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腕の中で眠っていたはずの仔狼の姿がいつの間にか消えていたことにアンジュが気がついたのは、目覚めてからすぐのことだった。
もしかしたら、眠っている間に飼い主の元へ帰っていったのかもしれない。
ほんの少しの寂しさが胸を掠めたが、それが仔狼の幸せなのだからと頷く。
(それにしても白銀の毛色に蒼い瞳は、まるで陛下にそっくりね)
なんてそんなことを考えながらアンジュはベッドから降りると、ふと自分の身なりに気がついた。
思えば、昨日はなんだかんだで入浴も済ませていなければ、寝巻に着替えることもなく今朝まで眠ってしまっていたので、今アンジュが着ているワンピースには細かな皺が所々に刻まれてしまっている。
こんなにみっともない格好でロイドに会ったのかと思うと今すぐここから飛び出してしまいたかったアンジュだったが、まずは身体の汚れを落としてゆっくり考えをまとめたかった。
一旦家に戻ることも考えたが、さすがにこの格好で外に出るのは些か憚るもの。
だからといって自分が入浴するためだけにわざわざ使用人を呼び、王城の風呂場を借りることもなんだか悪い気がしてアンジュにはあまり気が進まなかった。
さてどうしたものかとうんうんと悩んでいると、そんなアンジュの考えを遮るようにこんこんと扉を叩く音が聞こえた。
一瞬ロイドが訪れたのかと思い慌てたアンジュだったが、次に会いにくる時は夜だというロイドの言葉を思い出し、ほっとする。
(だとしたら、一体どなたかしら)
できれば今の姿のままで他人に会うのは止したいアンジュだったが、この状況ではそんなことも言っていられない。
咄嗟に髪を手櫛で整え、無意味だとわかっていてもスカートの皺を伸ばす。
小さくため息をついて重い足取りで近づくと、重厚な木製の扉を恐る恐る開いた。
「おはようございます、アンジュ様。私は侍女のヘレンと申します。
これからは私がアンジュ様の身の回りのお世話をさせていただくことになりましたので、どうかよろしくお願いいたします」
その中年の女性は腰から綺麗に四十五度に身体を曲げ、深くお辞儀をすると、聞き取りやすい声でアンジュにそう伝えた。
ぱちぱちと、少し驚いたようにアンジュが瞬きを繰り返す。
けれどすぐに状況を飲み込むと、にっこりと微笑んで目の前の侍女を招き入れた。
美しい黒髪をきっちりと後ろで纏め、顔を上げた時に見せた笑顔はどこか母に似たような温かみがある。
侍女の鏡、というのは正にヘレンのような女性なのだろうとアンジュは思った。
「ええ、こちらこそよろしくね、ヘレン。でも一体、どうして?」
「はい、アンジュ様がこちらにいらっしゃる間はアンジュ様により良い生活を、というロイド様のご意向ですわ」
なるほど、それなら納得がいく。
なんだかいたわり尽くせりで申し訳ない気もしたが、今正にどうしようかと困っていたアンジュにとってこの申し出は実にありがたい。
ここは、素直にロイドの申し出に甘えさせてもらおう。
「それは助かるわ。昨日お風呂に入る機会を見逃してしまって、困っていたところだったの」
「まあ、それなら丁度湯殿の準備も出来ておりますし、早速ご案内致しますわ」
ヘレンに導かれるままに入浴場に向かうアンジュはその途中、今はここにいないロイドに胸の中で感謝の言葉を述べた。
*****
聞けばこのヘレンという侍女は、ロイドが生まれる前からルドルフ家に仕えていることがわかった。
ここのことは主であるロイド以上に把握している、まさにベテランの侍女であるようだ。
そして幼いロイドの身の回りの世話も、全てヘレンが行っていたようで。
ロイドの両親がどうしても帰れない夜には優しく子守唄を聴かせてあげ、悪戯をした場合にはきちんと理由を聞いた上で叱りつける。
その様は侍女というよりは乳母と変わらなく、実際ロイドはそう思ってヘレンに接していただろう。
