文字の力
ラタが火打石で火を熾すのを横から覗きながら火種の保ち方を教わる。
先ほどラタと話していた男は、この辺りの山の民の代表だそうだ。
多少文字を書ける彼は、山踏み――山の様子を確認するための山歩きの結果をまとめて、これから村へ下りるところだという。
村に降りるのは慣れた者でも一日がかりだそうだ。
「ラタは読み書きできないのか」
「できない」
平民の識字率はそんなに高くない。
山に住んでいるラタが読み書きができないのは普通のことだ。
カイルは前のめりに提案する。
「じゃあ、俺が教えようか?」
読み書きはラタの生活に有利だろうし、これならカイルも役に立てる。
それに、ラタが字を書けるようになれば、先に救援の手紙を出してもらえるかもしれない。
名案だと思ったのに、ラタの反応はそっけないものだった。
「なんのために」
「なんのためって……色々便利だろ、読み書きできた方が」
ラタは暖炉の火に視線を戻して、火に細い枝を放りながら、ゆっくりと考えを巡らせるように答えた。
「……金持ちが誰かをだます道具に、よく使ってるよな」
思いがけない言葉にカイルは目を見開く。
「文字が使えると、紙一枚で、人の土地を取り上げたり、罪人にしたりできるんだろ。
役人が、仕事をさせる前に指紋をとるけど、後から『これにはこう書いてある』とか『そんなことは書いてない』とか言われる」
「――そんなんじゃねぇよ!」
あまりに酷い認識に、言葉が乱れる。
「文字はそんなことのためにあるんじゃない。
考えとか、発見とかを残したり、会えない人に言葉を伝えたり、昔の人から学んだり、そういう、……便利で、すごいもの、の、はずだ」
ラタはぱちぱちと目を瞬いてカイルを見つめ、また少し考える風にした。
「……それは、お前が金持ちだからだ」
「金持ちだとかどうとか――」
「おれが字を覚えても、書くものも持ってないし、読むものもない」
突きつけられる現実に、言葉に詰まる。
ラタの言うとおり、本は山の民が容易く手に入れられるようなものではなかった。
「……でも、読めないとさっき言ったみたいに、取引で騙されたりするじゃないか」
「役人に仕事をさせられるのなんか、年に一回くらいだ。別にいい」
「……そうか」
ラタの言うことは正しい。
山では、年に一回の取引のために文字を勉強するより、魚の一匹でも獲っていた方が有用なのだ。
死にかけた今なら、それが命運を分けることすらあると分かる。
カイルは、文字がどれほど人を自由にするかを知っている。
その便利さも、楽しさも、美しさも。
この少年がそれを選ぶことすら許されない場所に立たされている現実に胸が沈んだ。
あからさまにしょげてしまったカイルに、ラタは少し困った顔で膝の上で頬杖をついていたが、やがておもむろに立ち上がった。
部屋の隅の箱から埃を被った何かを引っ張りだし、カイルに差し出す。
「読むもの、あった」
なめした白樺の樹皮を何枚も重ね、細い革紐で束ねたもの。
「じいちゃんの。草の名前とか、書いてあるんじゃないか」
受け取って捲ると、不揃いな文字と、簡素だが要点を押さえた植物の絵が並んでいる。
「ラタのお祖父様は、字が書けるのか」
「それが字なら」
「お祖父様は字を教えてくれないのか」
「だいぶ前に死んだ」
「……そうか」
捲るたびに、ぺらりぺらりと固い音がする。
余白を惜しむような端的な記述だ。
山の植物について、川の増水について、金物の交換レートについて。
カイルはずっと気になっていたことを思い切って聞いた。
「……ラタは、ここでひとりで暮らしてるのか?」
「うん」
「大変だろ。それなのに、なんで俺のこと助けてくれたんだ」
「春だから」
ラタはカイルのシャツを手にとり、暖炉の前に広げ始める。
それを見てカイルは自分が毛布一枚の下は裸であったことを思い出し、その間の抜けた姿で熱く語ってしまったことに顔をしかめた。
「……春だから、って、どういう意味?」
「鳥とか、とれるだろ。
草も増える。
しばらくなら、ひとり増えてもなんとかなると思って」
「……じゃあ、もし、冬だったら」
「助けない」
淡々とした言葉がひどく現実的で、背筋にひやりとしたものが走る。
カイルが今生きているのは、たまたま今が春だったから、ということだ。
「……なんで、最初はあんな怖いこと言ってたんだ。その、殺してやる、とか」
「金持ちは、山狗に助けられるくらいなら死にたいだろうと思って」
カイルは息を呑む。
暖炉の火が、ぱちりと小さく弾けた。
ラタはなんでもないことのように続ける。
「山狗が金持ちに触ったら袋叩きにされるって聞いてたから、初めは近寄らないでいようと思ったんだ。
でも、長く苦しいの、かわいそうだろ」
山狗。山の民を指す蔑称だ。
鳩尾に落ちる衝撃に握りしめた拳が震える。
「……自分のことを、そんな風に呼ぶなよ!」
山の民がいなければ人が山と共生していくことは難しい。
そんな彼らを差別する人間が多いのは、日常を生きるうえで、そうした方が都合が良いからにすぎない。
カイルは祖父や父にそう教えられてきたし、カイル自身もそう思っている。
「ラタも俺も、生まれが違うだけで、何ひとつ変わらない人間だ。
どこの頭の悪い奴が考えたのか知らないけど、なんなんだ、山狗って。
耳が生えてる訳でも尻尾がある訳でもないだろ。
――御伽話の、鱗持ちとかじゃあるまいし」
鱗持ちとは、この国の人間が幼い頃に聞かされる御伽噺だ。
その名のとおりに肌に硬い鱗を持ち、人の形をしているのに人の心を持たないと言われる人外のもの。
本当に実在するのかは分からない。
カイルにとっては、想像するだけでも気味が悪く、子どもの頃の恐怖が蘇る得体の知れない存在だった。
ラタは一瞬手を止め、また黙って布を伸ばす。
洗濯物を干し終えて、暖炉に新しい薪を焚べる。
「……ふうん」
低く、気のない声。
その声に、カイルは自分が無意識のうちに違う反応を期待していたことに気付き、恥ずかしくなって口を噤む。
差別を否定したことへの、感謝や尊敬や、あるいは「理解者」を見つけた安堵――そんな反応を。
(馬鹿か、俺は。何も褒められるようなことじゃない。人として、当たり前のことだ)
火を整えたラタが、カイルを一瞥もしないまま小屋を出ていく。
小屋の裏手から軽妙な薪割りの音が聞こえ始める。
カイルは今度こそ失敗はすまいと、じっと暖炉の火を睨んだ。




