い身体を両手で支える。
柔らかい……いつまでも揉んでいたくなる心地よさだ。
「……にぃに……んん……にぃに……ずっと……んんん……いっしょ……っ……!」
「……ああ……一緒だ……!」
「……んんん……ちゅ……ちゅっ……にぃに……!!」
なぜ、俺の名を呼ぶのか。
根本的な疑問で隠した猛獣を圧しとめる。
――これ以上されたら……もうぅ……。
そんな言葉が脳内を支配しようとした時、口内の温もりが離れて行く。
「……はぁ……はぁ……はぁ……」
満足したのか、リンクは解かれ対面する。
両肩で息をする海香の目は垂れ、キスの凄まじさを表していた。
「……にっに……ありがと」
「あっ、あ……」
鈍い言葉で返す。
これで何回目だろうか。
数えきれないほどのキスを経験からの胸の熱さ、そして血縁関係の妹との行為。
二律背反な気持ちが晴れることは無かった。
海香が夕食を食べ終わったのを確認して、本来の目的である《会議》のことについて話し合う。会議中も決定事項などは随時《Sk●pe》で送信しているが、バーチャルな意見では信憑性にかける為時間を取っている。とは言っても、毎回質素な意見が返ってくるばかりだが。
「――取りあえず、伝えることは伝えた。どうだ、できそうか?」
「……うん。大丈夫」
カチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャ……カチャッ。
海香は目に止まらぬ速さでキーボードを叩き、決め手にエンターキーを押す。
ダイレクトタイムで要求したスペックを実現する姿は素直にヤバい。
「……確認して」
「おっ、おお」
俺は海香に肩を寄せ画面を見まわす。
海香に要求したのは、提出ボタンの追加。
小説投稿サイト《Peace alive》のメインである公募評価を受け付けるページだ。
従来は説明文の下に設置していたが中々数が伸びなかったため、上にもボタンを設置しようにということで、実行してもらった。まさか、ほんの数秒で出来るとは思っていなかったが。
「――大丈夫だ。流石だな」
「……こんなの……朝飯前」
「さっき飯食べただろ」
「……これは……一本取られた」
「ふっ……そうか。それじゃあ俺は戻る。一口残っているが良いのか?」
「……うん……お腹いっぱい」
「そうか。じゃあ、何か有ったら連絡しろよ」
「……うん。了解」
海香は軽く頷く。じっと見つめてくる姿はもう少しここに居たい気持ちにさせるが、俺にも仕事が有る。
「じゃあ。おやすみ」
「おやすみ。にぃに」
俺は海香が食べ終わった食器類をおぼんに戻し部屋を出る。
静かに閉めた扉は鍵をかけていないが重い雰囲気を感じる。
――拒絶。
その言葉が表象されている扉を後にする。
「――遅かったわね。ハル」
給湯室に戻るとパイプイスに座る華凜が居た。
エプロンを脱ぎ、セーラー服姿の華凜が神妙な趣で見上げてくる。
「……まるで待っていたみたいじゃないか」
俺は手に持ったトレイを僅かなスペースに置き、食器を水に浸ける。
「うん。ちょっと話したいことがあってね。少しいいかな?」
「ここでか?」
「そうだね。ミーティングルームだとせきなと鉢合わせしそうだから」
せきな……あいつの口の軽さは稲妻級だしな。
「判った。そんで要件は?」
「海香ちゃんのこと」
コンマ数秒で返される。
タイムリーな事で背筋が凍る。
なぜ、今海香のことを?
