16:「さびしいな」
再びヒロイン視点の話
施療院での仕事を終えて、ミリエは東町の宿屋に戻った。
ロゼ施療院があるのは白鷲町とはいっても外れで、どちらかといえば郊外だった。東町のエルダル館からだと、乗合馬車の停留所まで徒歩20分、施療院前の停留所までは馬車で30分かかる。なかなか痛い出費と時間のロスである。
借りている部屋に入ると、着ていたマントを脱いで壁の外套掛けにかけた。そのままベッドに腰掛け、大きく溜め息をつく。
彼女がいるのは個室で、設備はベッドと小さなテーブルが一つだけだ。しかし、もともと狭かったり暗かったりする場所が嫌いではない彼女は、部屋に関しては全く気にしていない。ちなみにシャワーも、共同だが男女別にあるし、そもそも男性と女性の宿泊階が別々なのも助かっている。流しの傭兵を主な客とする宿だからこその配慮だった。
いい宿を紹介してもらえて良かった、とミリエは思う。貴族出身の彼女では、安くて環境も良い宿など知るよしもない。だが、スカヤ山からここ王都まで彼女を送ってくれた傭兵たちが、親切にも教えてくれたのだ。
もちろん、彼らが親切心だけで彼女に良くしてくれるとは思わない。あえて『読んで』はいないが、ヴィリイと名乗った傭兵は明らかに彼女の事情を知り尽くしていたし、レニという少年魔術士も、暇を見つけては彼女の元を訪ね、他愛のない話をしたり外に連れ出したりしてくれているが、それが自分を監視するためであろうことは、なんとなく理解していた。
自分のわがままのせいで、彼らの手を煩わせている…そう分かっていても、ミリエにはやはり、実家に戻る気はなかった。
妹チェリエの結婚式が、一週間後に迫っていた。
名目上、ミリエが山を下りた理由は、それに出席することだった。無論、わざわざ還俗しなくとも、修道女の立場のまま出席することだってできなくはなかったし、あるいは出席しないまでも寺院関係者として妹に祝福を授けることだってできた。方法はいくらでもあったのだ。
なのに還俗した理由は。
……ただもうひとえに、ミリエのわがままだとしかいいようがない。
簡単に言えば、彼女は、生きてみたかったのだと思う。
修道院にはさまざまな女達がいた。
スカヤ寺院は、特に、ミリエのような千里眼であるとか予見であるとかの異能力者の女達を多く受け入れていたので、彼女は生まれて初めて、自分と同じ《ちから》と、同じ悩みを抱える人々に出会うことができた。
それは、今にして思えば、とても『ありがたい』ことだった。
彼女らの出自は実に様々で、貧民階級であるとか、あるいは見世物小屋で働いていた者もいた。かといえば中流家庭で平穏に育った者もいた。さすがにミリエのような上流階級出身の者はいなかったが、様々な土地で様々な人生を歩んできた者たちが、集っていた。
彼女らはミリエに様々なことを教えた。
……好意も嫌悪も妬みも僻みも喜びも悲しみも怒りも。ありとあらゆる経験と知識と、そして情動を。
予見能力を持っていたがゆえに、隣人に疎まれ、最終的には夫に離縁させられた女が、彼女に語ったことがあった。自分を見捨てた夫のことは憎いが、けれど家族で暮らしていた頃の思い出は、今なお幸せな記憶として残っている。その記憶が疎ましくて、でも捨てられない自分が情けなくて、かなしい…と。
女は、家族との思い出を、憎みながらも愛しんでいるようだった。
……そしてミリエは、女に憧れている自分に気付いた。
いや、自分をいじめたり貶したりする女達でさえ…悔しかったり憎たらしかったりすることもあれど、やはりどこかで少し、憧れていたのだ。
ミリエは自分を山に追いやった家族を憎んでいなかった。
……そもそも、憎む以前に、まともに愛してもいなかったのだと、気付かされた。
いつだってミリエは、自分のことで精一杯だった。
自己と他者の境界ですら曖昧になるような《ビジョン》に晒され続け、ギリギリのところで自我を保ってきたのだ。よく発狂しなかったものだと今でも思う。だが、そのせいで人を愛することも憎むこともできなかった。そんな余裕はなかった。
――あの時…行こうとする《あの人》に、もっと執着していたら。引き留めていたら。失わずにすんだのだろうか。
もちろん、今のミリエには、そんなことはないと分かっている。未来は変え難い。誰かや何かの運命を変えることは、その人なり何なりを全て受け入れて共に生きるくらいの覚悟がなければ為してはいけないのだと、ミリエは教わったし、身をもって知ってもいる。
けれどそれでも。
覚悟があったら、違う結末になっていたのかもしれないなら。
もっと愛していたら?
もっと憎んでいたら?
――いいえ、そもそもソレは、いったいどんなものなのかしら?
