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月明かりに照らされて尚輝く白銀の髪は短く整えられており、深い蒼の双眸は、今もアンジュを真っ直ぐに見つめている。
すっと通った鼻筋、端正な輪郭、形よく整った唇、どこか冷たさを感じる切れの長い瞳は男の美しさを更に引き立てており、引き締まったしなやかな身体は服の上からでも見受けられた。
それは、この暗闇でもよくわかるほどに。
直接明かりに照らされていなくとも、柔らかな月明かりと暗闇が男に影を落とし、かえってその輪郭をはっきりとさせるようだった。
そして何よりも、その男の名状しがたい存在感に、アンジュは思わず言葉を発することさえ忘れて魅入っていた。
しばらくしてアンジュ、と。
長い沈黙を破るかのように呼ばれた名前に、アンジュははっと我に返る。
男の発する声はアンジュの予想していた通りハスキーで、男らしかった。
「あ、あの…貴方は一体…」
「…そういえば名前を名乗るのを忘れていたな。私はロイド・ルドルフ。こんな時間まで待たせてしまってすまなかった」
その名前に、アンジュは思わず目を見開く。
まさかこの男があの変わり者で有名な国王陛下、ロイド・ルドルフその本人であったなんて、アンジュは夢にも思わなかった。
そしてアンジュは、ロイドの前にも関わらずベッドの上で横になっている自分の状態に気がついた。すぐにベッドから降りようと体勢を整えるアンジュを、ロイドはその手でゆっくりと制す。
その気遣いを無下に断るわけにもいかず、けれど少しだけ抵抗のあるアンジュは、せめて姿勢だけでもと上半身を起こした。
それからなんて言葉を掛けて良いのか戸惑ったアンジュだったが、やがて決意したようにぐっと顔を上げるとロイドの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「あの、失礼を承知でお尋ねしますが、わたしは一体どのようなご用件で呼ばれたのでしょうか?」
「…そうか、そういえば私は、お前にまだ何も伝えていなかったな」
まだ、とは一体どういう意味なのか。
ロイドの言葉の真意が読み取れず、アンジュは少し困ったように小さく首を傾げた。
「いきなりこんなところに呼んで、申し訳ないと思っている。だが私は…アンジュ、お前に一目会いたかったんだ」
「…あの、わたし達以前どこかでお会いたことでも…」
アンジュがぽつりと漏らした言葉に、ロイドはゆっくりとその首を横に振る。
ロイドほど印象的な男に会ったことを忘れるはずもないと思っていたアンジュだったので、その返答には思わず納得してしまう。
けれど、代わりに疑問は増えるばかりであった。
「以前、一度だけお前を見かけたことがあってな、妻にするならぜひお前にと思ったんだ」
「は、はあ…それは光栄です…」
そう答えてから、アンジュははたと気がつく。
あまりに何事もなかったかのように言われたものだからさらりと聞き流してしまったが、この王は今とんでもないことを言わなかっただろうか。
ぱっとその場で顔を上げれば、口元に微笑を浮かべているロイドに微笑まれて、アンジュの顔にじわじわと熱が集まってきた。
その微笑が、ロイドの魅力をまた引き立てていて。男性経験に乏しいアンジュにとって、その微笑みは彼女の思考を止めるには十分だった。
けれどまさか、アンジュが自分に見惚れているとは露知らず。
ベッドに置かれていた華奢な手の平を取ると、先程と同じく穏やかな声色で、ロイドがアンジュの名前を囁いた。
「…アンジュ、私達はまだ知り合ったばかりで、互いのことを何も知らない。だからお前には私のことを知ってもらいたいし、私もお前のことを知りたいと思っている」
「へ、陛下…」
「そして行く行くは…お前と共に在りたいと、そう思っている」
その言葉の意味するものとは、一体何か。
幾ら恋愛経験に乏しく、どこか抜けているアンジュでも、ここまで直球に物を言われてはさすがに理解せざるを得なかった。
それが幾ら現実味に欠け、予想だにしない言葉であったとしても、だ。
今目の前で起こる展開に独り置き去りにされていたアンジュだったが、しばらくしてようやくロイドの放った言葉の意味に気がついた時には、彼女自身気づかぬ内にこう述べていた。
「陛下、どこかで頭をお打ちになりましたか」と。
その言葉に目を丸くしたのはロイドだけではない。
言葉を放ったアンジュ自身が、自分の言動に一番驚き、慌てふためいていた。
すみません、と咄嗟に頭を下げるアンジュだったが、中々ロイドからの返答がないことに段々と不安が募っていく。
もしや気分を害されたのではと、恐る恐る顔色を窺うように顔を上げると、アンジュの視線がそこで留まった。
「お前は…本当に俺を楽しませてくれるな」
くつくつと、肩を僅かに震わせながら笑い出したロイドに、アンジュは今度こそぽかんとその様を見つめていた。
先程浮かべていた綺麗な微笑みとは違う。
初めて見せたロイドの一面に、アンジュは僅かに胸の鼓動が速くなる感覚を覚えた。
「心配ない。頭も打っていないし、その上で、こうしてお前に頼んでいる」
「…さ、左様ですか…けどそれなら、どうしてわたしに…?」
アンジュの家系は貴族の類ではあるが、それでも王室に嫁ぐことのできるほど高い身分ではない。
そんな自分を妻に娶ったところで、ロイドに経済的な利益など何もないはずだ。
だから、アンジュには不思議だった。
その美貌も、品格も、地位も、名誉も、財産も、全てを兼ね備えたロイドがアンジュに一体何を望むというのだろう。
そんな思いでロイドを見つめていたアンジュの気持ちを汲み取ったように、ロイドはふっと微笑む。
けれどすぐに顔を逸らしてしまうと、ちらりとアンジュを見遣った後、どこか歯切りの悪い様子で呟いた。
「一目惚れと、いうんだろうな。俺自身こういったことは初めてで、正直戸惑っているんだ」
「…………は」
とうとう言葉が見つからず、言葉とも息とも取れる曖昧なそれがアンジュの口から漏れる。
一目惚れ。一目惚れといったか、この人は。
一体自分のどこに、と聞くだけ野暮というものだろう。
けれどアンジュには聞かずにいられない。
最早目の前にいる人物が国王陛下という立場にいる人間だということを、アンジュはすっかり忘れてしまっていた。
それほどに、ロイドの言葉はアンジュには強烈だったのだ。
「とりあえず、今夜はもう遅い。返事はゆっくりで構わないから、今日は休んでいくといい」
「…はい、そうします」
素直に、ロイドの言葉に頷く。
本当はまだ聞きたいことが山ほどあったけれど、今のアンジュにその全てを受け入れるまでの余裕はなかった。
今は、ロイドの言葉に甘えておこう。
後のことはそれからだ。
「もし、お前がここに残ってくれるなら…明日のこの時間、きっと会いにくる」
どこか名残惜しげにアンジュに視線をやるロイドだったが、やがて振り切ったようにマントを翻すとゆっくりと扉に向かう。
ロイドが部屋から出る際、後に続くようにベッドから降りたアンジュがぺこりと頭を下げた。
そしてお休みなさいと、アンジュに当たり前のように言われた言葉にロイドの表情が微かに和らいだことを、アンジュは知らない。