洗濯
熱が下がったとはいえ、まだラタは病み上がりだ。
カイルは人生で初めての洗濯に挑戦することにした。
考えてみれば、足が良くなってきた時点で、自分の洗い物くらいするべきだった。
作業場の端に置かれた古びた大樽から、大きめの盥に雨水を移す。
溜まっていた洗濯物をまとめて灰汁につける。
「……こうか?」
「そんなに強く擦らなくていい」
しばらく横で指導していたラタは盥の向かいに陣取り、長袖を捲り上げる。
視線が、どうしてもそれに吸い寄せられる。
陽光を浴びたラタの腕。
肘から先を覆うそれは濡れたことで艶を増し、青が深くなる。
水しぶきを弾いて虹色の光沢を放っていた。
(……本当に、鱗だなぁ……)
なんとなく、鱗持ちは身体中が鱗で覆われていると思っていた。
ラタの鱗は前腕と、あとは肩甲骨の辺りに少しあるだけだ。
こうして明るい陽の下で見ると、それは想像以上に精緻で、濡れた瑠璃色が美しかった。
「鱗が気になるのか」
「……ごめん」
俯いて手を動かし始めるカイルに、ラタは首を傾げる。
「触ってもうつらない」
「そんなこと誰も思ってないよ」
「思ってるやつの方が多い」
その言葉にカイルは目を見開く。
「……他にも、このことを知ってるやつがいるのか?」
「山の人間は、だいたい知ってる」
「……そうなのか。山の民は、町の人間より鷹揚なんだな」
グランフォードの町で鱗持ちが現れたりすれば、きっと大騒ぎになる。
おそらく着の身着のまま町から追われてしまう。
触ったらうつると思われているにもかかわらず、山を追われるようなことはないと知って安心した。
山の民の方がよほど人間ができているな、そう内心で感心するカイルをラタはちらりと見て、手元に視線を戻す。
「山だって同じだ。
たぶん、おれを捨てなかったせいで、じいちゃんは群れから出された」
淡々と話すラタは、鱗のある腕を冷たい水の中にざぶざぶと突っ込んでいる。
「でも一応おれも山の人間だから、みんな、村の人間には黙ってくれてる。
村でばれたら、きっと袋叩きになる。
他のものはなんとかなるけど、塩が手に入らないと、たぶん死ぬ」
褐色の腕が力強く布を絞り上げていく様子を見ながら、ラタの話をカイルは黙って聴く。
「おれは、たぶん、人より少し丈夫だ。
おれが生きてると、役人の持ってくる危ない仕事を任せられる。
山の人間には、便利なんだ」
――指が冷たくなっていくのは、盥の水が冷たいせいなのだろうか。
ラタは普段は短い文で話す。
だが、説明が苦手なわけではない。
カイルが理解していないと気づけば、ひとつづつ積み重ねるように整然と語る。
それはいつも、悲しいほどに正しく現実を見ていた。
仲間に入れず孤立させているくせに、便利なときだけ都合良く使う。
山の中にも、平地と同じように、偏見と迫害と理不尽がある。
――それは、人が人である限り、なくならないものなのかもしれない。
カイルは元から、下層の暮らしをしている人が必ずしも能力的に劣ってはいないと知っていた。
気の毒に思いながらも、そこから抜け出す努力をしないのは怠惰だと、どこかで思っていた。
だがラタと暮らしていると、努力する手段すら持たない人もいると、痛いほど分かる。
洗い桶の水面を眺めていて、ふと、思考より先に口が動いた。
「ラタ。俺と、グランフォードに来ないか」
そうだ。この山が安全でないなら連れてて帰ればいい。
「グランフォード領はバルモア領みたいに山の民に無茶振りしない。
ラタのことを知らない人たちの間でなら、群には入れなくても今よりは」
少なくとも対等にやりとりできるだろうし、役人の持ってくる危ない仕事を押し付けられることはない。
グランフォード家は山の民に無茶振りはしないが、口が出せないわけでもない。
何かあればカイルを頼ってもらえれば。
「行かない。
山の人間は、山ならどこでも暮らせるわけじゃない。
育った山のことだけ、少し知ってるから、生きていけるんだ」
「なら、うちに来いよ。
ラタひとりくらい、俺がどうにかする」
使用人として雇うでも、客分として囲うでも、理由なんて後からいくらでも付けられる。
なんなら新しく身分を作ることもできる。
ラタは勤勉だし利発だ。
もしかしたらうちで働いてる使用人たちより仕事もできるようになるかもしれない。
いや、仕事ができるかなんてどうでもいい。
「何かやってみたいことがあるなら、手配するし――」
「いらない。行かない」
頑なな答えに少し苛つく。
「あのな、山の民だって、普通はひとりでなんか暮らしてないんだろ?
山でひとりなんて、やっぱり大変すぎる。
心配しなくても、うちに山の民を疎ましく思う人間はいない」
素晴らしい提案のはずなのに、何かが歪んでいる気がして、それを誤魔化すようにカイルは語気を強める。
「話したことあったっけ?
うちはそんな格式ばった家じゃないから、」
「おれが、鱗持ちでもか」
「それは――」
一瞬、答えに詰まる。
父や家臣の顔が脳裏をよぎる。
ラタを知らない人間に、鱗持ちを受け入れろというのは簡単ではないかもしれない。
「俺が、なんとかするよ」
黒曜石の瞳が、じっとカイルを見ていた。
「……それでおまえは、おれを囲って、餌を与えて、ちゃんと太ってるか見にくるのか」
ラタはその少し低い声で、カイルの意識の底に隠れていた違和感を容赦なく引きずり出す。
自由はないが安全な家。
与えられる食事。
命に直結しない仕事。
町で育ったカイルの最善が、山で生き抜いてきたラタにとってはどうなのか。
カイルは胸の奥の重い塊ごと吐き出す。
「……勝手にしろ! 人が心配して言ってんのに!」
怒鳴った声がやけに子どもっぽく響いて、自分でも嫌になる。
ラタは何も言わず視線を洗い物に戻した。
ばしゃばしゃと跳ねる水で裾が濡れる。
「乱暴に洗うな」
「ごめんなさい!」
口先だけで謝るカイルにラタは眉を顰めた。
ラタを支配下に置きたいわけじゃない。
雪の夜に、ひとりで倒れて、誰にも見つからないまま死んだりしないでほしいだけだ。
息をして、飯を食って、明日の朝も元気でいてほしいだけだ。
けれどそれを叶えようとすると、どうしてもラタを囲うことになってしまう。
だってカイルは、怪我を察して山を飛び越える魔法も、冬に木の実を実らせる魔法も持っていないのだ。
灰色の水に沈む布を見つめながら、カイルは黙り込み、ままならない気持ちを洗い物にぶつけた。