不可解な論展開に思考が鈍くなる。
「あたしね……このままだといけないと思うの。海香ちゃんずっと部屋に籠ったままでしょ? 上手く言葉で言えないけど……駄目な気がする」
考えて物を言っている感じが伝わってくる。目線を下に向け股の間で両手を握りしめる姿は何か隠しているようではっきりしない。
華凜の理屈は何となく想像がつく。
海香は必要最低限しか外に出ない。飯は自室、会議は欠席、デスクトップパソコンと向き合う毎日。そして、異常な俺への執着。世間で言えば、普通じゃない――そう思われるのは当然だ。
「――華凜の言っていることは間違って無いと思う……でもな、俺は海香には海香の生きたいようにさせてやりたいと考えている」
それが間違っている、と指摘されても。自由で居られなかった分、海香が求めることは全て答えたい。
「そう……そうよね」
「ああ、いつか海香もみんなと一緒に活動できればいいが……まだ早いと思う」
華凜達を信頼していない訳ではない、むしろ信頼している。同じ空間を共有して、少しずつ社会性を身につければ会社としても良い方向へ導けると思う。でも、海香を苦しませるようなこと、俺には出来ない。
「……少し考えさせてくれないか。今ここで頷くことはできない」
「うん、判った。でももしあたしの力が必要になったら言ってよね。ちゃんと協力するから」
「ああ……いつも悪いな」
「そう謙遜しなくていいよ。あたしはハルの為にならどんな事だって頑張れる。ちょっとオーバーかな」
えへへ、と舌を出しながら照れ笑う華凜。普段はえっちぃお母さんみたいに振る舞っているので、年相応の反応が素直に可愛い、と思えた。
「いや、俺的にはバッチグーだ」
「バッチグー、て……ハル親父臭い」
「親父臭くねぇーよ。割とポピュラーに使うだろ?」
「いやいや、使わないからね」
「そうか……ナウでポップなセリフだと思ったんだが」
「無駄にカタカタ言葉を使う所もあれだと思うけど……」
いまどきの女子高生は手厳しい。
「もうっ、そんな調子で大丈夫なの? 朝一から営業でしょ?」
「ああ、そうだな。一応おっちゃんに会ってくるつもりだ。ちょっと呼び出しされてな」
「ふーん。雪乃さんと二人で?」
「そりゃ仕事だからな」
「むぅー、二人きりだからって変な事してきちゃ駄目だからね」
「しっ……しねーよ! 大体雪乃相手に無理だろ、不可能だろ」
「じゃあ雪乃さん以外なら粗相しちゃうの?」
「はぁ? なぜそうなる」
「たとえば、あたしは? ほらほら、ここもー食べ頃に育っていますよー」
華凜は胸の下で腕を組む。心なしか華凜の豊満な果実が下から押し上げられ、見事な谷間が作り出されている。……なっ……いつの間にこんなに大きく。しかも、ちょっとブラの線見えているし。
「……見えてるぞ」
「うふっ、み・せ・て・る・の♪」
銀座のお姉さんのごとく甘ったるい声で誘惑してくる姿に身体が熱帯びる。一般男子なら反り立つあれも戦闘態勢を着々と済ます。……やめろ……俺には……俺には……。
「ふっ、そんな嫌そうな顔しないでよ。何だかあたしが悪者みたいじゃない」
鼻で笑った華凜は背筋を正して真顔に戻す。
豪く馬鹿にされているような感じが気に障るが。
「……なぁ!? お前っ……」
「なーにー? もしかして本気にしちゃった?」
「うっ、うっせえ……」
「子供みたいな反応して可愛い。お母さん、抱っこしてあげようか?」
「……お前、年下だろ。大体俺はお前なんかに……」
「そう意地張らないでよー。これこそ冗談だよ、ふふふ」
「ちっ……紛らわしい」
俺は入口の柱に手をかける。これ以上居たら気がしれぬ。
「じゃあ、俺は部屋に戻るからちゃんと鍵かけて帰れよ」
「はーい。ハルも体調整えて明日に備えてね。なんてったって、ハルは《Peace alive》の大黒柱なんだから、しっかりしなさいよね♪」
「おぅ! ありがとな」
俺は背中を華凜に向けて手を振り部屋へ向かう。
机とベッドとビジネス書が質素にならぶ部屋に入り、スーツにファ●リーズをかける。
「ふっ……綺麗だ」
これも華凜がやってくれたのだろうか。おっちゃんから初めて貰ったダークスーツは破れも無く保存されていて、新品のような肌触りは気持ちいい。
