山を降りる日
山を下りる道は、思ったよりもなだらかだった。
荷物は最低限。
布袋がひとつと、背負子に少しだけ。
全部ラタが背負ってくれる。
ラタが前を歩く。
いつも通りの足取りで、振り返りもしない。
「ここ、滑る」
「蛇がいる」
「疲れたらすぐ言え」
普段と同じように必要なことしか言わない。
世間話も、名残惜しさもない。
変に感傷的にならないのがいかにもラタらしかった。
歩き疲れてへとへとのところで断崖の山梯子を下る。
ラタの言うとおり、変に意地を張らずに体力を温存しながら歩いてよかったと、自分の判断を褒めた。
山裾の古い礼拝堂が見えてくる。
崩れかけた石壁と、半分落ちた鐘楼。
何年も刈られていない下草が風に靡いている。
その手前に人影が見える。
旅装束の、目立たない色の外套を着た四人の男たち。
木陰には馬が繋いである。
男たちはカイルを見つけて駆け寄って来た。
見知った顔だ。
グランフォード家の筆頭家士と、従士が三人。
「お迎えに上がりました、カイル様」
「よくぞご無事で」
その呼び方に、現実が追いついてくる。
「……早いな。聖アルドゥインの日、明日だよな?」
「万が一にもすれ違うわけにはまいりませんので」
「バルモアめ。グランフォード本家の方に手を出すとは、」
「こらこら。大きな声でそういうこと言わないの」
カイルは従士の頭を軽く小突く。
家士がカイルの元気そうな顔を見て安堵の息をついた。
「急ぎ、支度を整えます。
すぐに立ちましょう。
お怪我の具合はいかがですか」
「大丈夫。山を自分で下ってきた」
「さようで。……少し、おやつれになられましたな。
こんな山で、碌な食べ物もなかったことでしょう」
その言葉を聞いたカイルは、筆頭家士の頭に力いっぱい手刀を落とした。
「いくらお前でも、俺の恩人に失礼なこと言うのは許さない。
俺は、ラタの愛情料理がもう食えないのが悲しい」
家士は頭を摩りながら、後ろにいるラタに視線をやる。
カイルとラタを見比べ、一瞬気まずそうにしてから、ラタの前へ進み出た。
白髪の混じる頭を深く下げる。
「わたくしどもの大切なカイル様をお助けいただき、ありがとうございます。
子爵様にしかとお伝えし、いずれ必ずご恩に報いましょう」
家士の言葉に返事もせず、ラタはカイルの隣でぽつりと言う。
「……おまえ、領主の息子だったのか」
「ただの金持ちだよ」
嘘ではない。
グランフォード家は王都で権勢を振るう家でもないし、軍を抱えているわけでもない。
祖父が人格者として名を残し、父親が商売で金を増やしたのでそれなりに名は通っているが、それだけだ。
カイルの足が乗馬に耐えることを確認し、従士たちが馬の支度を始める。
革の軋む音。
金具の触れ合う音。
それが止んだ時が、別れの時間だ。
礼拝堂の石段にふたりで並んで腰掛ける。
カイルは首元に手をやり、鎖を外してメダルを引き抜いた。
少し厚くて、大きさの割には重い、カイルの身分を証するもの。
「あいつらに会えたから、とりあえず要らなくなった。
あげるよ。
裏に俺の名前が彫ってあるから、好きに使って。
銀だから、何かあったら売れば良い」
ラタは黙って受け取り、表に掘り込まれた家紋と、裏に掘り込まれたカイルの名を眺める。
「……知らない字だ」
「え?」
そんなばかな、と覗き込む。
流れるような線で、確かに『Kyle Granford』と書かれている。
(あ、しまった、筆記体だ)
そこまでは教えていない。
「あー……これは筆記体っていう、なんていうか、なんとなくかっこいい字。
よく見ると似てるだろ?
使い方は一緒」
「なんでかっこよくない方を教えたんだ」
「いや、かっこいいっていうか、気取ったっていうか、かっこいい風っていうか……教えた字の方が、使う人多くて便利だよ!
お祖父様だって、あっちを使ってたろ」
カイルの言い訳に、ラタは目をぱちぱちと瞬いて、納得した風にメダルに視線を戻した。
「まあ、そうか」
「そう! それに、筆記体はくにゃくにゃしてて書くの難しいから」
ラタの眉が僅かに寄る。
「難しくない。これくらい、見本があれば書ける」
しゃがみこんで、地面の石を退け、砂を平らに平す。
メダルと見比べながら、白い砂に慎重に線を引く。
『Kyle Granford』。
褐色の指先が、少し辿々しく、けれど正しくカイルの名を綴ってゆく。
最後の d を書き終えてラタは顔を上げた。
「ほら」
「……うん。一回めでこんなに書けるやつ、そういない。
上手い。持って帰りたいくらいだ」
手放しの賞賛に、ラタは得意げに少し口の端を上げた。
山の匂いがする風が吹く。
風に揺れる草の音、高く青い空。
捨てられて、もう死ぬのかとぼんやり見ていた二ヶ月前の空を思い出す。
「……ほんとに、何もかも、ありがとな。
落ち着いたらお礼に来るから。
期待して待ってて」
「べつに、そんなのはいい」
いつもどおりの素っ気ない反応にカイルは笑う。
「カイル様」
従士に呼ばれて馬に跨る。
視界が高くなり、世界が遠くなったように感じた。
「じゃあ、行くよ。ラタも気をつけて帰って」
「ん」
護衛が先導し、馬が歩き出す。
振り返ると、ラタはすでに背を向けて山への道を引き返していた。
カイルは前を向いて、山を背にする。
少しだけ滞在を伸ばせないか、などと考えてしまう自分に苦笑する。
そしてカイルは、町へ続く道をまっすぐに進んだ。




