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「はあ……」
もう何度目になるかわからない吐息をついて、アンジュは今の自分の状況を改めて整理していた。
あの後、数時間に渡り馬車に揺られ、色々と考える内に気がついたら王国に到着していたのだった。
もしかしたら国王の使いの名を借りた詐欺か何かかと僅かに疑っていたが、その疑いも晴れてほっとする。
そしていわれるままに馬車から降りると、アンジュは目の前に広がる光景に思わず言葉を失った。
見上げれば堂々とそびえ立つ城は圧巻で、まるで飲み込まれてしまうような存在感があった。
(話に聞いてはいたけれど、まさかここまでだなんて…)
こんな機会はめったに無いからとその光景に見惚れていたアンジュだったが、その余韻に浸るまでもなく、ささこちらですと手を引かれてあれよあれよという間に城の中に引きずり込まれてしまった。
そうして城の内部を眺める間もなく通された場所が、今アンジュがいる部屋である。
「…それにしても…広いわね」
アンジュの家で一番広いリビングより一回りも二回りも広い部屋は、どこを見ても豪華に飾られていてなんだか落ち着かなかった。
国王の帰る夜までここで待機しろと言われたけれど、勝手に連れてきておいてこの扱いはいかなるものかとアンジュは独りごちる。
体が簡単に沈んでしまうほどに柔らかなベッドにとりあえず腰掛けると、アンジュはその場で静かに横になった。
ふわふわと肌触りの良い布団は、きっと自分の想像を遥かに超える上質な物なのだろう。
──国王ロイド・ルドルフの様々な噂は、アンジュの耳にも届いていた。
今は亡きアラン・ルドルフの跡を継ぎ、国王として即位したのはつい先日の話。
にも関わらず、普段は民衆の前にその姿を全く見せない為、噂は広まるだけ広まり、その容姿についてすら正確な情報はなかった。
それどころか、生まれつき病弱だの実はもう亡くなっているだの始めからそんな方はいなかっただの…あらぬ噂まで流れる始末である。それを証明しようもないのだから仕方がない。
そして、その不在の王に国民が行き場のない憤りと、不安を抱えていることも、だ。
そんな人に呼ばれて、一体自分はどうなってしまうのだろうと悩むけれど、結局その考えが明けることは最後までなかった。
そんな時、こつんこつんと、窓から控えめに聞こえてきた音にアンジュはふっと顔を上げた。
するとそこには、この辺りでは珍しい、一匹の仔狼が何かを期待するようにじっとアンジュを見上げてた。
どうやら、この仔狼が今しがた窓を叩いた張本人らしい。もともと動物が大好きだったアンジュは、その突然の訪問者にぱっと明るい笑顔を見せると、すぐに窓を開けて仔狼を抱き上げた。
「可愛いお客様ね、こんなところでどうしたの?」
抱き上げたまま小さな子どもに問い掛けるように話し掛けると、その蒼い双眸と目が合う。
白銀の毛は太陽の光にきらきらと反射して、アンジュはそのまま腕の中に仔狼を収めると、思わず手を伸ばしてその頭にゆっくりと触れた。
思っていた通り、柔らかで繊細な毛並みは、しっとりとアンジュの手の平に馴染むようで。
人に慣れているのか、逃げる様子のない仔狼はアンジュの腕の中で大人しく収まると、甘えるように鼻先を擦り寄せた。
(こんなに綺麗な毛並みをして、人にも慣れているみたいだから、もしかしたら誰かに飼われている子なのかもしれないわね)
出来ることなら早く飼い主を探してあげたいけれど、今の自分の状況を思い出して小さくため息を零す。
そんなアンジュの様子に気がついてか、仔狼が心配するようにくんとアンジュの袖を引いた。
「ありがとう、大丈夫よ」
仔狼の気遣いに気がついて、にこりと笑顔を浮かべる。
独りで心細かっただけに、今の仔狼の存在はアンジュの不安をすっかり和らげていた。
──ここでの用事を終えたら、きっとこの仔狼の飼い主を探してあげよう。
そう決意して、今はそれまでもう少しだけこの仔狼に甘えさせてもらおうと、アンジュは仔狼を抱いたまま、再びベッドに横になった。
「ふあ…」
色々と考えて横になる内に、じりじりと襲ってくる睡魔に気がついてアンジュは小さく欠伸を漏らした。
長い時間馬車に揺られていたせいもあるのだろう。思っていた以上に、精神的にも身体的にも疲労が溜まっていたらしい。
こんなところで暇を持て余す術も知らなければ、これからどうしたら良いか考えるほどの余裕もない。幸い、国王と顔を合わせる夜までにはまだ随分と時間があった。
(少しだけ。少しだけ。)
段々と重くなっていく瞼に、逆らうことなく素直に従う。
後のことは、目覚めた時にどうにかしたらいい。そんな些か無責任なことを考えながら、アンジュは静かに意識を手放していった。
*****
自分の髪を優しく撫でる存在に気がついて、アンジュは浅い眠りからようやく目覚める。ぱちり、と何度か瞬きを繰り返す度に意識がはっきりとしてきた。
思わず小さく洩れた声に、今も尚アンジュの髪を撫でていた存在が一瞬ぴたりと動作を止めてすぐに退いてから、ああこれは誰かの掌だったのだと、アンジュはその時ようやく理解した。
──そして、気がつく。
だったら、今自分の髪を撫でていた存在とは、一体誰だったのかと。
「…すまない、起こすつもりはなかったんだ」
「え…?」
突然頭上から聞こえてきた声に、弾かれるように顔を上げる。
そうして次に目に映った人物に、アンジュは思わず息を呑んだ。