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捨てられ貴族と山暮らしの少年  作者: 花鶏
§ カイル・ブレア §
26/39

ヘイミッシュ


 太陽が傾き始め、町の喧騒も少し落ち着いてきた。


 潮の匂いと、干物と、香辛料と、魚の焼ける匂い。

 船が入るたびに荷が降ろされ、馬車が出ていく。

 怒鳴り声と値段交渉があちこちから聞こえてくる。

 今日の署名仕事が終わったので、カイルはあてもなく港の通りを歩いていた。


 町歩きは好きだ。

 帳簿の上の数字とはまた違う、「商売」の匂いがする。

 角を曲がったところで見覚えのある背中が視界に入る。


 背が高く、黒い外套を羽織った男。


「……ヘイミッシュ」


 向こうも気づいたらしく、ゆっくり振り返った。


「……坊ちゃんじゃねぇか」


 男は軽く片眉を上げる。


「生きてたんだな。地獄の橋渡しに駄賃でも掴ませて帰ってきたのかい?」

「なんのことかなぁ。俺はカイル・ブレア。最近グランフォード商会に入った、働き者の新米商人だよ。よろしくね」


 男はくくっと低く笑う。


「まぁ、余計な詮索をしないでほしいのは、お互い様か」


 内心では慎重に男の反応を見ながらも、カイルは呑気に笑ってみせる。

 この男との会話は、いつもそれなりに緊張する。


「あんた、なんで港にいるの?」

「俺だって色々仕事があるんだよ」


 巻きタバコを燻らせてヘイミッシュは肩をすくめた。


 領都でたまに顔を合わせる男だ。

 身なりはそこそこ、顔立ちは穏やかそうなのに、目だけがやけに鋭い。

 何年も前にお忍びで出歩いていたとき、暇つぶしに入った酒場でチェスを指したのがきっかけだった。

 勝ったり負けたりしているうちに気に入られ、相手をしてくれるようになった。


 この領の裏社会の元締めだと、カイルはなんとなく察している。


 お約束のように適当な酒場に入り、チェス台を出してもらう。

 チェスをやっている時間が情報交換の時間だと、暗黙の了解がある。


「なんかね、偽造貨幣が出回ってるらしいんだよ」

「俺じゃねぇ」

「あんたなら、もっと上手くやると思ってるよ。なんか知ってる?」


 ナイトが跳ねて駒が取られる。


「十年前ならまだしも、今は技術がないと割に合わねぇ。冶金と錬金術……この辺に強いのは南の奴らだな」

「なるほど」


 カイルはポーンを進める。


「他に何か面白いことある?」

「他にか……グレイ商会が、最近、羽振りがいいな。陶器だけであんな儲かるわけがねぇんだが」

「へぇ。なんか表でできないことやってるのかね」

「坊ちゃんとこが運送やってるだろ」

「え、そうなの?」


 ヘイミッシュがエールを煽り、ふうっと息を吐いた。


「……ガキをふたり、厨房にでも入れられねぇか」


「またぁ? 何歳?」

「分からん。六歳くらいかな」

「あんた、大人には容赦ないのにな」

「ガキと動物は可哀想だろ。

 坊ちゃんたちは、綺麗事ばかり言う割に、誰もガキどもを拾ってくんねぇ」


 カイルは小さく息を吐く。


「そうなんだよねぇ……」


 カイルはきっと、飢えている子どもがひとりなら助ける。

 ふたりでも、三人でも助けるだろう。


 だが、何百人もいる子どもに差し伸べる手は持っていない。


「ねえ、ヘイミッシュって本業なんなの? 情報屋?」

「あぁ? 俺ぁ、金になるなら何でもするぜ。ガキ殺し以外はな」

「怖……俺、まだまだ子どもだから、変な依頼きても見逃してね?」


 上目遣いで可愛こぶってみせると、ヘイミッシュが喉の奥で笑った。


「厚かましいなぁ。俺にチェスで勝ってるうちは、子どもに入れといてやるよ」

「ありがとう」


 カイルはたんっと高い音を立ててナイトを置く。


「チェックメイト」

「……くそ……またか」

「最近弱くない?」

「うるせぇ」


 カイルは笑いながら立ち上がる。


「厨房かどうかは分かんないけど、ふたりなら貰っとくよ。明日の朝、商会に寄越して」

「毎度あり」


 短く視線を交わし、ふたりは別れた。


 人が集まると思惑が渦巻き、弱い者から飲み込まれていく。


 金があれば何でもできる。

 金がなければ、選択肢はない。

 金さえあれば、誰かを助けることもできる。

 分かりやすい世界だ。


 通りの端の小さな雑貨屋で、痩せた少年と太った男が騒いでいる。

 売掛伝票を握りしめて支払いを求める少年に、男が難癖をつけている。少年が伝票の文字を読めないことを知って値切ろうとしているようだ。


 カイルは横から伝票を取り上げた。


「銀貨三枚と銅貨七枚。五月分。……ダサいことしてないで払ってやれよ」


 周囲の視線が一斉に集まった。

 ツケを踏み倒す人間は、信用を一気に失う。

 男は顔をしかめ、「……今日は金がねぇんだ」とだけ言って、そそくさと去っていった。


「ありがとう、にいちゃん。

 そんなぱっと読めるなんて、頭いいんだなぁ!」


 笑って伝票を返しながら、カイルは少しだけ考える。


(……ラタも、役人に仕事をさせられるたび、こんな風に困ってたのかな)


 読めないというだけで、言い返せない。

 正しいかどうか、自分で確かめられない。

 それだけで、簡単に損をする。


 なのに何故彼らは学ぼうと思わないのか。

 それがカイルには全く理解できない。


 カイルにとってはヘイミッシュの思考の方が、余程馴染みが良かった。



 商会の建物に戻ると、使用人の女が子どもを連れて帰るところだった。

 カイルはそれを捕まえて、町で買ってきた蜂蜜の小瓶を渡す。


「差し入れ。あのね、明日から六歳くらいの子をふたり、下働きに入れたいんだ。もしかしたら先に洗ってやらないといけないかも。面倒だけどごめんね」


 女は目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。

 小瓶を鞄にしまい、頭を下げて建物を出ていく。

 足にまとわりつく子どもが鞄を漁ろうとして女に叱られる。


「こら! そんな悪いことする子は鱗持ちになってしまうわよ」


 昔からどこでも聞く、子どもへの脅し文句だ。

 特に意味のない、子どもを黙らせるのに便利な言葉。


 いちいち指摘する気にもなれず、かと言って気にしないこともできず、心に澱が溜まってゆく。


 用意されていた夕食は味の濃い煮込みだった。

 塩と脂が強い。

 少し食べて手が止まる。最近どうも濃い味が重い。

 ずっと物足りないと思っていたはずなのに、山で食べていた、あまり美味しくなかったはずの薄味が恋しかった。


 一度自分で似たものを作ってみたが、それも美味しくはなかった。


(何が違うんだろ……)


 皿を置いてカイルは小さく息をついた。


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