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「結婚式には出ない」と仰いましたので、花婿のいない席で式を挙げました ~空いた席は、一年だけお待ちいたします~

作者: 更田遅筋
掲載日:2026/10/15

「結婚式には出ない。式は君の家が決めたことだ。書類は後日署名する。ロラン」


 手紙は、それだけだった。三行である。三年婚約していた相手に宛てる文としては短いと思うし、結婚式の朝に届ける文としても短いと思うが、字は綺麗だった。ロラン様は字だけは昔から綺麗なのである。


 持ってきたのは、介添人のテオ様だった。


 モンフォール侯爵家の甥御で、ロラン様の従兄にあたる。辺境の軍務から戻ったばかりで、礼服の肩がまだ少し窮屈そうに見える、背の高い、無口な方である。介添人というのは花婿の隣に立って指輪を持つ役で、花婿の身内から選ぶ。この方を選んだのはロラン様ではなく、侯爵だと聞いていた。


「……今朝、従弟から預かりました。花嫁に直接渡せ、と」


「ロラン様は、どちらに」


「……男爵家へ。本日、ミレーヌ嬢の誕生会だそうです」


 知っていた。ミレーヌ男爵令嬢の誕生日が結婚式と同じ日であることも、ロラン様がこの一年、その方の屋敷に週に三度通っておられることも、ミレーヌ嬢が「私の誕生日と結婚式と、どちらが大事なの」と訊いたことも、全部知っていた。知らないと思われていたのは、私が知らない顔をしていたからである。伯爵令嬢は、知らない顔が上手い。上手くなければ務まらない。


 ただ、どちらが大事かという問いに、こういう答え方をするとは思っていなかった。


 私は手紙をもう一度読んだ。二度読んでも三行だった。


「テオ様。お客様は」


「……三百人ほど、着席しておられます」


「侯爵は」


「前列に。……伯父はまだ、このことを知りません。私に、花嫁に直接、と」


 私は手紙を畳んだ。畳みながら、頭の中で算盤を弾いた。実家が商家というわけではないが、伯爵家の娘は算盤を弾く。弾かないと家が傾く。


 式をやめれば、三百人の前で花嫁が逃げたことになる。手紙を読み上げれば、三百人の前で花婿が逃げたことになる。どちらにしても三百人が見ている。見ているなら、恥は、逃げたほうに乗せるのが筋である。


「式は挙げます」


「……は」


「花婿の席は空けておきます。侯爵には、式の中でお分かりいただきます。先にお伝えすると、式が止まりますので」


 テオ様は私を見て、手の中の小さな箱を見た。指輪の箱である。


「……私は、これをどうすれば」


「持っていてください。渡す相手が来ましたら、渡してください」


 それから私は、畳んだ手紙をテオ様の胸元に差した。


「これも、お持ちください。侯爵が手をお出しになったら、お渡しを」


 渡す相手が来ないことは、お互いに分かっていた。分かっていたが、テオ様は「承知しました」と言って、箱を両手で持ち直した。軍の人は、承知しましたと言うと本当に承知するのである。


◆


 入場の扉が開いたとき、私が最初に見たのは、祭壇の前の椅子だった。


 椅子は二つある。左が花嫁、右が花婿。右の椅子は空いていて、背もたれに席札だけが立っていた。「ロラン・ド・モンフォール」。席札はうちの母が三日かけて自分で書いたもので、母は字が下手なので、三日かけても下手だった。下手な字で書かれた名前の席が、三百人の前で空いている。


 父の腕につかまって、私は通路を歩いた。


 歩きながら、客席を見た。右半分が侯爵家の客、左半分がうちの客。右の前列に侯爵がいて、祭壇の右の椅子を見て、私を見て、もう一度椅子を見た。見比べた顔のまま、動かなかった。侯爵は寡黙な方である。寡黙な方は、驚いても顔が動かないので便利である。


