A-017 魔法解禁
注射は薬剤を直接体内に投与する方法であり、飲み薬や塗り薬に比べて効果が出始めるまでの時間が短く、吸収課程で成分が変質しないといった特徴を持つ。
好んで受けに行く人はいないと思うが、子供の頃に予防接種などでお世話になった人も多いだろう。
「さて、人間用の注射器が出来たわけだが……」
先日、魔物と対戦した時、矢に仕込んだ麻痺薬がすさまじい速度で効果を発揮したのを見てからマジックポーションを自分に注射してみようと思っていたのだ。
ただし、矢に付けられた針はかなり太かったためにそのまま試すわけにはいかず、街に戻ってから鍛冶屋を訪ねてグリッドさんに大急ぎで作ってもらった次第である。
完成品を受け取った僕は自分の部屋に戻ると、早速、マジックポーションを取り出して腕の血管に注射してみる。
それから三十秒後、精霊の森に入った時と同じく不思議な感覚が全身を駆け巡り、正体不明の全能感が僕を満たした。
【ライト】
自分の記憶にある中で最も危険度の低そうな魔法の行使を試みると、手の平にテニスで使うボールくらいの大きさの光の球が現れた。
実験は成功。周囲に魔力が満ちていない空間でも、発動に最低限必要な量の魔力を得ることの出来る環境が整った瞬間だった。
光の加護を持っていたことについてはある程度予想していたので驚きはない。
気がかりなのは注射器の衛生状態に若干の不安が残ることだが、僕の体内には本来医療デバイスとして開発されたNGEが循環しているはずなので多少の雑菌が入ったとしても問題はないだろう。
とにかく、これでいざ戦闘になった時の不安はほとんど解決したに等しい。
むしろ戦闘能力が大幅に底上げされるはずなので、純粋な戦力として活躍できるようになるのかもしれない。
──そう思っていた時期が僕にもありました。
「うっ……」
精霊の森から出た時と同じ感覚、典型的な魔力切れの症状だった。
全身を襲う強力な倦怠感に加えて吐き気や眩暈、頭痛、熱まである気がする。
前回はマジックポーションを飲んでもなんともなかったのだが、これは単純に流れ出る魔力量が多いか少ないかの問題だろう。
高低差のある川ほど水の流れが速くなるように、注射により急激に上昇した僕の魔力は薬の効果が切れると同時にすさまじい勢いで失われていくことになる。
体力が低下すると抵抗力が弱まって様々な病気にかかりやすくなるのと同じで、魔力の低下が引き起こすのは魔法抵抗力の損失である。
その影響は心因性の病気に始まり、呪いなど心身に直接影響を及ぼす魔法の効果を防ぎ難くなるといった効果まで発生するのだ。
「はぁ……はぁ……、これはちょっと…………まずいかな……」
魔力切れの症状は慣れてしまえば緩和されるとエリクシールは言っていたが、現状ではとても戦闘行為を継続できるとは思えない。
そもそも、先の理由で体内の魔力量が低下するということは心身に重大な危険が迫っていると認識されるのである。
つまり魔力切れの症状は身体の防衛機構の一つであり、体に傷ができたことを知らせる痛覚と同じなので本来は慣れるべきではない。
ただし、こと戦闘に関しては痛みを無視して行動できたほうが有利に働く場面が色々と存在するのも事実だ。いわゆる痛覚遮断というやつである。
「ふぅ」
ふらつきながらもマジックポーションを注射して症状を緩和する。
どうやら制限時間は注射一回につき三分が限度といったところか。
ポーションは一本につき五十ミリリットル入りなので、持ち運びが現実的な量で上手くやりくりすれば三十分から一時間程度は維持できる計算だ。
だが今はそんなことよりもいかにこの依存状態から脱出するかを考えるのが先決だ。 とりあえず注射するポーションの濃度を薄めていくと同時に、普通に口からポーションを飲む方法も試しておく。
時間をかけて緩やかに回復する特徴を活かして症状を緩和するためだ。
精霊の森とは違い、周囲の魔力が段階的に変化していっているわけではないので魔力が失われる量が大きく症状の強さが桁違いに激しい。
飲み薬として使用したポーションの効果が出るまで注射を続けざるを得ないだろう。
「なんというか、すごく危ない薬にみえるなぁ……」
摂取すると謎の全能感(魔力の回復)に包まれ、効果が切れると禁断症状(魔力切れ)を引き起こすが、再度摂取することによりその症状は緩和される。
依存性があるのかは分からないが、魔法が使えるようなるという効果そのものがすでにあれだ。どこからどうみても麻薬である。いや、魔薬と表現すべきか?
