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プロローグ



「……にぃに……にぃに……」



 それは、嵐が酷く吹き荒れる夜だった。

 ランタンの灯が微かに燃える岩屋が小刻みに揺れる。

 閉じ込められてどれくらいの時が経っただろうか。

「……っ……ん……!」

 僅かな突起に足を掛け、壁をじ登る。

 最近、まともに食べていないことも関係して、スムーズに行かない。

「……にっ……にぃに……」

「くっ……待ってろ! 今……」

 俺は使い古した衣類を繋ぎ合わせた紐を、海香の胸元へ投げる。

 これを逃したらチャンスは無い

「…………にぃに……どこ?」

 這いつくばる海香。

 何の目的で動いているのか……?

 理解に苦しむほど紐から遠ざかる。

「……っ……」

 目を避けたくなる状況に舌を噛みしめる。

 海香は……俺の大切な妹、たった一人の家族。

 俺が守ってやらないで誰が守る。

「くそっ……海香……気づいていないのか……!?」

「……にぃに……ねぇ…………どこ……?」

「……っ……いいからつかまれよぉ!?!?――あいつらに、殺されるぞ……!!」

 タイムリミットが近い。直感だ。

 支給されたTシャツ姿は弱々しい。

 いつ動かなくなってもおかしくない、極限状態が続く。

「これも全て――ちっ……あいつら…………」

 不意に、憎き奴らの姿が脳裏をかすめる。

 父親は会社を首になり、酒に溺れ、最後は家族に消えない傷を付け力尽き、母親は俺と海香に愛想を尽かしたのか、捨てるように逃げた。

 路頭に迷った俺達は微かな記憶を頼りに叔父を訪ねた結果《人間》としての尊厳を消され《奴隷》としてこの《牢獄》に閉じ込められた。特に海香は《肉奴隷》として毎晩呼び出され、生臭い白い液体を身に纏った状態で戻される日々が続いた。

「…………にぃに……どこ……?」

「上だ……上にいる」

「……にぃに……にぃに……」

「ちっ……無理か」

 俺は海香の限界を悟る。

「くっ……待ってろ……!」

 壁を駆け下り、壊れそうな海香の腰と俺の背中を縛り合わせる。

「……っ…………よしっ……いくぞ……!」

「……にぃに」

「ぐっ……いっ…………」

 身体が引っ張られるような感覚が俺を蝕む。

 骨が抜け落ちそうな痛みが身体を引き裂き、ようやく窓枠に腰を下ろした頃には鶏皮の腕は鬱血していた。

「んっ……しょっ…………っ……」

 窓枠に戻った俺は息を整え背中の紐を解く。

 じっと見つめる海香の瞳は俺を認識しているのかいないのか、酷く蔑んでいた。

「海香……これで、助かるからな」

「……にぃに……?」

 不思議そうに見つめる海香の右手を握る。

「んっ……、んんっ……!」

 俺は嵐で強度が低下した鍵を半年間放置して固くしたパンで強く叩く。乾燥したパンは想像以上の威力を発揮し、ものの数発で留め具が緩くなる。

「――くっ……よしっ、海香」

「……にぃ……」

 ブフォーーーー、と追い風が厳しい中、流されまいと唇を噛みしめる。

「……んんっ! 不味い……くっ……」

 くそっ……前が……前がぁ……。

「……に……ぃ……」

 今にも息絶えそうな声…………ここで死なせる訳にはいかねぇ……



「くっ、うおぉぉぉぉぉぉーーーーーーーーー! いっけぇーーーーーーーーー」



 今ある力を全て足に集中。海香を抱きかかえ窓を飛び出した。



 それからのことはあまり覚えてない。

 俺と海香は永遠に続くような山地を駆け抜ける。血豆が潰れる足は舌を噛み砕くほど痛み、雨水が溜まっていれば枯れるまで舐め続け、食えそうな虫がいれば二人で分かち合った。ただ、栄養失調で食が細い海香は食べても食べても戻してしまう。

 もう長く無い。

 考えたくも無いことまで想像してしまうことが怖かった。



――三日が経っただろうか。

 山道を抜け小集落に出た俺達は、開店前の店に背中を預け、ふと目を閉じる。

 これ以上は動けない、もう無理だ。そのような言葉が脳内を張り巡った矢先。

「……お主ら……よかったらわしの朝食に付きあってくれないかのぉー」

「……っ……誰だ……お前」

 特徴的な髭のおじいさんが見下ろしている。

 誰を見つめているのか判らないほど細い目にしわ顔……ちっ、何が目的だ?

「……ふぉふぉふぉっ! わしは偶然通りかかった、ただの老人じゃよ」

「……その老人が、俺らに何の用だ」

――敵か味方か?

 脅える気力さえ失せた海香を胸で抱える。

「……にぃに……」

「……海香……大丈夫だ」

 枝毛とシラミが絡まる青髪を撫でる。冷え切った身体は震えることも無く胸の中に納まっていた。

「ふぉふぉふぉ! そんなに警戒するで無い、安心せい。危害を加える力なんぞこの細い二の腕に残っておらんのじゃ」

「……それがどうした……まさか、海香が目当てか……貴様もあいつらと同じか……」

「おやおや、早とちりするでない。わしは未熟な果実は育てる主義でのぉー、お主らの寂しそうな瞳を放っておけないのじゃよ」

「…………」

「とりあえず朝食にでも付き合ってくれないかのぉー? 一人は寂しいものじゃ」

 皮の余った腕が目の前に差し出される。

 なんだろう……もの凄く温かさそうだ。

 あいつ等からは感じなかった温もりが空気を仲介して指先に伝わる。

 ふっ……そうか、俺達、やっと……。

「……ふっ……ほら……」

 俺は垂れ下がった右手を空に掲げる。

 掴んだその手は予想通りの温かさで、何だろう……とても懐かしい。

 それは、忘れかけた《人間》としての感覚が身に染みた瞬間だった。






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