そして、俺は軽く風呂に入って早めに寝た。
翌日、俺は雪乃を連れて横浜まで来ている。
土曜日という事もあって至る所にグループで来ている人が多く、おっちゃんが居る本社ビルまでの道は混み合っていた。
「うっ……なんか暑いな」
「そうね」
と雪乃は相変わらずの冷たい声で返事をする。この人数でも顔色変えない所は流石の貫録がある。目線を合わせることなくリズミカルにヒールの音を鳴らしながら目的地へ向かう姿は、まさに《秘書》って感じだ。
清潔感と機能性を両立したスーツを着こなしていて《C●RTIER》の腕時計と手帳を照らし合わせている。会社ではストレートな黒髪も後ろでまとめられていて、大人っぽさ八割増しって感じだ。
「なぁー雪乃。その着ているの脱いでワイシャツになったらどうだ? 結構涼しいぞ」
「……いえ、大丈夫です。お気になさらず」
他人行儀な言い方に少し距離感を覚えるが、ここで指摘してもしょうがないだろう。
首都高速道路のガード下をくぐり、見上げるほど高いビルの隙間を歩き続ける。この辺りにある会社はほぼ鷺ノ宮グループと関連しているらしく、おっちゃんがどれだけ凄いのかが頷ける。
「それにしても凄いよな……ここらへんのビル、おっちゃんが所有しているんだろ?」
「そうなるわね」
「俺も何度か歩いたけど未だにスケールのでかさに圧倒されるよ」
「それは良かったですね。それより、そろそろ本社に着くので謹んで下さい。あなたは何かと目立つ存在なので」
雪乃は分厚い手帳を閉じポーチの中にしまう。心なしかしゃきっとした目を見るとこいつの真面目さがレベルアップしている気がする。
「やっぱ……俺って目立つか」
「ええ。義務教育もまともに受けていないあなたが、おじい様から経営学を学んでいる時点で異例です。更に、おじい様の出資で会社を経営しているという事で悪く思われている方も多いです」
「そうだよな……」
おっちゃんみたいな経営者になると『出資してほしい』と尋ねる人が多いということは聞いたことが有る。でも、大半はおっちゃんに会う前に追い返されるらしいので、俺がどれだけ異例なのかを理解せざるを得ない。本当に、俺は良い人と出会ったと思う。
「ですので、ここに居る限りは私の目の届く範囲で行動して下さい。いつスキャンダルに巻き込まれてもおかしくありませんから」
「そうか……色々悪いな」
「……別にあなたの為にしている訳ではないので――着きました」
「おっ、おう」
鷺ノ宮グループ本社ビルはもう何もかもが違った。
周りのビルと比べ物にならないほどの高さはあのランドマークタワーと大差無く、首を痛めるほど見上げないと頂上が見えない。入口の慌ただしさも異様で、常に数十人が出入りしている状況が繰り広げられている。まるで俺の会社が蟻のようだ。
「――私は受付を済ませてきます。あなたはロビーで待っていて下さい」
「判った」
「くれぐれも移動しないようにして下さい」
「……判った」
念入りに注意された俺は中へ入る。
視線に広がるタイル貼りの空間は僅かな光にでも反射し、受付には四、五人の列が出来ていた。雪乃に指示されたロビーには同じような姿のビジネスマンが待機している。
「…………凄いなぁ……」
異様な威圧感が身体をぞっとさせる
辺りを見渡すと手帳やタブレット端末で確認している人や、隅の方で連絡を取っている人が居て慌ただしさが伝わってくる。その人達と比べて、俺は何もすることが出来す、じっと雪乃の帰りを待った。
「――おやおや。これはこれは春風さんではないですか」
不意に、耳障りな声が近づいてくる。
ブランド物のスーツを身に纏う、整った顔つきの男。
「……ご無沙汰しています……梶谷さん」
梶谷 雄之助――カリフォルニア大学経営学部在学中で、今注目されている経済人としてメディアで盛んに取り扱われている人物で、俺の二つ上だ。
またか……。
研修中、何度か一緒になった事も関係して会うたびにいちゃもん付けてくるので、はっきり言って関わりたく無い人物である。
「そんな畏まらないでいいですよって。僕と春風さんとの仲じゃないですか」
いや、お前と仲良くなった覚え無いし。敬語使っているのもお前との距離を付ける為だし。
