楓
午後3時だというのに空には鉛のように重たく薄暗い雲が広がっている。北国の冬空に楓は初めのうちは戸惑った。東京の空は冷えてこそいたが、青い空が天高く広がり空気もキリッと乾いて引き締まっていた。まるで洗濯物、と楓は中学校からの帰り道に冷たい風に震えながらも楽しんでいた。それに比べたら、と楓は鉛色の空に目を向ける。淀んで沈み込んだ雲、湿って弛んだ空気、恐ろしく短い時間にしか顔を見せない太陽、何もかもが異なる北国の空を楓は引っ越して来た当初から好きになれなかった。
英会話教室、ダンススタジオ、ドーナツ店が入った雑居ビルから出て楓は駅の東口の通りを歩く。早足で下ばかりを見て黙々と歩き続けた。顔を上げても友達に会えないことを楓は知っている。赤や白で塗られた幾何学模様のタイルが並んでいる地面を見ながら楓は歩き続ける。
新幹線の高架橋と並列に歩いていると街道が横に伸びる交差点が見えてくる。ここの交差点で信号を待っていると新幹線が颯爽と楓の横を走り去っていく。東京に向かう新幹線だ、と楓は直感で思う。理由はないが何となく東京行きだと楓は思っていた。
-あれに乗って戻るんだ-
楓は新幹線を見るたびに東京を思い出す。洗濯物のような空、窮屈ながらも優し気な洋楽がかかっていた居心地のいいカフェ、裏路地の猫、そこにいる自分を想像すると楓の心は少しだけ軽くなる。
白い車体の上を紫色で塗られた新幹線は滑らかに速度を上げて、一直線に楓の今いる場所を去って行った。楓は一人、交差点で新幹線が見えなくなるまでその場に立っていた。北国特有の湿って土臭い風が楓を現実の世界に連れ戻すまで。
交差点を左に折れて街道に入る。街道といっても開発の遅れた幅の狭い道路で自動車は滅多に通らない。静かで落ち着いた空気のするこの道を楓は気に入っていた。街道を道なりに歩くと左に喫茶店が見えてくる。四角く真っ白い直方体みたいな建物で扉の上に筆記体で「lapin」と店名がある。扉の隣にある小窓から楓は何回か店内の様子を伺ったことがある。少し暗い店内に若い男性が一人、ノートに何かを書き込んでいたり、数人の大学生風の女子がお話しているのを見た。若者のお店、という印象しかその時には抱かなかった。
今日も四角い小窓から楓はちらりと店の中を見てみる。いつかの男の人がノートに何を書いていた。パーマをかけた黒髪、浅葱色のニットのカーディガンを着ていた。が、じっくりは見ずにそのまま楓は喫茶店の角を左に曲がる。
左に曲がり3つ目の建物に楓は入っていく。三階建てのアパート-可愛らしい灰色に塗られたこじんまりとした雰囲気はなかなかだと楓は思っている-の201の部屋の鍵を開ける。狭い廊下を歩き自分の部屋に入るとお気に入りの白い厚手のマフラーをハンガーにかける。マフラーを取ると首元がひんやりする。思ったより首元が汗ばんでいたのでタオルで拭き取る。
-東京と違うのね-
北国の冬だからか、と心の中で自分を納得させると楓はベッドに仰向けになった。
母親とこの街に移り住みひと月近く経った。父親と離婚した母は楓を引き取り、故郷で暮らし始めた。実家に最初、母は楓を連れて行こうとした。
しかし楓は猛反対した。夜な夜な母と言い争った。目を真っ赤に涙で腫らして楓は必死に訴えた。そのため母は急遽、この街にアパートを決めた。
-これ以上東京から離れたくない-
それが楓が反対した最大の理由だった。友達も、お気に入りのカフェも、裏路地の猫も全部が楓から遠くなっていくことにもう耐えられなかったのだ。
-そっちの都合ばかりじゃなくて、こっちの都合も考えてよ!!-
この言葉は母と諍いした時に楓が発見した言葉だった。この諍い以降も楓はこの言葉を母によく使うようになった。私とあなたは違うのよ、この言葉を口から出すときに楓は心の中でいつも呟いた。
この場所での生活は楓にとって平和な毎日だった。平和過ぎる、楓はいつも心の中で繰り返す。北国の人は冷たい、これが楓の思っていた想像だった。実際には、しかしここの人たちはとても親切で気遣いのある温かな雰囲気があることを知り、少しだけ自分を恥じた。クラスでも楓は歓迎された。初めて会う女子たちと話しながら、どこか垢抜けないまだ幼い顔をしてる、と心で思いながらも楓は学校の生活にそれなりの満足感をもっていた。