ミリエは、自分がまともに『生きて』すらいなかったことに気付いたのだ。
大事な人たちがいた。失いたくないと思っていた。けれど実際に失ってみても、彼女は、悲しいとは思っても、身を引き裂かれるほどに辛い、とまでは思えなかった。修道院にいる女達はみな、身を引き裂かれるほどの悲しみや苦しみや憎しみを感じていたというのに。
だから、少し『わがままに生きて』みたくなったのだと、思う。
しかし、わがままに生きるということは、つまり周囲の人間に多少なりとも迷惑をかけるということでもある。
どちらかといえば真面目な性格であるミリエには、他人に迷惑をかけるのは心苦しいことだった。
先日も、父にドレスの代金を肩代わりしてもらったが、当初父は自分が払うからと言ってきかなかった。それを何とか言いくるめて(というより頼み込んで)借金という形でなんとか彼女が父に返済していくことを了承させたのだ。しかも無利子でという好条件まで付けてもらって。情けなくて落ち込んだ。
世間知らずの貴族の娘が、一人で働きながら生活しつつ借金を返すなど、はっきりいえば無謀以外のなにものでもない。そう取られるであろうことは分かっていた。おそらくは揶揄され、嘲笑されるだろうと。それも仕方ないと思う。事実だからだ。
先だって、スカヤ山からの紹介状を持って出向いたロゼ施療院で「貴女がうちで働く?本気ですか?」と、対応した男性職員にあからさまに鼻で笑われたことも、まあ仕方ないだろうと納得していた。
どうやら彼はミリエの出自を知っていたらしい。もしかしたら、スカヤ修道院から持参した紹介状に、彼女の事情まで添えてあったのかもしれない。あの『おせっかいな姉』達ならやりそうなことだった。
貴族の娘の道楽とでも思われたのか、彼の態度は冷たかった。だが、とりあえずは雇ってもらえたので、それだけでよしとしよう、とミリエは思う。修道院でのお勤めもそうだったが、働くこと自体は好きだった。くたくたになるまで体を動かせば、何も考えなくて済むから。
ミリエは体の力を抜いて、そのままぼすっと背後のベッドに倒れ込んだ。夕食を食べなくてはいけない。食べないと、体が持たないだろう。……けれど、疲れた。
ロゼ施療院での仕事は、とりあえず半年間は研修期間ということで、給料は正規職員の4分の1しか出ない。それでもきっと、出るだけマシな方なのだろう。
彼女に与えられた最初の仕事は、病棟の掃除や治療着の洗濯など、比較的簡単な作業からだった。
簡単な力仕事なら、ミリエは得意だった。修道院ではミリエが一番若かったので、力仕事はほとんど彼女に丸投げされていたのだ。
最初は、貴族の娘であるミリエへの嫌がらせでそうしていたらしいが、彼女は、深窓の令嬢だったにもかかわらず意外と体力があったことと、仕事そのものはかなり気に入ったので進んでやっていたため、そのうち、貴族の娘らしからぬ働きぶりの彼女に呆れたのかそれとも嫌がらせ自体に飽きたのかは分からないが、普通に皆で分担して作業するようになった。
ミリエとしては、そのままずっと洗濯や掃除や畑仕事だけのお勤めでも全く構わなかったのだが、監督係だった年上の修道女にそう告げると「あなたバカなの?それとも脳みそが筋肉なの?」と、なんだか可哀相なものを見るような目で言われたものだ。
……ところで、脳みそが筋肉、というのはどういう意味だろうか。あまり良い意味ではない気はするが、露骨な侮蔑という感じもしなかったので、正しい意味は聞けずじまいになっている。
そんなこんなで、仕事に関してはどうにかなりそうな目処もついた。だが。まだ問題があった。
父からの借金のこともそうだが、目下の問題は、住む場所を決めなければならないことだった。
ミリエは現在、東町の宿屋に長期滞在している。実家には一度泊めてもらっただけで、以降は、ドレスの仕立て直しをする時に呼ばれただけだ。それはいいのだが、宿代がそろそろ心配になってきた。だが勤め先である施療院は、職員寮があると聞いていたにもかかわらず、そこが既に埋まっていたため、近くで部屋を借りなければならないのだという。予想外の出費は、正直頭が痛かった。
「……ひとりで、生きるって……とても大変なこと、なのね…」
ぽつりとミリエは呟いた。わかっていたつもりだった。だが、やはり自分は世間知らずの貴族の娘。現実は彼女の想像よりもはるかに厳しいということか。
――無理に決まってるわ。
ふと、山を下りる際、そう言って彼女を嘲笑った修道女達のことを思い出した。
貴族のお嬢さんが、一人で生きてくって?バカ言うんじゃありませんよ。世間を舐めすぎじゃないかしら?私達ですら逃げ出してきた場所で、甘ったれたお嬢ちゃんが生きていけるわけがないわ。いじめられて逃げ帰ってくるのがオチよ。そうね、研修旅行みたいなものだと思って、励んできなさいな。私達は優しいから、貴女の部屋は残しておいてあげるわ。新しい負け犬が来るまでは、一応ね。