「はは……それより今日はどのような用事で?」
――何て言える訳ないので、愛想笑いしてさっさと話しを逸らす。
たくっ……早く戻ってこい――いや、戻ってきてくださいお願いします。
「ふっ、今日は幸次郎社長からの直々の招待でお食事に参加する為帰国したのさ。どうだい? 似合っているだろ?」
と格好つける雄之助。
幸次郎社長――確か、雪乃の父親だよな。
おっちゃんの後継者として、現在の鷺ノ宮グループをやりくりしていて業界誌やテレビ番組などでちょくちょく顔を出している所を目にする。ちなみに、雄之助は社長の弟子として近辺をうろついているらしい。
「梶谷さんが着たらなんでも似合いますよ。それより時間大丈夫ですか?」
「お? 確かにそろそろ社長がいらっしゃる頃ですね――では、またの機会に」
「……そうですね。またの機会に」
出来れば一生会いたくないが。
俺は雄之助の後ろ姿が見えなくなった所を見計らってほっと一息。
「……たく、敬語は疲れる」
おっちゃんに経営学を教えてもらうついでに一般教養も学んだが、やはり敬語は違和感がある。今まで全く縁の無い言葉だったし、面倒くさい言い回しなど覚えるだけで頭いっぱいで、いざ使う時に出てこない。そう考えると、難しい敬語をすらすら言う雪乃は尊敬に値する。
「――受付済ませたわ。行きましょ」
「……おう、判った」
俺は操られるがままに雪乃の指示に従ってエレベーターホールへ向かった。
おっちゃんが居る六十五階はとにかく雰囲気が違った。
一階より暗めに設定された照明は圧迫感を醸し出し立っているだけでギシギシと神経が磨り減る。慣れない物は慣れない、というのは、こういうことだと思う。
「いらっしゃいませ。春風様、雪乃様」
「ご丁寧にありがとうございます」
ぺこり、と綺麗に四十五度のお辞儀をされ、雪乃が言葉を添えお辞儀する。俺も反射的に腰が曲がる。
「受付の者から伺っております。こちらへどうぞ」
案内されるがまま、おっちゃんの秘書《佳代子さん》の斜め後ろを歩く。いかにも高級感溢れる扉の前まで来ると今まで《おっちゃん》と気軽に言っていたことを申し訳なく感じる。落ち着け……初めてじゃないだろ。
ふと、雪乃の姿を視界に入れる。そこには先ほどと何の変わりも無くじっと前を見つめていた。どうして平常でいられるのかが不思議だ。
コン、コン、コン……。
秘書が規則正しくノックする。よぼよぼした声が室内から聞こえ、秘書が要件を伝える。
「……では、どうぞ」
「ありがとうございます」
会釈して、室内に入る。バッと広がった空間には値段を訊くのも恐れ多いソファーや机が配置されている。
「ふぉふぉふぉっ! きおったな」
「……いえ、その……」
「そう気張るでない。いつものようにちゃらんぽらんに来い」
「あはは……では」
深呼吸をする。すー……、よしっ!
「よっす! おっちゃん」
俺は普段の口調を意識して話す。それでもぎこちない感じがヒシヒシと胸に来るが、緊張も解れてきたので問題無いだろう。
「それでこそ我が弟子じゃ! 雪乃も気楽にせい、そんな堅苦しい表情だと男もよってこんぞい」
「……私は男なんかに興味ありません。それより、おじい様。今日はどのようなご用件でしょうか」
「もう少し世間話でもしようと思ったのじゃが、雪乃がそう言うなら仕方がないのぉー……ほれっ、座れい」
俺達は奥の方のソファーに案内される。一応お客様扱いされているらしい。そして、おっちゃんの秘書が煎れたお茶が置かれると早速話が始まる。
「とりあえず、今回呼び出したのは《海香ちゃん》のことじゃ」
「海香?」
意外だ。普段なら今月の売り上げ目標やマネジメント状況の確認や、競合他社の情報など、比較的ビジネスに関係することばかりだから。
「そうじゃ。あれからもう三年は経つ頃じゃ。容体はどうじゃ?」
「容体……」
隣に雪乃が居るので赤裸々に話したく無いのが本心だが、相手はおっちゃん。海香を苦しみから解放してくれた恩人だ。それに、いつかはみんなにも言うつもりだ。雪乃なら黙ってくれるだろう。
「……あの、おじい様。少し席を外してもよろしいでしょうか?」
「えっ?」
雪乃からの言葉に思わず奇声が出る。
雪乃?