転校生は思ったよりも仕事が多い、と楓は初めて知った。まずクラスの生徒の顔と名前を一致させることに思ったよりも時間を使った。楓の通う中学校の女子生徒はみな律儀にスカートの丈をひざ下で揃えて、後ろで一つ結びをしている。
-保守的-
そんな言葉が自然と頭に思い浮かぶ。伝統と表現するほどの重々しさが無く、流行と表現するには軽すぎる。決められたことを固く守る、そこに疑問を感じない。そんな雰囲気に楓は戸惑いながらも楓はようやくクラスの女子全員の顔と名前を当てはめられるようになった。
次にすることは人間関係の把握だ。これはどの世界の女子も重要だと楓は思う。うっかり地雷を踏まないようにする身の振る舞い方も大事だ。トイレや休憩時間の教室、登下校で楓は色々な情報を仕入れて優先順位をつけていく。これは思ったよりも簡単だった。純朴で円満な人間関係に初めは驚いたものの、厄介な腫物が無いことは確かだった。東京のようにキャラを作り演じることは少なくて済みそうだと楓は気楽な反面、どこかで物足りなさも感じた。
それから買い物の場所、流行、人気のある男子、授業やテスト、先輩や進学先、ありとあらゆる情報を仕入れた。知ることは不安を和らげると楓はこの頃から知るようになった。
学校での振る舞い方を身に付けると次の興味は学校の外に広がっていく。休日や帰り道に楓はいろいろな道を通った。ちょうど駅前の通りは再開発の真っ最中であらゆる場所で迂回路が設けられている。
楓の住む街は駅から東に県道が伸びている。片側2車線の道路を毎日、多くの自動車やバス、タクシーが行き来する主要道路だ。県道を進むと街道と交わる大きな交差点に出る。この交差点から東西、南北に多くの店舗やビジネスホテルが連なって駅前よりも賑わっている。地元の学生やカップル、家族の他にも他県から訪れた観光客がスマートフォンを手にして左に、右に、行ったりしている。外国人も少なくないので、あちらこちらで色々な言葉が聞こえてくる。
楓は休日にこの交差点へよく足を運ぶ。地元のCMを流すビルの電光掲示板、海外ブランドのコートを着こなすマネキンたち、何に集まっているかよく分からない行列、リュックを背負い何やら話しているどこかのアジアの国の男たち、お揃いの制服-あまり可愛くなかったが-で横一列に歩く邪魔な高校生たち、手すりにもたれ掛かって声をかけられるのを待つ若い女性、キャリーバッグを颯爽と転がすサラリーマン、付き合い始めて周りを気にしている中学生のカップル…。
懐かしい匂い-と楓は思う。いろいろな目的の人がごっちゃごちゃに動き回り、でもそれぞれが明確な意思をもって正確に行動している。雑踏が街を覆い一つの生き物のようにうごめている。人が行き交うたびに街全体が呼吸をしているようだった。街の吐き出す匂い、東京に近い匂い、ここの場所は楓が大好きな匂いがした。
楓が興味をもった場所はもう一つあった。英会話教室だ。東京では週に3回、電車で高円寺の英会話教室に通っていた。小学校入学前から通っていたこともあり、今では字幕がなくても洋画を理解できたし洋楽も滑らかに口ずさむまでできていた。
ただ、楓自身は英語が好きでも何でもなかった。楓が英語を学習し始めたきっかけは母親だった。語学留学を学生時代に経験した母親は楓が幼い頃から熱心に英語を教えていた。ボブ・ディランがよく部屋に流れていたことも楓は覚えている。小学校入学前の楓に英会話教室に通うよう強く勧めたのも母親だった。
-英語が出来れば、これから先がとても楽しくなるわ-
これが母親の信念で、幼い頃から事あるごとにこの言葉を楓は聞いていた。
ただ今の楓には英会話教室に通いたい理由には、母親の要望以外に別の理由があった。ここでないどこかに、少しの時間でもいいから行きたかった。