 祭壇の前に着くと、神官が私を見て、椅子を見て、テオ様を見た。テオ様は花婿の椅子の隣に立っていた。介添人の立ち位置である。隣の椅子に誰もいないので、一人で立っているように見えた。実際、一人で立っていた。


「……花婿は」


 神官が、小さな声で訊いた。


「出ないと仰いましたので、席は空けてございます。式は、このまま」


「このまま、と仰いますと」


「このまま、でございます」


 神官は三十年この教会にいる方だそうだが、三十年のあいだにこういう式は見たことがなかったらしく、しばらく経典を開いたり閉じたりしていた。閉じたあとで、開いた。開いたところから、読み始めた。


 式は、進んだ。


 進むというより、片側だけ進んだ。「汝、アデル・ラヴァルは、この者を夫とし」という問いに私は「はい」と答え、「汝、ロラン・ド・モンフォールは、この者を妻とし」という問いには、誰も答えなかった。神官は椅子を見て、席札を見て、待った。待っても席札は答えない。母の字で書かれた名前は、黙っていた。


「……はい、と聞こえたことに、いたしますか」


「いいえ。聞こえませんでしたので、そのままで」


 神官は頷いて、次に進んだ。


 指輪の段である。


 テオ様が箱を開けた。開けて、差し出した。差し出す相手は花婿で、花婿は私の指に指輪を嵌める役で、花婿はいない。テオ様は箱を開けたまま、誰も取らない指輪を、祭壇の前で持っていた。持ちながら私を見た。どうすれば、という顔である。


「そのままで」


 と私は言った。言ってから、気づいた。この方は、式が終わるまでこのまま持っているつもりだ。承知しましたの方である。


 後ろで、どさり、と音がした。


 母である。母は式の前からずっと倒れる準備をしていた人で、席札を書くときも「私、当日は倒れるかもしれないわ」と言っていて、本当に倒れた。父が母を抱えて、抱えたまま私に「続けなさい」と言った。父は一度言ったことを変えない人なので、続けた。父は母を席に座らせ、座らせた母が滑り落ちないように、肩を押さえて立っていた。


 婚姻書が運ばれてきた。


 花嫁の欄に、私は自分の名前を書いた。隣の欄は空白である。神官が花婿の欄を見て、ペンを見て、私を見た。


「……ラヴァル様。花婿の署名のない婚姻書は、成立いたしません」


「存じております」


「当教会では、片方の署名のみの婚姻書は、一年のあいだお預かりいたします。一年のうちに花婿欄に署名があれば成立、なければ破棄、という決まりでございます。……それで、よろしゅうございますか」


「よろしゅうございます。一年、お預かりください。……席は、一年だけお待ちいたします」


 神官は婚姻書を閉じた。閉じた音が、三百人の静かな教会で、思ったより大きく鳴った。


 鳴ったあとに、右の前列で、人が立った。


 侯爵である。


「神官殿。花婿の席が空いた理由は、これか」


 侯爵は手を出した。テオ様が、箱を片手に持ち替えて、空いた手で胸元の手紙を渡した。侯爵は三行を読んだ。読むのに、三行ぶんの時間もかからなかった。


「……ロランは、本日をもって嫡男から外す。この式の恥は、モンフォール家が引き受ける。宴は、予定のとおり。費用は当家が持つ」


「もう払いました」


 と、うちの父が母の肩を押さえたまま言った。


「……では、次の式の分を」


 侯爵は座った。座ってからは、もう何も言わなかった。言わなかったが、私は「次の式」という言葉を聞いた。聞いた人は三百人いたはずだが、そのとき意味を考えたのは、たぶん私とテオ様だけだったと思う。


◆


 宴は、予定どおりに出た。


 料理は三百人分、酒も三百人分、すべてうちが先に払っていたので、出さないほうが損である。損をしないために、客は食べた。食べながら、祭壇の前から移された空の椅子を、ちらちら見た。椅子は上座の、私の隣に置いてある。席札もそのままである。