「ふぉふぉ、どうした雪乃。体調でも悪いのか?」
「いえ。ただ、私にとって関係性の薄いお話みたいなので。一通り終わりましたらお申しつけ下さい。外に居るので」
「……そうかい。わかった。佳代子」
「はい。雪乃様、こちらへ」
雪乃は席を立って会釈する。軽く俺の方を向いていた気がするが……。
「雪乃……」
「ふっ……また後ほど」
鼻で笑われた。扉の奥に消えたことを確認したおっちゃんは再び俺と向き合う。
「雪乃にはまだ早い話だったみたいじゃのー」
「……そ……そっすね。それで海香の話って……?」
「そうじゃの……とりあえず状況を報告してもらえないかのぉー」
「はい……」
俺は海香の様子について話す。部屋から出てこないこと、他のメンバーと話そうとしないことなど、言葉で説明できる範囲で言った。そして、華凜が俺達の関係について問題視していることも話した。おっちゃんは頷きながら聞いている。
――何を考えているのだろうか。
疑問に思いながら話は終わりを迎える。
「――以上です。」
「そうかい。やはり、予想通りだったわい」
「予想通りって?」
「いやのう。組織たるもの規律を守らん者の居場所が無くなることは良くあることじゃ。春風は海香ちゃんを特別視しとるじゃろ?」
「特別……俺はみんなと平等に接している……つもりだ」
「つもり? はて、お主の話からだと少々過保護に聞こえたのじゃが」
「…………」
痛い所を付かれる。俺のやることの中心は海香だ。会社を立ち上げた理由だって、少しでも海香に幸せに生きてもらいたい、という信念からだ。ただ、華凜達を軽視していた訳ではなく、ちゃんと向き合ってきた。もし、昨日華凜にあんなこと言われなければ、おっちゃんのことを否定できたのに、今の俺には何にも言えない。
「ふぉふぉふぉ! そんな怖い顔するでない。わしは組織運営のプロじゃ。成りたての組織に軋轢は必然じゃ」
「それで……俺は……」
俺は細い声で問い返す。
そうだよな……組織で活動している以上、誰かを特別視したら不満に思う人も出てくるだろうし、相手が妹だとしても平等に接するべきだ。それに、このままだと、結ばれてはいけない者同士が取り返しのつかないことになりかねない。
キス――そうだ、まだ引き返せる。今なら……今なら……。
「とりあえず、トレーニングでもしてみたらどうじゃ?」
「トレーニング?」
「そうじゃ。とりあえず、近くのコンビニで買い物できるようにしてみるのはどうじゃ? 最初から六人で食事は難しいじゃろ? まずは外に出る事で人に対する免疫をつけてからがええ」
「でも、何でコンビニ? それなら公園で散歩とかの方が気持ち的に効果ありそうな気がするが」
「海香ちゃんも公園へ行って喜ぶ年じゃないじゃろ。コンビニの方がスーパーに比べて変化が大きく脳を活性化させるのじゃ。それにのー、最近は防犯面でも進化しておって、もしもの時に対処がしやすいのじゃ」
「ほう……」
たしかに、最近のコンビニは月単位でキャンペーンの入れ替りや、週ごとに割引品が変化している。それに至る所に防犯カメラが設置してあるため、海香の身を守りやすい。距離的にも徒歩圏内だし、大丈夫そうだ。
「どうじゃ? わしの提案は」
「現実的だし、華凜や海香に相談してみます」
「ふぉふぉ、そうかい。役にったってなによりじゃ」
「いや、おっちゃんにはいつも助かってるよ。それじゃあ雪乃も待たせているのでこれで」
「そうじゃのぉー、雪乃にも宜しく行っておいてくれの」
俺は立ち上がって、最敬礼をする。どこからか観察していたのか、タイミングよく佳代子さんが傍に。指示にしたがって扉の前まで歩く。
「……それでは、失礼します」
「ふぉふぉふぉっ! また近いうちに」
「ええ。では」
再び最敬礼して外に出る。
「――随分遅かったじゃない」
出た先には壁に寄り掛かって手帳を確認している雪乃が待っていた。
「少し突っ込んだ話をな。詳しくは会社に戻ってから話す」
「そう。わかったわ」
「あぁ。この後の予定は?」
「ええ。十五時から《K●DOKAWA》様との商談です」
「そっか。わかった」
俺は駆け足に返事する。あの大手ノーベルを複数掛け持つ大会社との商談に向けてスイッチを切り替える。
――今は目の前に集中。
エレベーターへ乗り込み、降りて直ぐに横浜駅へ向かう。電車の中で雪乃が作成した資料を確認しつつ俺達は《飯田橋》へ向かった。