そんなヘレンの人柄にすっかり心を許したアンジュは、入浴を終えた後用意されていた薄桃色のドレスに身を包み、今は自室でヘレンとの会話に花を咲かせていた。
そして話題は自然に、ロイドのことへと流れる。
「それなら、陛下には今までそういう方はいなかったの?」
「ええ、最もロイド様ご自身、側室を取る気はないようですので。だから寵愛を受けたお方は、私が存じている限りアンジュ様ただお一人ですわ」
王と呼ばれる人間には側室が何人か存在することが当たり前と思っていたアンジュにとって、ヘレンのその言葉は意外だった。
ロイド自身にその気は無くとも、それを周りが放って置くだろうか。
けれど考えてみれば、ロイドは国民の前に滅多なことがない限り姿を現さない王である。
最初はそれを寛容していた国民であったが、最近ではロイドへの不満が徐々に顕在化され始めているのが事実で、このままでは各地から暴動が起こるのも時間の問題だ。
ロイドの夫になることで得る地位や財産などの価値は大きいが、同時にそれは大きなリスクを伴うことにもなる。
だとしたらそれなりに身分の高い貴族の元に嫁ぎ、安定した暮らしを望む方が普通に考えれば得策である。
ロイドの周りに側室がいない現状が成り立つ理由は、恐らくそういった理由がほとんどだろう。
それでも、とアンジュは思う。
昨晩ロイドと過ごした時間は、始めから終わりまで戸惑い、困惑してばかりいた。
だが心に余裕の出来た今となっては、それだけではなかったことにアンジュはもう気がついている。
一目惚れだと言われた時は軽い男なのだろうかと疑ったが、話している内にロイドはそういった類いの人間ではないことをすぐに理解し、そんなことを少しでも考えてしまった自分を恥じた。
そして今のヘレンの話で、そのイメージは確信に変わる。
ロイドが見せた素の部分を、もっと見たいと。
あの笑顔を、また自分に向けてもらいたいと。
今は国王陛下としてではなく、ロイド・ルドルフという一人の人間を、自分ももっと知りたいと思う。
それはあの晩、ロイドがアンジュのことをもっとよく知りたいと、そう言ってくれたように。
ロイドが来た時にはここに留まる意思を伝えようと決めたアンジュの視界の端に、あるモノが映る。
ぱっと目線をそちらにやれば、僅かに開いていた扉の隙間から昨晩から行方をくらましていたはずの仔狼がちょこんと座っていた。
「アンジュ様?」
何やら嬉しそうに声を上げて扉の方へ向かうアンジュを、ヘレンが不思議そうに見つめる。
そして振り返ったアンジュの腕に抱かれていた仔狼を見て、今まで優しく笑顔を浮かべていたヘレンの表情が固まった。
そんなヘレンの様子に気づくことのないアンジュは、仔狼との再会に顔を綻ばせる。
「…ア、アンジュ様、その仔狼は…」
「昨日出会った子なの。人に慣れているし綺麗な毛並みをしているから、誰か飼い主がいるんじゃないかしら。いつの間にいなくなってたから、てっきりその人の元に戻ったのかと思っていたんだけど…」
アンジュから離れる様子のない仔狼は、アンジュの腕の中でくあっとのん気に欠伸を漏らしていた。
「そこの扉から出てきたってことは…もしかして、ここの子なの?」
「…え?…あ、ああ、まあ、そういったものでございますわ」
急に話題を振られて、先程まではきはきと話していたはずのヘレンから珍しくきれの悪い返事が返る。
そんなヘレンの様子に不思議そうに首を傾げたアンジュがどうしたのかと尋ねたが、なんでもないと笑ったヘレンはいつもの彼女だったので、それ以上は何も聞かなかった。
「そう、ここの子だったのね!嬉しいわ、これからよろしくね」
アンジュの言葉に嬉しそうに尻尾を振る仔狼を、ようやくいつもの冷静さを取り戻したヘレンがどこか呆れたようにじとりと見つめている。
そんなヘレンの視線に気がついた仔狼が今までこれでもかと振っていた尻尾をぴたりと止めたかと思えば、ケッとまたなんともふてぶてしそうに鼻を鳴らすのであった。