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それからは他愛のない話などをして少しずつ互いの距離を縮めていたアンジュだったが、次にロイドに会った時に必ず伝えなくてはと思っていたことが、思考の片隅に浮かんだ。
それは昨晩、ロイドがアンジュに告げた切実なる願いへの答え。
陛下、とアンジュが呼んだその一瞬、ロイドの表情に影が差した。
けれどそれはすぐに消えてしまったため、気のせいだったのかと首を傾げるアンジュだったが、僅かに残る疑問は消えないままロイドに向き合う。
緊張に、少しずつ鼓動が速まる。
声が震えてしまわないように、背筋だけは伸ばした。
「…昨晩から、ずっと考えていたんです」
「…例のことだな?」
「はい」
そのまま、目の前のロイドを真っ直ぐに見つめた。
穏やかな海のように綺麗な色をした瞳だと、アンジュは思った。
初めて出会った時には冷たく感じた色であったけれど、今は優しく微笑むことを知っている。
それを知らなかったら、こうして真っ直ぐにロイドのことを見ることは出来なかっただろう。
彼のことを知りたいと、思うこともなかっただろう。
「…正直に言いますと、今は妻になりたいかと言われると、わかりません」
ようやく告げたアンジュの言葉に…ぐ、とロイドが一瞬息を潜めた。
それまでアンジュを見つめていた瞳が、苦しげに逸らされる。
想定していたこととはいえ、面と向かって言われると流石に身にこたえるものがあった。
息をすることもままならない程に、辛い。
けれど、ここで彼女自身から逃げてしまうわけにはいかなかった。
ゆるゆると息を吐くと、重い口をようやく開く。
「それは…ここには残ってもらえない、ということだろうか」
「そ、それは違います!」
明らかに沈んだロイドの様子に、咄嗟に否定をするようにアンジュが言葉を挟む。
違うと、彼女の口から聞こえた言葉にロイドがようやく顔を上げると、蒼色の瞳に改めてアンジュの姿が映し出される。
アンジュは自分を見つめる瞳の中に悲哀の色を見つけ、先ほど発した言葉が彼の中で誤解を生んでいたことに気がつくと、小さくかぶりを振った。
違うのだと、自分の想いをもう一度ロイドに示すように。
「陛下は、わたしのことを知りたいと言って下さいましたよね?」
「…ああ」
「それは、わたしも同じです。…わたしも、以前よりもっと、貴方のことを知りたいと思いました」
見つめられ、微笑み掛けられる度に、はっと息を潜めては、鼓動を刻むように胸が高鳴る。
アンジュがロイドに惹かれ始めているのは、否定の出来ない事実だった。それは、アンジュ自身が一番よく理解している。
息苦しさにも似たそれをこの身で感じることは初めてであったけれど、恐らくこれが恋と呼ばれるものなのだろうと、アンジュは心のどこかで気づいていた。
けれど、ロイドを知りたいと思う気持ちが、側にいることが心地好いと思うこの気持ちが、愛と呼べるほどの感情なのか今のアンジュにはまだわからない。
そんな曖昧な気持ちで、彼の妻になるという願いを、受けるわけにはいかなかった。
申し訳ございませんと、咄嗟にアンジュが頭を下げる。
妻になれるかわからない。けれどロイドの側にはいたい。
アンジュ自身、勝手なことを言っているというのはよくわかっている。
こんな曖昧な答えが、許されるだろうか。
もしも出ていけと言われたなら…その可能性はあまりに辛く、考えることができなかった。
「…アンジュ、顔を上げてくれ」
けれどそんなアンジュに掛けられたロイドの声は、彼女が思うよりもずっと穏やかな色をしていた。
「…お前の気持ちはわかった。なら、それまではここにいてくれるんだな?」
「…は、はい。陛下がご迷惑でなければ、そうさせてもらえたらと…」
「迷惑なものか。むしろ礼を言わせてもらいたいくらいだ」
アンジュの出した答えに、今まで張り詰めていたロイドの表情がようやく和らいだ。
反して、今度は驚いたように目を丸くさせるアンジュ。
…宜しいのですかと、思わず不安そうに漏らしたアンジュに、ロイドは改めてアンジュの顔を覗き込んだ。
今にも泣き出してしまいそうに歪む表情に、どうしたら良いものかと困ったように微笑む。
頷き、慰めるように背中に綺麗に流されたアンジュの髪にそうっと触れた。
思い返してみれば、今日はアンジュにこんな顔をさせてばかりだ。
悲しい顔などさせたくはない。先ほど見せたまるで花の咲いたような笑みのように、彼女にはただ笑っていてほしいのだと、いつでも一番に願っているというのに。
「…今は、お前が側にいてくれるだけでいい」
「陛下…」
ありがとうございます、と絶え絶えに呟くアンジュにロイドはようやく穏やかな笑みを浮かべた。
けれどその際に呼ばれた名に、思わず苦笑いを浮かべて。
「その陛下、というのも止してくれ。今の俺は、王と言っても名だけだからな」
「それは…」
一体、どういう意味なのか。そう問おうと開いた口を、アンジュは静かに閉じた。
以前から、疑問はたくさんあった。
なぜ国民の前に姿を現さないのか。なぜこの時間にしか会えないのか。それには何か理由があるのか。
ロイドが自分は名ばかりの王だというのも、恐らくは関係しているのだろうとアンジュは悟る。
いつか、自分が彼を愛するようになったら、聞かせてもらえるのだろうか。
いや、とアンジュは首を振る。
今はまだ、それを聞く時ではない。
どんな理由があったとしても、今ロイドが自分の前にいるという事実は変わらないのだ。
それだけがわかっていれば、もう十分だった。
アンジュは何も言わない代わりにふわりと笑うと、今も自分の髪に触れているロイドの手をゆっくり取った。
「これから、よろしくお願いします。ロイド様」