ころころと楽しそうに笑う彼女達は、言葉こそ辛辣だったが、その『本心』ではミリエを心配したり、あるいは帰る場所がまだ残っている彼女に嫉妬したり、あるいは新しい門出を祝福したりしていた。お互いにお互いの心が読めることは、時には辛く、時には嬉しいことだった。
優しい人たちだった、と思う。言葉は厳しかったし、いたらない彼女に嫌味を言う人も多かったが、それもみな彼女の幼さや愚かさを案じてのことだと分かっていた。
逃げ帰ることは、できればしたくない。
それは、なんだかとても恥ずかしいことだと感じた。そもそもミリエは貴族の出身で、家族もいるし居場所もまだあるというのに、この上再び寄る辺ない女達の最後の拠り所であるスカヤ山に戻ったら、人として何かが終わってしまう気がする。だから戻らない。
――これから先、どこでどうやって生きていくことになるのかは、まだよくわからないけれど。
少なくとも、あの場所へはもう、戻れないのだ。
……そう考えると、なんだかとても寂しい気がした。
ミリエは目を閉じた。すると浮かんでくるのは修道院の仲間達。しかし実際は仲間というには皆年上の女性ばかりで、ミリエの立場はさながら、一番年下で一番出来の悪い妹のようなものだった。だから可愛がってもらえたのだろう…いろんな意味で。
――さびしいな。
修道院での出来事をぼんやり思い返しているうちに、いつしかうとうとしていたのか。
ハッと気がつくと、部屋のドアがノックされている。その向こうから、声がした。
「ミリエいるぅ?ごはんまだなら、一緒に食べにいこーヨ!」
「……レニ?」
声の主は、すっかり親しくなった魔術士の少年レニだ。
少年といってもティーガ族の彼は、民族の伝統習俗で幼い頃から女性の服で生活していたとかで、今もその服装で過ごしている。そのおかげで、この宿の女性専用階にもごく普通に入ってこれるのだが…それは、はたして警備上いいのだろうか?…まあ、レニがヴィリイの縁者であることは、宿の主人夫妻らも知っているようなので、大丈夫なのかもしれないが…
「あのネー今日はボクのお友達がネー、おいしい麺料理を…おごってくれるっテ!おごってくれるっテー!大事なことだから二回言ったヨ!早く支度してきてネ!」
「……お友達?」
「じゃあボク下で待ってるからネ!はやくきてネ!」
「あっ…レニ…?」
言うだけ言って、レニはすぐに駆けだしていってしまったらしい。既にドアの外に気配はなかった。普段は彼女の返事を待ってから行動するのに、よほど夕食が楽しみだったのだろうか……それにしても。
おごってくれる?お友達?
いったいなんのことだか、さっぱりわからない。レニのお友達が、レニに夕食をおごってくれるという話だろうか。けれど、なぜ私を誘いに来たのだろう?まさか私も、ご一緒していいの?
その時、くぅ~、と彼女のお腹が鳴った。そういえばお腹が空いていた。夕食…おごってくれる、と言うからには、もしかしなくても自分は一銭も支払わなくていいということだろうか。
それは…仮にも貴族の娘としては恥ずかしいことなのかもしれないが背に腹は代えられぬというか生きていくためには致し方ないので正直に言うが、非常に……ありがたい。
ミリエは、自分が貴族であることを誇りもしなければ卑下もしない、良くも悪くも育ちのいい人間だったが、貴族階級の者が見ず知らずの他人から、金銭あるいは物品の施しを受けることが、いわゆる「恥」になる事ぐらいは知っている。だが同様に、修道院で徹底して「生きる」ことの厳しさを叩き込まれてもいたので、他人がわざわざくれると言っているモノをもらうのにためらいはなかった。
そもそもこの宿には自炊設備がないので、どうしても食事は外食せざるをえない。今までは慣れない環境で疲れていたのでそれでもよかったが、さすがに毎食では、食費が心配になってくる。
「貴族の誇り」で腹がふくれるなら、いくらでもそれを持つだろうが、あいにくそんなことはない。それに彼女は、生きてみたくて山を下りたのだ。生きるためにはまずお金がいる。しかし彼女は今、お金をあまり自由に使えない。想定外の父への借金やら宿泊費やらこれから増えるであろう引っ越し先での生活費やら様々な出費のことを考えると、なるべくお金を使いたくないミリエには、たとえ一食であれ食費が浮くというのは、これ以上ないほどおいしい話だった。
――食えるときに食っときな。腹が減って動けなくなってる時に夜盗だの獣だの、とにかく襲われでもしたら、まず助からない。
――女は弱いの。弱いから、徹底的に嬲られて搾り取られる。だから、負けそうだと思ったら何でも利用していいのよ。
――オトコとか友達とか家族とか、それにあんたのその《ちから》だって……使えるものは何だって使うんだよ。本当に、生きたいと願うなら。
――生きる、というのは、きれい事ではありませんからね……ま、かといって汚い事でもありませんけど。
したり顔でそう教えてくれた『姉』たちの顔が思い浮かんだ。
とりあえずレニと、彼のお友達という人に詳しいお話を伺いましょう、ごちそうになるかどうかは、そのあと決めたらいいわ、などと考えてはいるが、いそいそとマントを羽織っている時点で既に、おごってもらう気満々のミリエだった。