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その翌日のことだった。
朝食を軽く済ませ、ヘレンの煎れたお茶を飲みながらゆったりと一時を過ごしていたアンジュの元に、ハルと呼ばれる宰相の男が訪れた。
まだ年若いその男は、肩の辺りで切り揃えられた紫に透ける美しい黒髪をさらりと後ろに流すと、すうと目を細める。
きりりと釣り上がった瞳、一瞬女性を思わせるような美しくも凛々しい容貌に、流れるような一連の動作は、男性だとわかっていても思わず見とれてしまうものがあった。
「綺麗な人ね…」
ほうと感嘆したように言葉を零すアンジュに、ハルが愛想の良い笑みを浮かべる。
すると今日も変わらずアンジュの膝の上いた仔狼が、珍しく不機嫌そうに視線をハルに向けていた。
「始めましてアンジュ様、私のことはハルとお呼び下さい。どうぞお見知り置きを」
「アンジュです。よろしくね、ハル」
ヘレン同様、手本のようなお辞儀をしてみせるハルに、アンジュもまた釣られたようにぺこりと頭を下げる。
互いに自己紹介を済ませ、他愛のない話などをしながら時間は穏やかに過ぎていったかと思われた。
けれど自分に向けられた視線に気がつき、ハルは小さくため息を吐くと、今度はその膝元に横たわる仔狼に視線を向けた。
「…全く、何をしていらっしゃるのかと思えば」
ぴくり、と耳を立たせる仔狼。
誰に聞こえるも無く呟かれた言葉は、人に比べるとずっと耳の良い仔狼にしか聞き取ることの出来ない程、小さなものである。
暫く続くかと思われた両者の無言の睨み合いも、先に逸らしたのはハルの方であった。
今だにこちらを睨んでいる仔狼を一瞥し、展開に置き去りにされていたアンジュをようやく視界に入れる。
戸惑ったようにハルと仔狼を交互に見つめるアンジュに、ふっと穏やかに微笑んで。
「それではアンジュ様、用件だけで申し訳ありませんが、そろそろ失礼させて頂きます」
「…ええ、今日はわざわざありがとう」
「いえ。本当はもう少しお話しさせて頂きたかったのですが…これ以上睨まれてはかないませんからね」
「…?」
不思議そうに首を傾げるアンジュに、ハルはどこか捕え所のない笑みを浮かべると、初めに来た時と同様、綺麗なお辞儀をしてみせる。
そのまま部屋を出ていくハルと、それを追い掛けるように後に続く仔狼という不思議な光景に、事情を知らないアンジュはますます首を傾げるばかり。
その真意をただ一人知っているヘレンだけが、くすくすと可笑しそうに口元を綻ばせていた。
「…ハル、一体何のつもりだ」
執務室に入り扉を閉めると、今まで耐えかねたように大きなため息が吐かれる。
続いた声は、今はここにいるはずのない、ロイドのものであった。
「貴方様こそ、あれはどういったおつもりですか。ロイド様」
ハルが僅かに片眉を上げて見せると、視線の先が、足元にいる仔狼の姿に向けられる。
今この部屋に、ハルと仔狼以外に存在する者は、誰一人といない。
ハルの言葉は、迷いも無く仔狼へと向けられたものであった。
「最近仕事の後お姿が見当たらないと思ったら…あれではまるで、愛玩動物のそれではありませんか」
「……お前には、関係ないだろう」
ロイドと呼ばれた仔狼は、些か居心地悪そうに視線を横にやる。
その言葉に、いいえと真っ先に反論したのはハルだった。
「良いですか、あなたは国王なのですよ?それがあのような情けないお姿…アラン様が生きておられたら、どう仰られるか…」
大袈裟に肩を落としてみせるハルを、ロイドはすうと目を細め、呆れたように見つめていた。
ハルは先代の王であったアランに身寄りのないところを引き取られてからというもの、ルドルフ家に生涯忠誠を誓った男の一人である。
周りの使用人よりもロイドと年も近いということもあり、幼い頃から世話係として配属されていたのだが、昔から何かと小煩い面があった。
今回の一連の行動も、最近仕事が終わるなり姿を消すロイドを不審に思ってのものだろう。
「それから、あのご様子だと…アンジュ様にまだご自身のことをお話になられていませんね?」
ふと気がついたように口にしたハルに、ロイドの耳がぴんと跳ねる。
あからさまなその様子に、ハルはやれやれといったように肩を竦めた。
「アンジュ様をここに連れていらっしゃった理由を、忘れたわけではないでしょうに」
「…まだ、その時期ではないんだ」
ぱたん、とロイドの尻尾が力無く揺れる。
しばらく小さな仔狼の姿をしげしげと眺めていたハルだったが、小さくため息をついて。
「そのお気持ちも、わからなくはありませんが…くれぐれも、今ご自分が置かれている状況だけはお忘れないようにくださいね」
「…ああ、わかっている」
「それから、女性とは繊細なものです。なるべく早い内に打ち明けてしまわれた方が身のためですよ」
…わかっている、と心ここに在らずといったように言葉を返すロイドに、ハルは少々呆れたように視線を下ろす。
けれどハルの目に映ったロイドの表情は、真剣そのもので。てっきりいつものように適当に返事をしているのだとばかり思っていたハルにとって、今のロイドの表情は意外だった。
思えば、先程アンジュの元を訪れた時もそうであった。
普段何にも執着した様子など見せないのに、彼女が自分に一瞬見取れたような様子を見せた途端あれだ。
顔をこれでもかと顰めて、明らかに不機嫌そうに自分を睨むロイドの表情を思い出すと、思わずくすりと笑みがこぼれてしまう。
国王としての立ち振る舞いとして、本当はロイドには言い足りないことが山ほどがあったけれど。
普段見ることのできない彼の姿を見たら、なんだか肩の力が抜けてしまった。
穏やかに微笑むハルの様子に、ロイドが不審そうに眉を潜める。
「……なんだ、いきなり笑い出して」
「いえ、たまには珍しいこともあるものだと思いまして」
もっともその理由を知ったら、目の前の主人が更に機嫌を損ねることをこの十数年でわかっているから、言わないけれど。
はあ?怪訝そうに顔を顰めるロイドに、ハルは口元に描かれた孤をますます深めるのだった。