知らない土地、知らない人たち、知らない方言、知らない風景。ここに来てから自分を常に「知らない人」だと思う人たちや自分が楓にはたまらなく嫌だった。親の都合-それも勝手な都合で-で望まない場所に住むことになった楓は何も知らない世界に放り出された。
-知らないことは恐怖だ-
ベッドに潜って恐ろしい気持ちになった。自分を肯定する存在が何もないことは、自分がこの世にいないに等しいとも思うようになった。
-少しでもいいから、何か自分の知っているものに触れたい-
と信仰にも似た気持ちをもつようになった。何も知らないこの世界から少しでも距離をとりたい楓は続けていた英会話教室を探すことにした。
-英語だったら長く続けているし、万国共通だし、自分も知っているから-
身に付けた習慣は新たな環境で不安になっている自分を支えてくれる。楓はベッドの中で得意げににっこりと笑う。それに東京で暮らしていた時の習慣を続けることは、楓と東京との距離が少し近づけてくれる。そう考えるとここでの生活も少しは楽しいと楓は感じるようになった。
教室は学校からの帰り道に偶々、見つけた。ダンススタジオやドーナツ店の入る雑居ビルの三階-今日も楓は教室に通っていた-にある小さな部屋の中だった。若い女性講師がほとんど一人で経営、指導していた。すぐに楓はその英会話教室に入会した。毎週火曜と木曜のわずか二回だったが、教室で英語を学んでいる時だけここにいることを忘れることができた。
楓はベッドからゆっくり起き上がる。どれだけ横になっていたのだろうか、と真っ暗になった部屋をまだ眠たげな頭で考える。枕の下に腕を入れて、隠していた煙草を取り出し火を点ける。部屋の窓を開けると、青白く頼りげない煙が勢いよく夜の闇に飲み込まれていく。
日が暮れていたが楓は部屋の電気も点けず、暗闇の中で煙を吸って遠くを見ている。街の向こう、うっすらと紺色をした小さな山々が広がっている。その山の向こう、東京を楓は見つめていた。
-私のいる場所はここではない-
東京と自分を隔てる黒い山々をじっと睨む。雨の混じり始めた凍えそうなぐらい冷たく悲しい風に煙を吐き出した。
-いつか帰るんだ、あっちに-
短くなった煙草を灰皿に押し付けて窓を閉める。急に体が冷え込み、楓は身震いした。部屋の電気をつけてエアコンを強に設定する。小さく唸りエアコンは埃臭い生暖かい風を吐き出した。
ベッドに戻ると英会話教室の講師から借りていた本を広げて読み始めた。痩せこけた漁師の老人が一人、海の上で魚と戦うアメリカの小説だった。
-「I'm sure what today…。I do…anyway every day is new…」-
本の中の老人が海に漕ぎ出す様子を想像する。細い腕ながらも日に焼けた腕には武骨さを感じた。諦めないように自分に言い聞かせて老人はたった一人で海に出ていく。今日こそは新しい日だと信じて。
風は雨を勢いよく窓に叩きつけていた。叩きつけられた窓は寒さに震えるようにガタガタと音を出していた。エアコンは気怠い音を立てて風を吐き出し続けている。
-anyway every day is new-
そんな日が自分にもいつか来てくれるだろうか。冷たく寂しい場所に連れて来られた自分にも。静かな海面に眩しい光を叩きつけて昇る太陽みたいに私にもその日が来るかしら。
-It will be abandoned to luck…-
老人は、それでも自分を信じて漁を続けていた。ひたむきに、じっと海の中に揺らぐ網を見て。
-Luck looking at you-
楓は心の中で老人を励ます。老人を励ますと不思議と自分を励ました感覚がした。何もいない海の上に自分を信じてひたむきに生きる姿がどこか自分に似ている、と楓は老人が好きになった。
-I'm sure everything is OK-
そっと老人の背中に呟く。窓の外には北国の冬が騒がしい風を吹き出して近づいていた。そんなことも気にならないぐらい楓は老人を優し気に見つめている。
-I'm sure everything is OK-
もう一度、今度は自分に呟く。
-大丈夫、きっと、うまくいくわ-
温かくなった部屋の中で少し眠くなりながら、楓は続きを読み始めた。