効果が切れてきたのでさらにポーションを追加しようと注射器を手に取る。
案外、薬が完全に抜けきるまでの依存性の高さはトップクラスかもしれない。
「しっかし、針はもう少し細いものが欲しかったんだけれど」
これでも町で一、二を争う腕前なのだと豪語していたグリッドさんに特注した一品なのだが、いかんせん、彼の扱う武器や防具には金属の細かい加工が必要になる機会が少ないらしく、僕の慣れ親しんだ注射器と比べると若干の違いが生じてしまっていた。
具体的に言うと、針の太さが献血に使うレベルには太いのである。
まぁ、試し撃ちした矢に搭載されていた針は指ほどの直径があったのでこれでも十分に実用可能な太さではあるのだが、やはり刺すときに痛いものは痛い。
「無理に細くして折れると嫌だし、我慢するしかないかな」
そんなことを呟きながら本日三本目になるマジックポーションの投与を行う。
だが、僕にとっては当たり前なその動作も、彼女には違った印象を与えたようで。
「ルートさん、すごい音が聞こえましたがどうかしたん……」
先程魔力が切れかけた時に立てた物音を聞きつけたのか、部屋にやってきたルルは扉を開けるとそのまま固まってしまった。
視線は僕の右腕、詳しくは注射器の針が刺さった部分へと向けられている。
見れば彼女の耳と尻尾は毛を逆立てて真上に伸びており、すぐにでも僕に飛び掛かって来れそうな臨戦態勢の様を呈していた。
「な……、なにしてるんですか! 早く正気に!」
新しいポーションの実験中に頭がおかしくなったとでも思われたのだろうか。
そういえば、混乱の効果を引き起こす薬草を採って来ていたような気がする。
念のために言っておくと、こちらの世界に注射の概念など存在しない。
傷の治療なら回復魔法があるのだし、病気には飲み薬で対処するのが一般的だ。
だから医療行為の中に体を傷つける工程が入るなどありえないし、もし体を切り開いて手術なんてしようものなら悪魔の所業といわれること請け合いである。
つまり、彼女からしてみれば腕に刺さっているのが針なのかナイフなのかは大した違いではないわけで、そう考えると彼女の動揺も当然なものだと納得できる。
そりゃそうだよね。知り合いが腕に刃物とか突き刺してたら普通あせるもの。
「よし、まずは落ち着こう。僕はいたって正常だ」
「そんなわけないじゃないですか!」
まずいな、話が通じない。どちらが混乱状態なんだか……。
だからといって前提知識もなしに注射について説明するのは時間が掛かる。
今にも飛び掛かってきそうなルルを納得させるには時間が足りなさそうだ。
こうなっては仕方ない。百聞は一見にしかずということでわかってもらおう。
「ごめんなさいっ! 少し痛いですが我慢してくださいね!」
アニマの特性である素早い動きを活かして距離を詰めてくるルルに対して……。
「それはこちらのセリフというか。その、ごめんね」
【スパークウェブ】
ポーションを打つために前に伸ばしていた右手をそのままに雷撃を放つ。
もちろん威力は抑えてあるし、追加効果である連鎖も発生させてはいない。
それでも予定通り見た目のインパクトだけは十分だったみたいで、先ほどまでの勢いはどこへやら、ルルは困惑した顔で視線をさまよわせていた。
「いまのは魔法……ですか?」
「どうみても魔法ですね」
「で、でも。ルートさんが魔法を使っているところなんて見たことが……」
「魔法を使うために必要なのがこれなんだよね」
そう言って未だに腕に刺さったままの注射器に視線を移す。
「もしかしてルートさん、混乱していたわけではなかったり?」
「言ったでしょう。僕はいたって正常だと」
「あわわわ、ごめんなさい。でも、この惨状を見たら誰だって勘違いするのも仕方ないと思います!」
「惨状……?」