 私は席札を裏返して、母のペンを借りて、「欠席」と書いた。母よりは上手い字で書いた。


「アデル様。……その、お気持ちは」


 隣の卓の夫人が訊いた。訊いた顔は、心配半分、聞きたい半分である。


「お腹が空いております。朝から食べておりませんので」


「……そう、ですわね」


 夫人は鶏を切り分けて、私の皿に乗せてくれた。親切な方である。親切な方は、私の答えを明日には三軒に話す。三軒が九軒になるのに、三日もかからない。話すなら、腹が空いた花嫁の話のほうが、泣いた花嫁の話よりましである。


 テオ様は、私の向かいに座っていた。


 まだ箱を持っていた。


 開けたまま、両手で、膝の上に。


「テオ様。卓に置いてよろしいのですよ」


「……渡す相手が来るまで、と伺いました」


「来ませんでしょう」


「……はい。ですが、伺いましたので」


 私は鶏を食べた。食べながら、この方は、渡す相手が来るまで本当に持っているのだろうと思った。来ないのに。来ないと分かっているのに。分かっていて持っているのは、馬鹿なのではなくて、承知しましたと言ったからである。その違いが、鶏を食べている途中で、少し分かった。


◆


 ――ロラン・ド・モンフォールの、それからの話をしよう。


 男爵家の誕生会は、昼から夕方まで続いた。ミレーヌは終始上機嫌で、ロランの腕にぶら下がり、「本当に来てくださったのね」と三度言った。三度目に、ロランは少し誇らしかった。結婚式を蹴って、好きな女の誕生日に来た。それは物語の男のすることで、自分がそれをしたのだと思った。


 式のことは、考えないようにしていた。書類は後で署名すればいい。式は形式で、婚姻は書類で決まる。アデルは三年婚約して一度も文句を言わなかった女で、今日も文句は言うまい。言ったとしても、父が収める。父はいつも収めてきた。


 夜、侯爵邸に戻ると、門は開いた。開いたが、執事が玄関で待っていて、ロランの荷物をすでに持っていた。


「旦那様のお申しつけで、ロラン様のお部屋は、本日より離れに」


「……離れ?」


「離れでございます」


 離れは、先代の乳母が使っていた小屋である。乳母はもういない。小屋は、ある。


 翌朝、父に呼ばれた。父は机の向こうに座っていて、机の上には、見覚えのある三行の手紙が置いてあった。


「式には出ない、と書いたのはお前だ」


「……はい」


「出なかった式で、何が決まったかは、聞いたか」


 聞いていなかった。父は言った。花嫁は式を挙げた。空の椅子に向かって誓いを読み、婚姻書の片側に署名し、教会は一年それを預かる。そして侯爵家は、三百人の前で、嫡男を一人減らした。