ルルに指摘されて初めて気が付いたのだが、落ち着いて周りを見てみれば止血を怠ったために血痕がいくつかできており、部屋の様子がどう考えても普通ではなかった。
魔法が使えるようになってテンションが上がっていたことに加え、その後は魔力切れのせいでそれどころじゃなかったからだ。
「これはその、いたって正常というには無理がある……かな?」
「あたりまえじゃないですか!」
「と、とりあえず正常ではないかもしれないけど、異常というわけでもないから!」
「ルートさんがそう言うならそうかもしれないですけど」
「わかった、後でゆっくり説明するから。ルルはお店の準備に戻ってもらえる?」
「わかりました。これ以上変なことはしないで下さいね」
「善処するよ……」
ルルが一階に帰ったのを確認すると再び注射器を取り出してポーションを投与する。
これで四本目。まだ重い風邪をひいたような感覚が残るが、辛うじて行動できる程度に回復はしてきた。あと一本あればそれなりに動けるようになるだろう。
合計で五本、時間にして約十五分間は魔法を使うにしても普通に行動するにしても中途半端な状態になってしまうということが分かった。
デメリットが結構大きいので特に問題がなければ普通に弓で攻撃していたほうがいいのかもしれない。
「さて、魔力が残ってるうちに傷を治したりしておくか」
【ヒーリング】
初歩的な回復魔法を行使し、注射によって出来たの刺し傷の回復を試みる。
回復魔法は比較的魔力消費が大きいのが特徴だが、重要なのはイメージである。
引き起こす現象を正確に思い描けているほど消費魔力が減少するためだ。
怪我か自然治癒する過程を思い浮かべ、そのプロセスを加速させることによって瞬時に回復を行う。これが治癒魔法の基本的な動作原理だ。
余談だが、人体に干渉するという特性上、回復魔法の大部分が聖属性に分類される。
聖属性は自然属性に比べて魔力の消費がきわめて高く、使い手の才能に大きく依存するために需要に供給が追い付いていないのが現状で、各地で積極的に人材の発掘が行われているという話である。
ただし、単独で大怪我を治せるような使い手は滅多に現れないため、それなりに能力のある者達を治療院に集めて集団で運用するというのが現在主流のスタイルとのこと。
「最後にもう一回だけポーションを注射して傷を治せば完了っと」
回復魔法の注意点としては、回復魔法はあくまでも自然治癒を強化しているだけなので病気のように適切な処置を施して原因を取り除かなければならないケースに対しては効き目が薄いということである。
無論、一時的には症状の緩和が見込めるのだが、すぐに悪化してしまうので対処療法にしかならないという事例が多々存在している。
このあたり、錬金術士を名乗っている僕としては化学的な面からカッコよく解決したい気もするのだが、専用の設備もなしに実現するのはさすがに不可能に近い。
「ふむ。実戦での役割としてはヒールポーションの注射でなんちゃって回復要員、重傷者多数の場合には治療院の人達にマジックポーションを使って回復魔法の連続行使の補助に回るのが一番かな。問題は注射を見た時の皆の反応だけど……」
さっきのルルの反応を見るに、予め伝えておかないと絶対にややこしいことになる。
折を見てフレアさん達に話を通しておく必要があるだろう。討伐への参加を依頼された時から開発していた新しいポーションもあることだし、ルルへの説明も兼ねて明日にでも会いに行くのがいいかもしれない。
予定を立てたなら行動は迅速に、手早く部屋を掃除して早速準備に取り掛かった。
ちなみに、どうでもいいことだが服についた血液というのはなかなかに厄介なもので、うっかりお湯で洗ってしまうと逆に取れにくくなってしまうので注意が必要である。
「明日は久々にギルドに顔を出すとしますかね!」