「婚姻書は、まだ一年ある。署名すれば」


「お前の名を書く欄ではない。空いている欄だ。誰の名でも入る」


 父はそれだけ言って、ロランを部屋から出した。


 ロランはラヴァル伯爵家へ行った。行って、アデルに会った。アデルは客間で、いつもの、三年間変わらなかった顔で座っていた。


「アデル。署名をしに来た」


「式は、もう挙げました。花婿の席が空いていただけでございます」


「だから、その空いた席に」


「一年お待ちする、とは申しました。あなたをお待ちする、とは申しておりません」


 ロランは言葉を探した。探しているあいだに、アデルは紅茶を飲んだ。飲み終わるまでに、ロランは言葉を見つけられなかった。見つけられないまま帰った。


 帰ってから、男爵家へ行った。ミレーヌなら、と思ったのである。侯爵家の嫡男でなくなっても、ミレーヌは自分を選んだ女だ。誕生日に来てくれた、と三度言った女だ。


 ミレーヌは、応接間に出てこなかった。代わりに男爵が出てきて、申し訳なさそうな顔で言った。


「娘が、その……侯爵家のご嫡男でない方とは、お父様が許さない、と」


「私が許さないのではなく、娘が言ったのです」と、男爵は付け加えた。付け加えなくてもよかったと、ロランは思った。


 三行の手紙は、いま、侯爵の机の引き出しにある。ロランがそれを取り返そうとしたことはない。取り返しても、三百人が「嫡男から外す」を聞いたあとだった。


◆


 テオ様は、月に一度、うちに来た。


 来るたびに、指輪の箱を持っていた。侯爵に「持っていろ」と言われたのだそうである。箱は開けていなかった。閉じたまま、卓の上に置いて、お茶を飲んで、帰る。


「まだ、渡す相手が来ません」


「そうですか」


 来るたびに、この会話だけはした。ほかの話をしたのは、春に一度と、夏に二度である。


 夏の二度目に、少しだけ長く話した。テオ様が、辺境で砦を預かっていたときの話である。冬に補給が途絶えて、百人の兵と三十日、塩と干し肉だけで過ごした。その話を、テオ様は「塩が足りませんでした」の一言で済ませた。済ませたので、私は「どのくらい」と訊いた。「……樽で三つ」と答えが返ってきた。三つ足りない塩の話を、この方は三十日分知っているのだと思った。知っていて、一言しか言わない。


 秋に、侯爵がテオ様を養子にして、嫡男に据えた。ロラン様は離れにいる。離れから出てきたという話は、聞かない。


 冬の初めに、神官から手紙が来た。預かりの期限が、春に切れると。


 その手紙を読んだ日の夕方に、テオ様が来た。月に一度の日ではなかった。箱を卓に置いて、今度は、開けた。


「……渡す相手が、来ました」


「どなたが」


「私です」


 承知しました、と言った人が、一年かけて承知したのである。私は紅茶を飲んだ。飲み終わるまで、テオ様は箱を開けたまま待っていた。この方はいつも、私が飲み終わるまで待つ。待てる方なのだと、一年で分かっていた。


「席は空けてございます、と申しました」


「……伺いました」


「あなたの席です」


◆


 二度目の式は、春に、同じ教会で挙げた。


 同じ椅子を使った。右の椅子に、今度は人が座っている。席札は母が書き直した。書き直しても下手だったが、名前は正しかった。「テオ・ド・モンフォール」。


 客は百人に減らした。前の式に来た三百人のうち、前の式のことを笑わなかった方だけを呼んだら、百人になった。


 神官が、経典を開いた。開いて、私を見て、右の椅子を見た。


「……花婿は」


「出ます」


 テオ様が、神官の言葉が終わる前に答えた。答えが早すぎて、神官が少し笑った。三十年で初めて笑ったのだと、あとで聞いた。


 誓いの言葉は、両側から返事があった。指輪は、箱から出た。一年近く、閉じたままだった箱が、空になった。テオ様は空の箱を介添人に渡して、渡してから、少し手を見た。持ち慣れた物がなくなった手である。


 婚姻書の花婿欄に、テオ様が名前を書いた。空いていた欄が、埋まった。神官はそれを閉じて、今度は、小さな音しかしなかった。


 母は、倒れなかった。


「倒れる練習を、してきたのに」


 と、宴で母が言った。言った母の隣で、父が「練習は要らない」と言った。父は一度言ったことを変えない人なので、母はたぶん次の機会まで練習を続ける。次の機会があるかどうかは、知らない。


 空の椅子は、教会に返した。席札は、二枚とも私が持っている。一枚は裏に「欠席」と書いてあって、一枚は書いていない。並べて引き出しに入れてあるのは、たまに見ると、母の字がどちらも下手で、少し笑えるからである。


 結婚式には出る、と仰いましたので、今度は席を空けませんでした。


(了)

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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